変革の傷
――どこか、ほの暗い石造りの部屋の中。
「こうなってしまえば、呆気ないものじゃな」
ユージアは、独り言のように呟く。その視線の先には、四肢を拘束された上に結界に捕らわれ、うずくまるグレイヴァルトがいた。
王には、ここが何処なのかは分からない。束縛の理術から解放された時には、すでにこの部屋であった。彼ら反共存派の拠点である、とだけは予想できた。
ソフィアも、この中のどこかにいるらしいと聞いた。リスクを冒して捕らえたのならば、何か目的があるはずだ。即座に命を奪われることはないとしても、危険な状態であるのは変わらない。
だが、救い出すどころか、今のグレイヴァルトは動くこともままならない。刻まれた呪術が、今この瞬間も彼の全身を蝕んでいる。
この呪術は、体力と理力を共に奪うものらしい。生命を維持するための機能が弱り、対象は衰弱していく。そして、理力を過剰に失えば、生物は虚脱状態に陥り、最後は死に至るのだ。
体力と理力どちらにも優れ、かつ理術への耐性も持つ王獣の肉体だから、まだ耐えられている。だが、この状態が続けば、いかにグレイヴァルトでも長くは保たずに命を落とすだろう。
「お主ほどの男であろうと、こうして屈する。絶対の存在などどこにもおらぬ、ということじゃろうな」
「……そんな、ことは、言われずとも……ごほっ!」
「呼吸ひとつも辛いか。そうじゃろうな。あれから数時間……お主でなければ、とうの昔に死んでおろう」
激しく咳き込む様が、王の衰弱を示していた。意識を保つだけでやっと、という有り様だ。
全身の毛並みが脂汗で濡れている。床には、何度か耐えきれずに嘔吐したものが散らばっていた。
「もう一度言うぞ。王の座を捨てよ、グレン。その約束をすれば、命までは取らぬ」
先ほどから、何度か告げられてきた提案。
経緯はどうあれ、王が自らの口で退位を宣言すれば、それは王の決定だ。臣下は逆らえない。だが、王を殺せば、彼に忠誠を誓う者たちは従わないだろう。だから、ユージアはグレイヴァルトを生かして捕らえた。
「俺の、元では……望む平穏が、得られない、と言ったな……」
ユージアの要求には答えず、グレイヴァルトは言葉を絞り出す。それに対して、ユージアは溜め息混じりに返答した。
「言葉通り、じゃよ。お主はな、いささか変化を求めすぎた」
「………………」
「お主が王のままでいれば、ルナグレアは変わっていくじゃろう。そうして生まれた世界は、今よりも自由で、平穏なのかもしれん。じゃが……変化とはいつだって、痛みを伴うものじゃ」
老いた鰐は、疲れ果てたような声で言う。
「グレン。この国が生まれるまでに、どれだけの傷を負ったか、そなたはよく知っているじゃろう?」
多くの戦いがあった。多くの者が命を落とした。グレイヴァルトは指導者として、その全てに向き合ってきた。
革命の後期になるほど、グレイヴァルトの名声が知れ渡り、戦わずして取り込めた部族も多い。だが、そこに至るまでに失われたものは、数え切れない。
「だから……俺は、もう誰も痛みを感じずに済む……そんな国を、目指したんだ……」
「儂には……そのような夢を信じられるほどの若さも、それに伴う痛みに耐える力も、もうないのじゃよ」
ユージアは建国に力を貸した。そして、ルナグレアの安定のために大族長の地位を受け入れた。それは全て、安住の地を求めてのものだ。次こそは平穏を手にしたいと、彼はそれだけを望んでいた。
だが、さらなる安定のためを謳い、王は次の変化を求めた。より良い国を求め続けた。きっとこれからも進み続けるのだと、ユージアは悟った。
「これ以上は、望まぬ。手を伸ばして何かを失うのは、終わらせたいのじゃ。儂はもう……変革の波には、ついて行けぬよ」
「……変化を目指す……俺や、ソフィアは……邪魔、だと?」
「ソフィア嬢、か。個人的には、好ましい娘だと思っておるよ。しかし……王妃という立場に収まるならば、話は別じゃ」
もしも、グレイヴァルトが王ではなく、ただ個人としてソフィアと結ばれたならば。そして、この国から離れていたならば。ユージアは、二人を心から祝福していたかもしれない。だが、彼女はこの月獣の国、ルナグレアの中心になってしまった。
「人間の王妃。それはまさしく、変化の象徴じゃろう。世界が広がると言えば聞こえは良いがな……月獣がまとまるだけでも、あれだけの血が流れた。人間との共存を成し遂げたとして、それはどれだけの屍の上じゃろうな」
「そう、ならないように……俺たちは、この数年を、費やして、きた……」
「よしんば、争いなく成し遂げたとしても……誰もが、種族の憎しみをそう簡単には拭えはせん。儂とて、例外ではない」
「……あなたも、人間を、憎んでいる……と?」
「憎まずにいられるほど、儂は寛容ではないよ。そなたが生まれるよりも、ずっと前から……人間とは、争い続けてきたのじゃからな」
ユージアは多くの争いを経験してきた。その中には、人間との衝突だっていくつもある。そこでどれだけのものが失われてきたかは、グレイヴァルトも知らない。
「母さんと、あれだけ、親しくしていた……あなたでも、か……?」
「……マゴット殿、か。ああ……そうじゃな。人間がみな、彼女のようであれば……そう思うよ。じゃが、現実はそうではない。一人への恩義では、捨てきれない傷もある」
「ユージア、爺……」
「……ふ。お主にこのようなことをしたと知られれば、あちらに行った時にどれだけ殴られるやら。……そのぐらいの報いは、受けるとするかの」
その言葉には、確かな情の欠片を感じた。それでも、このような行動に出た以上、彼にはもう止まる気はないのだろう。
変化を止めるという変化。その理念そのものが、どこか矛盾を孕んでいたとしても。
「人間を滅ぼすと言っているのではない。ただ、我らの国に、他の種族などいらぬ。儂らは、そんな広い世界は、求めておらぬのじゃ」
「だが……それ、では、国は……う、ぐっ……!」
グレイヴァルトは言葉の途中で、低く呻いて透明な胃液を吐いた。体力が限界に近付いているのは明らかだ。
「ぜぇ……ぜぇっ……」
「……グレン。もう、良いじゃろう。命を失うよりも前に、諦めて――」
『――ユージア様!!』
老鰐の言葉を遮るように、彼の懐から声が聞こえてきた。どうやら、配下からの通信であるようだ。
その切羽詰まった様子から、ユージアも即座に異常事態を察する。そして、続く言葉は。
『砦が、襲撃を受けています! どこからか、全域が狙撃されて――!!』




