邪悪なるもの
『ははははは!! 間抜けな顔だな王女よ!! そうだ、俺が見たかったのはお前がうちひしがれるその顔だ!!』
見上げるような巨竜の口から、ヒトの時と同じ声が聞こえる。
カルロだった竜は、歓喜の咆哮を響かせた。まだ意識のあった周囲の人間も悲鳴を上げている。こんなものが存在していることは知らされていなかったのだろう。
「竜の形をした呪いの塊……何を考えているの!? こんな理術、この世に存在してはならないわ!」
『はっ、誰かが決めた線引きになんて興味はないね。役に立つ理術なら何だって使うし生み出す、それだけさ』
エルマの指摘に、リーゼロッテは鼻で笑う。
『種ぐらいは明かしてあげるさ。あたしがそいつに施したのは、本人の意志に応じて肉体を変貌させる術だよ。強い肉体を得るためには、それだけ強固な意志が必要になるけれどね』
「……あんな、汚れた竜になるだけの意志……」
邪竜の全身から広がる黒い波動。本人の言動からして、その原動力を察することはできた。
憎悪だ。無尽蔵の憎悪こそが、あの怪物を生み出している。
『ああ、誤解はしないでおくれよ? その理術を受け入れることを決めたのはそいつ本人さ。あたしが強要したわけじゃない』
『そうだ、利用ぐらいいくらでもされてやるとも! この怨嗟だけが、俺を生かした……! この身が灰になろうとも構うものか! 貴様たちの全てに、報復できるならばな!!』
元より思い込みの激しかった彼は、投獄されてからの日々で、ただひとつ残されたその感情を肥大化させていった。元々が勘違いであることなど、さして意味はない。彼は本気で、そう思っていたのだから。むしろ、思い込みが物語を組み上げ、補完し、それは憎しみにひたすら燃料を注ぎ続けた。
そしてそれは、人の心には有り余るところまで膨らんでしまった。会話など、最初から成り立っていなかったのだ。男の精神はとうの昔に壊れ、変質していた。
『ソフィア様。……ああ、もういいか、そろそろ面倒だ。恨むなら獣に身を売った自分を恨むんだね! やりな、カルロ!』
『言われるまでもない。まずは……邪魔な塵の掃除からだ!』
「っ!!」
竜の前脚が、エルマに向かって勢いよく叩きつけられる。
咄嗟の結界が張れていなければ、即死だっただろう。守りを固めてなお、結界はまるで紙のように引き裂かれ、衝撃は彼女を吹き飛ばす。
「あ、ああぁ、あっ……!!」
何度も身体を跳ねさせて、エルマは遥か後方まで転がった。
ロヴィオンのすぐ近くまで吹き飛んでから、彼女はぐったりと項垂れ、起き上がらない。息はしているが、意識があるようには見えない。
「え、エルマ……!!」
『さて……』
さらに竜は、その太い尾を部屋の扉へと叩き付けた。出口は無惨に破壊され、瓦礫の山が退路を塞ぐ。
『さあ……二人きりですね、ソフィア様。ゆっくりと、ゆっくりと……思い知らせて、あげましょう』
「……っ!!」
舌なめずりをして、竜は彼女へと近付いていく。
弾かれたように、ソフィアは走った。その向かう先は出口ではなく、竜とは逆の方向。
『はっはっは! 鬼ごっこをするならば、付き合ってあげますよ。せいぜい、惨めな顔を……なに?』
無様に逃げている。邪竜も魔女も、最初はそう思った。だが、彼女が向かった先は、倒れた仲間たちの元だった。
彼女はそこで跪くと、二人の身体に手をかざす。暖かい光が、二人を包んだ。
「二人とも。どうか、目を醒まして……!!」
ひとりで逃げ切るのは不可能、ならば、今の自分にやれることは、これしかない。
そして、彼女はやはり、ロヴィオンのことも諦められない。どう見ても死に向かうしかない彼にも、等しく癒しの力を注ぐ。
己の命すら危ういこの状況で。ソフィアはまだ、何一つ諦めていなかった。
『……本当に、癪に障る。夢を見るのも大概にしなよ、お姫様さぁ?』
「あなたの、教えでしょう……? 理術は、何だってやれるのだと……! だから、私は……最後まで、諦めない……!!」
『ああ……ああ、もういい、うんざりだ。だったら、思い知りな。どれだけ夢を描こうが、どうしようもない現実があるってことをね! ……カルロ!』
『ふん……良いだろう。ならば、先にそいつらを完全に潰してやるとしよう』
彼女がふたりを救うつもりならば、あそこから動くことはない。少しずつ追い詰めるように、邪竜はゆっくりと歩みを進める。
狂いそうなほどに、怖い。それでも、ソフィアは逃げない。逃げることは、二人を見捨てることだ。
「私に、力を貸して……グレンっ……!!」
思わず口にしたのは、愛すべき男の名。
彼ならば、何にも折れない。どんな絶望的な状況でも諦めない。だから、彼女は神ではなく、彼に祈った。立ち向かう勇気を、今だけでも――。
入り口の瓦礫が、吹き飛んだ。
「え……」
『なに……!?』
「おおおおおおおおぉッ……!!」
まさに雷光のごとき勢いで、何かが駆ける。それは迷うことなく邪竜に突撃すると、その尾に爪を突き立てた。
『がっ!?』
「ソフィアに……俺の、妻に……!!」
ソフィアは、聞いた。誰よりも望んでいた声が、自分の名を呼ぶのを。
ソフィアは、見た。何よりも待ち焦がれていた男が、そこにいるのを。
「手を、出させるものか!!」
そのまま、尻尾は中ほどから両断されて宙を舞った。
邪竜が、痛みに咆哮を上げた。どす黒い血が、切断面から溢れる。
男は素早く飛び退くと、竜の眼前に降り立つ。彼女の元には行かせない、と宣言するように。
「あ……ああっ……!」
この国で最強の戦士。頂点に立つ王。そして、誰よりも信じ、愛する人。
夢のようだ。だが、確かに彼は、そこにいる。
だから、ソフィアは口を開く。求めてやまなかったその名を、叫ぶ。
「……グレン!!」
「ああ! 俺はここだ、ソフィア!!」
引き裂かれた太陽と月は、ここに集った。




