迷いと覚悟
残された姫は、王の背中を見送った。すぐに、陛下が来てくださった、もう安心だ、などと言う人々の声が聞こえてくる。
(陛下は、とても慕われているのですね)
王が優れた統治者なのは彼女もよく知っている。彼ならば、言葉通りにすぐ片付けて戻ってくるだろう。
「……私は、どうすべきなのでしょうか」
ぽつりと呟き、うつむく。
今日、街の中を巡り、改めて実感した。王は、この国のためならば何でもやるであろう。例えそれが、己の望まぬことだったとしても。
「やはり、私から……ですが……」
何が最善か、思考がまとまらない。そうして、考え込んでしまった姫は、己に近付く存在に気付くことができなかった。
「何故、ここに人間がいる?」
そんな男の声に、姫は顔を上げる。
目の前には、鳥の外見を持つ月獣がいた。鳥の月獣は翼の代わりに腕を持ち、空を飛ぶ能力はないが、身軽さを武器に戦う一族である。猛禽類の特徴が色濃く出た男は、怪訝そうに王女の様子を伺っていた。その視線の中に刺すような強い感情が見えて、姫は少したじろいだ。
「驚かせてしまったならば、申し訳ありません。私は、陛下と共に、視察として街を巡っていたのです」
「陛下と……ならば、貴様がソルファリアの王女か」
隣国の姫が滞在していることは、国民にも周知されている。逆に言えば、この国に滞在している人間は彼女くらいだ。そのため相手もすぐに彼女の素性を理解した。しかし、男の目付きはさらに鋭くなった。
「陛下は、どちらに?」
「向こうで騒ぎがあり、止めに行っています。少しすればお戻りになるでしょうが……」
「そうか。ならば……好都合だ」
――そんな言葉と共に、男は姫を乱暴に壁へと押し付けた。
「あっ!?」
「嘆かわしい。このような小娘が、陛下を誑かしているとはな……!」
「……つっ。何を……」
突然の痛みを堪えながら、男の顔を見る。人間とは異なる鳥類の頭部、しかし、そこに我を忘れるほどの怒りが宿っているのは分かった。
「答えろ。貴様の滞在は、陛下と貴様の縁談を進めるためのものだと噂されている。それは事実か?」
それはまだ、公に周知されてはいない。だが、王女が他国に1ヶ月も滞在するのだ。噂としてはとっくに広まっている。
「……事実、です」
「そうか。貴様と陛下が婚姻、か。全く、馬鹿げている! 」
嘲笑しつつ、男の手に力がこもった。姫は痛みに思わず声を漏らした。
「陛下は確かに人間との融和を語ってはいる。だが、人間と婚姻だと? 虫酸が走る……王家の血に人間を混ぜるなどと! そうやって我らを懐柔し、手駒とするつもりか、ソルファリアは?」
「そ……そのような意図はありません!」
「黙れ。人間の言葉に、我らがどれだけ欺かれてきたと思っている? 貴様たちの武器は狡猾さだ。ならば我らは、力をその返礼として振るうのみだ!」
月獣は、元の生物による差はあるが、全体的に人間よりも身体能力が高い。もしも一対一で人間と月獣が戦えば、大半は月獣が勝利するだろう。ましてや、戦いなど知らぬ姫と屈強な男では、抵抗すらできるはずがない。
「俺は認めん。陛下を、この国を……貴様たちの好きにさせてたまるものか」
義憤にとらわれた男は、元より姫の言葉を聞くつもりなどないのだろう。力任せに姫の身体を掴んだ。
「陛下との縁談を破棄することを約束しろ。そうしないのならば、ここで貴様を殺してやる!」
姫の視線を無理矢理に合わせてから、男はそう告げた。恐らく本気だと、姫にも分かった。それほどに深い人間への反感を、この男は持っている。
叩きつけられた殺意に、恐怖が駆け巡る。覚悟はしているつもりだった。それでも、実際に目の前に死を突き付けられれば、話は違う。
白くなった思考の中に「元々悩んでいたのだから良いだろう」「嘘でもここは従っておくべきだ」という考えが反響する。
それでも、彼女は声を絞り出した。
「嫌、です……!」
「……何だと?」
想定外の返答に、男の表情が固まった。姫は、吹っ切れてしまったかのように、言葉を続ける。
「陛下が縁談の破棄を望まれるならば、私は潔く身を引きましょう。ですが……他の者からの言葉で諦める程度ならば、私はこの国に来ておりません!」
「な……」
「そもそも、分かっているのですか? 私を殺せば、あなたも極刑は免れませんよ。こんな街中で、逃げ切れると思っているわけではないでしょう?」
「そ、その程度は覚悟している! 貴様ごときに、我々がこの国に懸ける思いが分かってたまるものか!」
「国に懸ける思いならば、理解しております! それを理解せずして誰が王族を名乗れますか!」
姫の勢いに、今度は男の側がたじろいでしまった。命を脅かされた人間の女が反論してくるなど、想像だにしていなかったのだろう。
「陛下はおっしゃっていました。争い続ける月獣にようやく生まれた安住の地なのだ、と。あなたは、命を懸けてでもこの国をより良くしたいと考えているのでしょう。ですが、それは私も同じです。両国の未来のために、私とて覚悟しています」
「…………!」
「もしも私が、嘘でもあなたに従うと言えば、それは陛下への裏切りです。私は、あの方を裏切りたくはありません。ですから……誰かに言われたから、命を脅かされたからと、意見を曲げるわけにはいかないのです!」
そう、はっきりと言い切ってしまった。男は思い切り表情を歪め、拳を振り上げた。月獣の腕力であれば、素手で人間を殺すことは難しくはない。
「どこまでも、不快な女だ! 良いだろう! ならば、ここで……!」
「ここで、どうするつもりだ?」
――男の振り上げた腕が、何者かに掴み上げられた。
「ぐ、あっ……!?」
「あ……」
突然の痛みに、男は思わず姫を掴む手を離した。それと同時に、彼の身体が宙に浮き、そのまま激しく地面に打ち付けられる。投げ飛ばされたのだ、と理解するのと同時に、激痛が走った。
一変した状況に混乱する男は、それでも怒りに任せて顔を上げた。だが、相手の姿を見た瞬間、その怒りは全て驚愕へと変化した。
「へ、陛、下……!?」
「動くな」
「ッ……!!」
心臓を握り潰されるような感覚が男を襲う。痛みすら忘れるほどの、圧倒的な恐怖が。
それは、男の本能だ。目の前の存在が圧倒的な格上であると、それに逆らうことなど決してできないと、身体が認めてしまった。命令の通りに、彼は全身を硬直させる。