第2話:死の大地に響く、王の声
王都から北へ歩みを進めること数日。
私の目の前には、空を焦がすような赤い砂漠と、ごつごつとした岩山が続く「嘆きの荒野」が広がっていた。
かつての繁栄が嘘のように、ここには生命の気配がない。
かつては大国が栄えていた場所だと歴史書には記されているけれど、今では精霊に見放され、魔物が徘徊するだけの死の大地だ。
私の足元では、パーティーの夜に履いていた繊細なシルクの靴が、砂利に削られてボロボロになっていた。
銀髪は砂埃を被り、翡翠色の瞳には乾燥した風が染みる。
けれど、私の心は驚くほど穏やかだった。
「ふう。ようやく、誰の目も気にしなくていい場所まで来られたわね」
私は足を止め、大きく伸びをした。
背後に広がるのは、私を追放したバルデル帝国の方向だ。
あの夜、私が加護を引き上げたことで、あちら側は今頃パニックに陥っていることだろう。
精霊石が砕け、農作物が枯れ、王宮の灯りすらまともに点かない日々。
けれど、それは私が無理をして維持していた「偽りの平和」が、本来の姿に戻っただけに過ぎない。
私はゆっくりと、胸元に手を当てた。
そこには、生まれた時からずっと閉じ込めてきた、溢れんばかりの力が渦巻いている。
「……さて。いつまでも隠れている必要はないわ。出てきなさい」
私が静かに命じると、足元の影がぐにゃりと歪んだ。
王都から私を追いかけてきた無数の下位精霊たちが、待ってましたと言わんばかりに姿を現す。
光の粒が私の周りを旋回し、喜びの歌を歌うように風を震わせた。
しかし、私が求めているのは彼らだけではない。
「そこ。いつまで様子を伺っているの? 契約の義務を果たしなさい」
何もない空間に向かって、私は毅然と言い放つ。
次の瞬間、世界が静止した。
砂嵐がぴたりと止み、熱を帯びていた大気が一瞬で凍りつくような冷気に包まれる。
荒野のど真ん中に、漆黒の亀裂が走った。
「……ははっ。随分と手厳しい呼び出し方だな、我が主よ」
低く、耳朶を震わせるような声。
亀裂から這い出してきたのは、夜の闇を凝固させたような黒髪と、爛々と輝く金の眼を持つ青年だった。
彼こそが、この世のすべての精霊を統べる存在。
精霊王、ライゼルだ。
「ようやく、その忌々しい人間の男を捨てたか。あんな矮小なゴミのために、俺との契約を封印し続けていたお前の気が知れなかったぞ」
ライゼルは傲慢な笑みを浮かべ、砂の上に跪いた。
そして私の手を取り、ボロボロになった靴を、まるで宝物に触れるかのように恭しく見つめる。
「俺が与えた力をあんな国のために浪費し、挙句に泥道を歩かされるとは。エレナ、お前はもう少し自分の価値を知るべきだ」
「余計なお世話よ、ライゼル。私はただ、平和に暮らしたかっただけ。けれど……そうね、もうやめたわ。これからは自分のために、この力を使うことに決めたの」
私はライゼルの金の瞳を真っ向から見据えた。
彼は一瞬だけ目を見開いた後、歓喜に震えるような深い笑い声を上げた。
「いい、最高の決断だ! それでこそ、俺が唯一認めた『愛し子』だ」
ライゼルが立ち上がり、指をパチンと鳴らす。
その瞬間、轟音と共に大地が揺れた。
私が立っていた岩場が隆起し、砂漠の砂が宝石のような輝きを帯びて結晶化していく。
枯れ果てていた地底湖が、私の足元から溢れ出した純粋な魔力によって一気に満たされ、噴水のように天高く舞い上がった。
わずか数分の間に、死の荒野の一部が、目も眩むような美しいオアシスへと変貌を遂げたのだ。
それだけではない。
中心部には、透き通った水晶で造られたような、壮麗な宮殿がその姿を現した。
「嘆きの荒野を、俺たちの帝国の始まりの地にしよう。エレナ、お前は今日からここを治める女帝だ。俺はその隣で、お前を害する不届き者をすべて灰にする守護者となろう」
ライゼルは私の腰を引き寄せ、耳元で甘く囁いた。
彼の一人称は「俺」であり、その態度はどこまでも不遜だ。
けれど、その金の瞳に宿る熱は、私という存在に対する狂信的なまでの忠誠心だった。
「女帝、ね……。悪くない響きだわ」
私は差し出された彼の手を、しっかりと握り返した。
もう、無能なフリをして誰かに媚びる必要はない。
私を裏切り、泥を投げつけた人々が、後悔で顔を歪める日が楽しみだ。
「ライゼル、まずはこのボロボロの靴をなんとかして。それから、美味しいお茶と食事が欲しいわ。歩き通しで疲れているの」
「仰せのままに。お前の足に触れるのが砂利ではなく、世界最高の絨毯であるように、今すぐ整えよう」
ライゼルが再び指を鳴らすと、私の衣服が光に包まれた。
砂埃に汚れたドレスは、精霊の糸で編まれた最高級の絹に変わり、ボロボロの靴は、歩くたびに微かな魔力を放つ美しいガラスの靴へと姿を変えた。
私は一歩、新しく生まれた宮殿へと足を踏み入れる。
背後で精霊たちが、新しい主の誕生を祝って、荒野にはあり得ないはずの虹を空に架けた。
バルデル帝国のジュリアン殿下。
あなたが捨てた「無能な妻」は、今、あなたの手の届かない高みへと昇り始めました。
これから始まるのは、私のための物語だ。
私は自分の意志で、この世界を塗り替えていく。




