絶対たる獣王
「陛下……」
「……済まない。気付くのが、遅れてしまった」
王は姫の身体を優しく抱き抱える。やはり気を張っていたのだろう、腕の中の彼女は小さく震えていた。
その様子に目を細めつつ、彼は改めて、投げ飛ばした男へと視線を移した。
「申し開きは、あるか?」
男から冷や汗が滴り落ちる。感じ取ってしまったのだ。一見すれば冷静にも見える王から放たれている、凄まじい怒りの気配を。それでも、月獣は知性を持ち、知性は本能と相反する。
「へ、陛下、あなたはこのルナグレアの王であり、この国を形作っていく存在です! そんなあなたが、人間と婚姻を結ぶことなど、許容できるものではありません!」
「だから、その前に彼女を殺そうとした、と? ……その意味を、理解しているのか。戦争の引き金にもなりかねないのだぞ」
「人間との融和などというお考えを捨てていただけるのならば、その方が望ましくすらあります!」
「考えを捨てる? ……貴様は根本を甘く見ているようだ。私はそのような事態になったとしても、己の思想を曲げる事などない」
きっぱりと言ってのけた王に、男は思い切り表情を歪める。
「何故、なのですか。陛下は、何故、人間などにそこまで……!」
「貴様は、人間を恨んでいるのか」
「我らが歴史の中で、どれだけ人間により虐げられ、命を落としたと思っているのですか!」
「それは事実だ。だが、一方的に被害者を名乗るつもりか。我らとて、歴史の中でどれだけの人間を殺した?」
「それは当然の報いです! 我らを追いやってきたのは、世界の支配者を気取る傲慢な人間たちなのですから!」
「……では、問いを変えよう。我ら月獣が、歴史の中でどれだけの月獣を殺した?」
思わぬ問いに、男が返答に詰まった。
「歴史は歴史だ。忘れてはならぬが、囚われるべきものでもない。歴史で殺し合ってきたから、それに倣えと? では我らも、永遠に月獣同士で争う歴史をなぞり続けるのが正しかったと言うのか」
「そ、そういう、わけでは……」
「ならば、月獣が月獣を殺した歴史を許しながら、人間が月獣を殺した歴史を許さないのは何故だ?」
「……それは。誇りある部族の戦いと、人間との争いは、違うもので……」
「本当にそう考えているのならば、貴様は部族間の争いでどれだけ凄惨な策が用いられたのかを知らぬと言うことだ。奇襲や謀略、毒物や兵器を用いた殺戮を、誇りある戦いと呼ぶのならばそうするといい」
無数の戦いを生き延びてきた王に断言され、男は本格的に勢いを失っていく。
「傲慢な人間、と言ったか。ならば、こうして偏見で危害を加えようとした貴様は何だ? 人間ならば何をしても良いと考えていたのならば……それは貴様の嫌う傲慢と、何が違うのだ?」
「っ……!」
「貴様には、人間を恨むに値する背景があるのかもしれん。だが……その理由を作ったのは彼女か? 違うだろう。貴様の行為は、無関係の女性に暴行するという愚かな行いに他ならない」
「お……俺、は……ただ……」
「多くの者が複雑な感情を抱えているのは、私とて理解している。我らは人間に受け入れられたとは言えず、逆に我らも人間を受け入れていない。故に、対等な関係は未だに築けていない」
この男が持つ人間への反感は、別に特殊ではない。今回が彼だっただけで、他の誰でも同じことは起こりうるのだろう。それは肯定しつつ、王は拳を握った。
「だが、だからこそ、私は彼女を迎え入れたのだ。人間と和解する未来、その一歩とするために。貴様の行いは私の、王の意思に反するものだ」
後ずさる男を追い詰めるように、王は歩を進める。
王が人間と融和を進めてようとしていることは、周知の事実だ。だが、男はそれを無視して、王女を害そうとした。
「私は、この国の和を乱す者を反逆者と見なす。王への反逆。その意味は、理解しているな?」
男はもはや、何も言葉を発することができなかった。王は自分を殺すつもりなのだ、と悟った。逃れようのない絶対的な死は、本来は勇猛な戦士であろう男を、恐怖で麻痺させてしまった。
王は強い。月獣の基準であっても、別格の力を持っている。王がただ腕を振るうだけで、並の月獣ならば致命傷を負うほどに。だからこそ彼は絶対的な君主として君臨している。この場で男が処刑されたとしても、それは正しいこととして処理されるのだ。
「……おやめください、陛下!」
そんな、誰にも逆らえないはずの王を、止めるものがいた。腕の中からの声に、王の歩みがぴたりと止まる。
「私は、この通り……まるで、傷付いていません。ですから、良いのです」
「何故、庇う。この男は、私が止めていなければ、お前に何をしていたか分からないのだぞ?」
「私が、悪かったのです。自分が人間であることも、月獣の方の気持ちも考えずに、無用心になっていたから……」
「お前が、悪い……だと?」
だが、王はその言葉に、一段と声を低くした。今度は王女にも彼の怒りが伝わるが、彼女は恐怖ではなく困惑を覚えた。
「お前が何をした。ただ、街を歩いていただけだ。違うか? それを咎めろと言うのならば。あの時、お前が、私に言ってくれた言葉は……」
「え……」
「…………。済まない。震える相手に言うことではなかった」
苦々しげに吐き捨てた王は、そのまま男に向き直る。発散するかのように尾が強く地面を打ち、鋭い音に男はびくりと身体を震わせた。
この男は、恐らくこの男なりに、本気で国の事を考えていたのだろう。短慮と言う他ない行動ではあったが、それほどまでに種族の確執は根深い。
「お前が心配せずとも、極刑にするつもりは元よりない。罰を与えるつもりではあったがな」
「陛下……」
「彼女に免じて、今回は不問とする。だが、次はない。……個人的な感情を捨てろとは言わん。しかし、それで定められた法を破れば、国など成り立たんと理解しろ」
「………………」
「……騒ぎにしてしまったか。皆、これで終わりだ。彼に余計な手出しをすることも禁ずる」
周囲には、騒動を恐る恐る見守る人々が集まっていたが、王の呼び掛けにより散り散りになっていく。王はそのまま、姫を抱いて歩き始める。
「へ、陛下、もう大丈夫です。下ろしていただいても……」
「まだ、震えているだろう。無理をするな。私にとって、人間の女性ひとりなど、負担のうちに入らん」
その怒りはまだ鎮まっていない。それでも、姫を抱く腕だけはとても優しい。そうして歩きだそうとした王だが、最後にもう一度だけ、地面にへたりこむ男に向かって振り返った。
「彼女が、私に逆らってまで貴様を庇ったこと。人間と言うくくりでしか見ていなかった存在について、改めて考えてみるといい」
そう言われて痛い表情を浮かべる程には、男にも思うところがあったらしい。王の背中が見えなくなってからもしばらく、彼はその場に項垂れ続けていた。