忠義の果てに
そして、地下での戦いには――ひとときの静寂が訪れていた。
「………………」
ロヴィオンが振り下ろした剣は、ソフィアを貫くことはなかった。だが、彼女は目の前の光景を、信じたくないという表情で見ていた。
何とか起き上がったエルマも、言葉を失っている。
術により膨れ上がった憎しみは、どうしようもなく止められない衝動になろうとしていた。あと少しで、自分がソフィアを殺してしまうことを、ロヴィオンは悟った。
だから、彼はその行動を取ってしまう前に、己を止めることを選んだ。
その命ごと、まとめて。
「……ごはっ」
何かを言おうと口を開いたロヴィオンだったが、言葉の代わりに溢れたのは鮮血だった。
青年の腹には、風穴が空いていた。自らの剣で貫いたものだ。力を失った手から剣が落ち、床に血が広がっていく。
「ロヴィオン!!」
その場に崩れ落ちた黒狼に、二人は駆け寄った。
力任せに振るわれた刃は、内臓もいくつか傷付け、大量の出血を招いている。かろうじて即死こそしなかったが、どう見ても致命傷だ。
「あ、あぁ……! い、いま、治療を……!!」
ソフィアは震える手で、治癒の理術を行使した。エルマもまた、己のできる最大の癒しを練り上げたが――多くの戦いを経験してきた彼女は、即座に察してしまった。
(……この、傷では。もう……)
治癒の理術は扱いが難しいうえ、決して万能ではない。命に関わるような重傷を治せるほどの術師は、世界でも限られている。エルマですら、その域には達していなかった。ソフィアも、ここまでの傷を治した経験があるはずもない。
ましてや、ここまでの深い傷では、普通の理術で治せる範疇を超えている。二人がかりの治癒術でも、ロヴィオンの傷が塞がることはなかった。出血が僅かに緩やかにはなったが、治癒するよりも早く、彼の身体から命が抜け落ちていく。
「ソ、フィ……さま……あなたに……刃……もう、しわ、け……」
「そんなことはどうでもいいわ!! 喋らないで、傷が……!!」
「エル、マ、……さ……おれ、は……もう……良……どう、か……あと、を……」
「……ロヴ、くん……」
「もう良いとは何ですか!? 何も良くない、諦めないで!!」
「……まも、れ……なかっ……やく、たたず……ごえ、い、の……しかく……な……」
「そんなことない!! 違うの、ロヴィオン、そんなことを言わないで……!!」
死の苦痛の中にあって、彼はただ、ソフィアの身を案じていた。絞り出される言葉に、どうしようもないほどの後悔を滲ませながら。
(……ああ。おれは、どこまで、愚かなんだ……あなたを、こんな、危険に……)
自分のせいで彼女が拐われたこと。守るべき主に力を振るい、命を奪いかけたこと。そして、敵地の真っ只中で、ひとり先に倒れてしまうこと。
護衛として何も果たせなかったどころか、最悪の事態を起こしかけた。薄れゆく意識を、その絶望が埋め尽くしていく。
(誰だって、何だって、構わない……。どうか……どうか、この人を、守ってくれ……この人を、死なせないで、くれ……)
その懇願はどこに向けたものか、自分自身でも分からない。それでも、願うしかなかった。すがるしかなかった。指先ひとつ動かなくなっていく中、ただ、己の恩人に生きてもらいたいと、心から願った。
(……父上……あなたの、ように、強く、なれなくて……何も、守れ、なくて……応え……られ……なく、て……すま……な、い……)
そうして最後に、そんな無念を抱き――ロヴィオンの視界は完全な黒に染まり、その身体から力が抜け落ちた。
まだ、微かに脈はある。だが、時間の問題だ。月獣の生命力であろうと、長くは保たないだろう。
「……ロヴィオン? ……ロヴィオン!! だめ、目を開けて!!」
ソフィアは叫び、さらに術を行使しようと理力を練り上げた。
だが、そんな彼女を止めるように、ソフィアの身体が風に包まれ宙に浮く。エルマの術だ、ということはすぐに分かった。
「エルマ!? 待って、エルマ!! ロヴィオンが……!!」
「だからこそ……あなたを死なせるわけにはいかないの! ロヴくんの意志を、無駄にしないためにも!!」
「ッ……!!」
エルマには分かっていた。あれではもう、助けるのは無理だ。努めて情を殺し、ソフィアを風に乗せ、部屋の入り口まで運ぼうと試みる。
その様子を見るリーゼロッテは、どこまでも無表情だった。
『いやはや、感服しましたよ。種族を越えた本物の忠誠。主君のために命を捧げる真の騎士。……反吐が出る。獣風情が、薄気味悪いもんを見せてくれたものです、全く』
「この、女……!!」
『まあ、これはこれで面白い顔が見れたので良しとしましょう。と、いうわけです。そろそろ、終わりにさせていただきます』
彼女が指をぱちんと鳴らすと、ソフィア達の前にひとりの騎士が立ちはだかった。全身をフルアーマーで包んだ男がひとり、剣を抜く。
「そこを……どきなさい!!」
大袈裟な言葉の割に相手はたった一人、このまま押し切る。そんな判断をしてしまうほどに、エルマも頭に血が上っていた。
彼女が放ったのは、嵐の刃。暴風と共に相手を切り裂く、エルマの使う中でも特に攻撃性の高いものだ。
だが男は、何を思ったか避ける素振りも見せず、それに向かって剣を振るう。
――漆黒の波動が迸った。
「…………!?」
おぞましい気配に、エルマが直感で足を止める。
黒いうねりは、そのまま嵐の刃を呑み込むと、何事もなかったかのようにかき消していった。もしも突撃したままだったら、エルマも波動に呑まれていただろう。
一目では、何が起きたかも分からない。だが、理術に長けたエルマには、これだけは分かった。あれは、あってはならないモノだと。
『……ふん。まさか本当に逃げられるつもりでいたのかい? どこまでも、おめでたい連中だね』
「全くだな。怪物に身を売った女は、頭の出来まで獣になるようだ」
騎士が言葉を発する。ソフィアは、その声がどこか、頭に引っかかるのを感じた。
親しい相手ではない。だが、確かにどこかで、印象深い場所で聞いた記憶のある声。その記憶を辿る前に、男はフルフェイスの兜を脱ぎ捨てた。
整えられた金髪の、美形と呼んでも差し支えのない、年若い男の顔。
――あの日、グレイヴァルトを身勝手な理由で襲った集団を率いていた青年。
「……カルロ……?」
「ええ。ご機嫌麗しゅう、ソフィア様」
かつてソフィアに向けていた優しげな笑顔。グレイヴァルトに向けていた敵意の表情。今の青年は、そのどちらでもない、ただソフィアを蔑むような表情でそう答えた。
ソフィアにも分かった。何かがおかしい。そもそも、彼に先ほどのような力はなかったはずだ。
「ああ。本当に、会いたかったですよ、ソフィア様。あなたに焦がれて、焦がれて、焦がれ続けていた。牢に繋がれた数ヶ月、ずっと」
「何を言っているの……!? そもそも、どうしてあなたがここに!」
『言うまでもなく、あたしが逃がしたのですよ。意外と簡単でしたよ? 彼は捕まってからと言うもの、脱け殻のようになっていましたからね。人形と差し替えても、気付かれなかった。今朝がた、ようやく発覚したようですが』
ソルファリアも間抜けですね、と侮蔑を吐きつつ、魔女は笑う。一方のカルロは、言葉とは裏腹、氷のような声で続ける。
「そうして、リーゼロッテは俺に力をくれました。俺の望みを叶えるための力を」
「望み、ですって?」
「ええ、その通りです。――俺を貶めた獣たちを、俺を裏切った貴様を、皆殺しにするという望みをなぁ!!」
そんな、身勝手極まりない言葉を叫んだ瞬間。
鎧の隙間から、無尽蔵の黒が立ち上る。
「くっ……な、何……!?」
「……この、おぞましい、気配は……!?」
二人の視界も黒に染まる。溢れる闇が、部屋中を包んだ。
そして、その中心で何かが膨れ上がっているのを、彼女たちは感じていた。ひどい寒気がする。一刻も早く逃げなければならないと理性が叫ぶ。それと同時に、あってはならないその気配に、本能で身を縮める。
何かが、動き始める。
部屋が、振動した。
ようやく、闇が晴れて、視界が開けた時。
「嘘、でしょう?」
そこにいたのは、もはやカルロという騎士ではない。
金属のようでありながら、光を全て吸い込むような黒の外殻。夜の帳を下ろしたように周囲を包む両翼。まるで大蛇のようにしなる尾。
それは一見すれば、勇壮な伝説の生物に見えるかもしれない。だが、肌で感じられる邪な気配が、全ての印象を反転させる。畏怖ですらない、嫌悪と恐怖に。
血のような紅の瞳が、ソフィアを見た。己の望みを叶えられるという歓喜に、血生臭い吐息を牙の隙間から漏らしながら。
おぞましき漆黒の竜――それが、部屋の中に顕現していた。




