第1話:仮面の終わりの夜
シャンデリアの光が、まるで誰かを嘲笑うかのようにギラギラと会場を照らしていた。
バルデル帝国の王宮で開催された、建国記念パーティー。
本来ならば華やかな祝祭の場であるはずのそこは、今、凍りついたような静寂に包まれている。
その中心に立っているのは、私、エレナ・フォン・ロゼリアだ。
そして私の目の前には、この国の第一皇太子であり、私の夫であるジュリアン・バルデルが立っている。
彼の腕には、ひどく怯えた様子で震える男爵令嬢のセフィラがしがみついていた。
「エレナ。たった今、君との婚姻関係を解消することを決定した。君のような無能で、あろうことか嫉妬に狂って聖女たるセフィラを毒殺しようとした悪女は、我が妃に相応しくない」
ジュリアンの声は、よく響いた。
会場に集まった貴族たちの視線が、一斉に私に突き刺さる。
蔑み、同情、そして明らかな嘲笑。
それらの視線を受けながら、私はただ静かに彼を見つめ返した。
「毒殺未遂、ですか。身に覚えのない罪ですが、殿下の中ではすでに結論が出ているようですね」
「白々しい! 証拠ならあがっているのだ。セフィラの飲んだ茶に、君の領地特有の毒草が混入されていた。これを君の仕業と言わずして何と言う!」
ジュリアンは勝ち誇ったように叫ぶ。
その隣で、セフィラがわざとらしく肩を震わせた。
「……エレナ様、私はあなたのことをお姉様のように慕っていましたのに。どうして、どうしてあんな恐ろしいことを……っ」
彼女の目から、真珠のような涙がこぼれ落ちる。
その演技力の高さには、思わず拍手を送りたくなった。
彼女が自分で毒を盛り、私に罪をなすりつけたことは明白だ。
けれど、今のこの国で私の言葉を信じる者は誰もいない。
なぜなら、私はこの国で「無能な悪役令嬢」として通っているからだ。
バルデル帝国では、精霊の力を封じ込めた「精霊石」をどれだけ扱えるかが個人の価値を決める。
私は公爵家に生まれながら、一度も精霊石を起動させたことがない。
だからこそ、周囲からは石の力すら使えない無能だと蔑まれてきた。
けれど、本当は違う。
私に精霊石が使えないのは、石の中に閉じ込められた精霊たちが、私を恐れて萎縮してしまうから。
そして何より、私自身が石というフィルターを通さずとも、精霊そのものと直接対話できてしまうからだ。
私はかつて、ジュリアンを愛していた。
彼が私との政略結婚に悩み、皇太子としての地位を盤石にするために「力」を求めていることを知っていた。
だからこそ、私は目立たないように自分の力を隠し、陰ながら彼を支えてきたのだ。
私がそばにいるだけで、この王宮には豊かな精霊の力が満ちる。
農作物は実り、気候は安定し、病を治す精霊石の出力も跳ね上がる。
それらすべては、私が無意識に放っていた「加護」のおかげだった。
けれど、彼はそれを自分の実力、あるいはセフィラがもたらす幸運だと思い込んでしまったらしい。
「左様でございますか。殿下がそこまで仰るのでしたら、私に異存はございません。離縁、謹んでお受けいたします」
私はドレスの裾を掴み、完璧な動作でカーテシーをした。
感情を殺した私の態度に、ジュリアンが苛立ちを見せる。
「……ふん、殊勝なことだ。だが、ただで済むと思うなよ。公爵家からも除籍が決まっている。お前のような無能に、これ以上我が国のリソースを割くわけにはいかない。今すぐ着の身着のままで、北の嘆きの荒野へ追放とする」
「嘆きの荒野、ですか。あそこは魔物が溢れ、草一本生えない死の大地と聞いておりますが」
「無能な悪女にはお似合いの場所だろう。精霊に見放されたお前が、あそこでどう朽ち果てていくか……せいぜい楽しみにしているよ」
ジュリアンは残酷な笑みを浮かべ、セフィラを抱き寄せた。
セフィラはハンカチで口元を隠しながら、私にだけ見えるように勝ち誇った笑みを向けた。
私はふう、と小さく吐息をつく。
ようやく終わるのだ。
この男のために自分を殺し、無能な女のフリをして、精霊たちの声を無視し続ける日々が。
「わかりました。それでは、退去する前に一つだけ。私は自分の持ち物をすべて引き上げさせていただきます。殿下には不要なものばかりですので」
「ああ、好きにするがいい! 宝石だろうがドレスだろうが、持っていけるものなら持っていくがいい。ただし、今この場で脱いでいけるものに限るがな!」
周囲から下卑た笑い声が漏れる。
けれど、私が引き上げるのは、そんな物理的なものではない。
私は目を閉じ、心の奥底で繋がっていた「糸」をそっと手放した。
それは、私がこの数年間、無償でこの国に提供し続けていた精霊への干渉権。
私という存在があるだけで周囲に降り注いでいた、目に見えない黄金の守護。
(……みんな。もう、頑張らなくていいわよ。帰りましょう)
心の中で呼びかける。
その瞬間、会場の空気が一変した。
パリン、と乾いた音が響く。
壁に飾られていた大きな精霊石のランプが、突然粉々に砕け散った。
それだけではない。
会場を温めていた魔法の熱が急速に奪われ、窓の外では、たった今まで穏やかだった夜空に暗雲が立ち込め始める。
「な、なんだ!? 何が起きた!」
ジュリアンが狼狽して周囲を見渡す。
しかし、異変は止まらない。
豪華な料理は一瞬で鮮度を失って黒ずみ、セフィラが髪に飾っていた「枯れない花」は、見る影もなくボロボロと崩れ落ちた。
「ひっ……! 私の髪が、お花が!」
悲鳴を上げるセフィラ。
当然だ。その花を咲かせていたのは彼女の魔力ではなく、私の加護だったのだから。
私は混乱する人々を背に、ゆっくりと出口へと歩き出した。
誰も私を止めようとはしない。
いや、あまりの異常事態に、私に構っている余裕がないのだ。
扉の前に立ち、私は一度だけ振り返った。
そこには、青ざめた顔で周囲を怒鳴り散らす、かつての夫の姿があった。
「さようなら、ジュリアン殿下。あなたが手放したのは、私という無能な女ではなく、この国の未来だということに、いつか気づかれるのでしょうか」
私は誰にも聞こえない声で呟き、夜の闇へと足を踏み出した。
背後で、さらに大きな精霊石の爆発音が響く。
冷たい夜風が私の銀髪を揺らす。
けれど、不思議と寒さは感じなかった。
むしろ、何年も閉じ込められていた檻から解放されたような、清々しい気分だった。
「さて……これからどうしましょうか。嘆きの荒野、でしたっけ」
馬車も用意されていない。
けれど、私には歩く足がある。
そして、この数年間、私の影の中でじっと息を潜めていた「彼ら」の気配を感じる。
暗闇の中から、数えきれないほどの小さな光の粒が浮き上がってきた。
それは、精霊たちだ。
彼らは私の周囲を楽しげに飛び回り、追放されるはずの私の行く道を、優しく、明るく照らし出した。
「ふふ、みんな、そんなに喜ばないで。これから大変なところへ行くのよ?」
私が微笑むと、精霊たちはさらに輝きを増した。
まるで、彼女が自由になったことを祝福しているかのように。
こうして私は、地位も名誉も、そして守るべき夫もすべてを捨てて、自らの人生を切り開くための一歩を踏み出した。
北の大地で、私を待ち受けているのが絶望か、それとも希望か。
それを決めるのは、私自身だ。
夜の帳が下りる中、私の姿は王都の喧騒から静かに消えていった。
それが、バルデル帝国が誇った「繁栄」の終わりの始まりであることに、まだ誰も気づいていなかった。




