燻る火種
日が暮れたころ、離宮へと帰ったソフィアは、上機嫌だった。
グレイヴァルトとゆっくりと街中を巡り、共に過ごす時間。今までが不満だったわけではないが、やはり二人でのデートは格別な思いだった。
また一歩、彼との距離を縮められたようで嬉しい。そんな風に浮かれつつ、街で護衛たちに買った土産を配っていく。訓練中の皆は喜んで受け取ってくれたが、黒狼の青年だけは見当たらなかった。
「ロヴィオンはどちらに?」
「隊長なら今日は先に上がってますよ。最近また根を詰めすぎだったし、だいぶ疲れてそうだったから、みんなで今日は休んでくれって言いました」
「たぶん休憩室にいるんじゃないですかね?」
「分かりました。ありがとう、みんなが彼を気遣ってくれて助かっています」
「へへ、オレらの隊長ですからね!」
この休暇の最中でも、ロヴィオンは鍛練を怠らず、ソフィアの護衛として常に気を配っていた。特に鍛錬は、バルザークとの会話で身が引き締まったのか、いつにも増して身を入れていたのを見ている。
そこを隊員たちに気遣われたらしい。本人も無理をしがちな自覚はあるからか、周りに忠告をされた時には素直に従うようになっている。
隊員たちの言葉に従って休憩室を訪れると、やはりそこにはロヴィオンがいた。
「あら……」
黒狼は、机に突っ伏した状態で眠っていた。冷めた茶が傍らに置いているのを見るに、意図せず寝落ちしてしまったようだ。やはり疲労が溜まっていたのだろう。
そんな姿に少し申し訳なくなりつつ、王都に帰ったら彼も休ませてあげようと決める。ひとまず今は、起こさずにゆっくりさせようと、その場を離れようとしたが。
「う……」
「…………?」
「……う……うぅっ……」
ロヴィオンがうなされているのに気付いて、ソフィアは足を止めた。見ると、彼の表情はどこか苦しげで、呼吸も少し荒くなっている。
「ロヴィオン? 大丈夫ですか……?」
夢見が悪いのか、体調が悪いのか。いずれにせよ放っておけず、起こすことに決めた。ソフィアが近寄った瞬間、彼はぴくりと全身を跳ねさせた。
そして、次の瞬間。ソフィアの視界は大きく回った。
跳び跳ねるように起き上がったロヴィオンが、彼女を突き飛ばしたのだ。
「あっ……!?」
そこまで強い力ではなかったが、不意の衝撃にソフィアはそのまま倒れ、地面に身体を打ち付ける。はね飛ばされた椅子は、幸いにも当たらずに済んだ。
「はあ、はっ、はっ……」
痛みを堪えて顔を上げると、ロヴィオンは浅い呼吸を繰り返しながら、ソフィアと距離を取るように身構えていた。いつも落ち着いた彼とは思えない、ひどく錯乱したような表情だった。
「ロヴィ、オン……?」
「……ソフィア、様……? ……ッ!!」
数秒ほどの間を置いて、ようやく思考が回り始めたらしい。我に返ったロヴィオンは、自分が何をしたかを悟り、慌ててソフィアの元に駆け寄る。
「も……申し訳ございません! お怪我はありませんか!?」
「だ、大丈夫、です。少し驚いただけですから……心配しないで」
軽く痛みはあったが、怪我と言うほどではない。よろりと起き上がったソフィアに、しかしロヴィオンは見る間に意気消沈していく。彼が力なく尾を垂らす姿など、見るのは始めてだ。
「おれ、は、なんということを……。主に、手を上げるなどと……!」
「気にしないで。無意識だったのでしょう? 私が驚かせてしまったせいなのですから……」
「そんなことは、言い訳にならないでしょう! 一歩間違えば、あなたに重い怪我をさせていました!!」
実際、打ちどころが悪ければ大事になっていた可能性もある。護衛として全力で取り組んできた彼にとって、それは許容できる可能性ではなかった。己の行為であるから、なおのこと。
「護衛たるおれがあなたを傷付けるなど……あなたと陛下を裏切る行為です。死罪となってもおかしくはないほどの……!」
それは、決して飛躍した言葉ではない。主君を傷付けることの重みは、命をもって償わせるという国家はあるだろう。だが、ソフィアは首を横に振る。
「グレンは、悪意には断固とした対処をしますが……今回はただの事故で、しかも私に大した怪我はありません。ですから、不問です」
「しかし……!」
「王妃が不問と言っているのです。それとも、私の言葉が信用なりませんか?」
敢えて強い言葉を選んだ。彼にはその方がいいとの判断だ。
故意ではない。後悔もしている。グレイヴァルトがこの一件で重い罰を与えるなど有り得ない。怪我をしていたら怒りはしたかもしれないが、事情も確かめずに罰するような暴君ではないのだ。
椅子に座るように促すと、ロヴィオンはそのまま項垂れた。
「申し訳、ありません……」
「……何か、恐ろしい夢でも見たのですか?」
「………………っ」
月獣の表情も、かなり読めるようになった。だからこそ分かる。――あの反応は、怯えだ。
それも確かに、ソフィアに怯えていた。錯乱していたのは事実かもしれないが、彼女の姿を見た上で、彼女から逃げようとしたのだ。
少しの沈黙は、肯定なのだろう。彼があれだけ恐慌にかられたのならば、並大抵のことではないはずだ。それこそ、過去の大きなトラウマでも喚起するような何かを見たのだとすれば。
「……お許しください。身勝手は承知です。罰ならばいくらでも受けます。ですが、どうか、この話は……」
「……分かりました」
身を縮めたロヴィオンに、これ以上問う気にはならなかった。少なくとも、今のことはただの事故だ。ここで話を聞いても、彼を追い詰めるだけだろう。
ソフィアが何かをした記憶はない。気付かぬうちに不快に思わせたと仮定しても、あのように怯えさせるような振る舞いはしていないはずだ。
ならば、彼の怯えが向けられた先は、恐らく――人間という存在だ。
「でも……私に聞けることならば、いつでも聞きます。それは、覚えていて」
「……はい」
ロヴィオンは、最初からソフィアにも分け隔てなく接してくれた。人間である彼女の護衛に、推薦された本人も快諾したとも聞いていた。
だからこそ、深く気にしたことは無かった。自然に受け入れてくれる人もいるのだと、喜ばしく思ってもいた。
だが、その裏でずっと、彼が何かを抱え続けていたのだとすれば、自分はなんと迂闊だったのだろうか。そんな後悔の念が沸き上がる。
今は問えない。しかし、同時に放置もできない問題だ。彼との関係を続けていくならば、知らぬ顔をしてはいけないと思った。
(私は……もっと、ちゃんと知らなければ)
不当な偏見だけではない、確かに存在する人間と月獣の確執。
自分に都合の良い面だけを見ていては、取りこぼすものがある。恨みと向き合うことは、きっと危険だ。それでも、王族は民を支えるものという思いは捨てたくなかった。人間か月獣かの前に、彼女はこの国の王妃なのだから。
未来への新たな意志を、各々が抱いていく。
だが、それを妨げる影の気配もまた、色濃くふたつの国を包む。
全ての因果が交わる時の足音が、聞こえ始めていた。




