王の戒め
「ふう……」
その日の夜遅く。
自室で執務に取り組んでいた王は、疲労感に息を吐く。彼は、戦場で三日三晩戦い続けることのできる屈強な戦士だが、頭脳労働はまた感覚が違う。
そうしていると、部屋をノックする音が聞こえてきた。返事をすると、従者のひとりが入ってくる。
山猫の外見を持つ細身の青年だ。紺色のスーツをしっかりと着こなしており、その所作は洗練された執事のようだった。
「失礼致します、陛下。頼まれていた資料をお持ち致しました」
「ああ……感謝する」
返答をしながら、筆を持つ手は止めない。だが、その表情に疲労の色が濃いことには気付かれたらしい。
「お疲れのようですね、陛下」
「……いや、問題はない。もうすぐ片付く」
「もうすぐ、ですか。そこに積まれた書類だけで、軽く数時間はかかるように見えますが?」
自分の性格をよく知る、側近とも呼べる従者の指摘に、王は押し黙る。図星だったことを悟った青年は、咎めるわけでもなく提案する。
「今日はお休みになられてはいかがですか? 最近の陛下はいささか、休息が足りていないように見受けられます」
「今の私には、休んでいる暇はない。興してたった数年、この国の地盤はまだ固まっていないのだ。やらねばならぬことは、いくらでもある」
「それでも、全て陛下が片付ける必要はありません。……恐れながら、陛下はもう少し己の負担を減らすべきです。あなたが倒れでもすれば、それこそ一大事なのですから」
「私は、そう簡単には倒れたりはしない」
「あなたの強靭さは承知しておりますが、限度があります。それに今は、陛下が一番に取り組まねばならないのは、未来の奥方に不自由をさせないことではないでしょうか」
側近の投げ掛けた言葉に、王の動きが一瞬だけ止まる。その反応は、彼の予想通りのものだ。
「やはり、婚姻のことでお悩みですか」
「何が言いたい。私は、普段通りだ」
「無礼を承知で申し上げますが……陛下が何かに没頭しすぎている時は、お悩みのことが多いですから」
「……ゼルニス」
従者としての口調は崩さないまま、しかし踏み込んだ意見を言う男に、王は振り返り、名前を呼ぶ。名を知る程度に、彼は王に近い位置にいる人物だ。
「私の判断は、間違っていたようだ。今回ばかりは、そう思う」
「縁談を受け入れたことについて、でしょうか?」
「そうだ。彼女はこの国に来てから、常に物憂げな表情を浮かべている。公の場では社交のため微笑みはするが……私と二人きりの時には、そんな作り物の笑顔すら見たことがない」
その事実が、王に重くのしかかる。何故ならば王は、彼女が陰気な性格ではないことを知っているからだ。
「元より穏やかな性格ではあったが、同時に……よく笑う娘だったのだ、彼女は」
二人は1年前から面識があった。ソルファリアを王が訪れた時には、言葉を交わす機会も多かったのだ。だからこそ、今の彼女を見ていると、王は自分が奪ってしまったものを意識してしまう。
「人間から見れば、私は異形でしかない。好きでもないどころか、化け物と添い遂げねばならないなどと考えれば、誰でも絶望するだろう」
「随分と、自虐的なお言葉ですね」
「客観的な判断だ。……間もなく、約束の1ヶ月が経つ。断るとすれば、私から断らねばなるまい。遺恨を残さぬための方法を、考えねばな」
彼女に判断を任せては、責任感の強い彼女は婚姻を受け入れるだろう。そうなる前に解放しなければと、王はここ数日で決めていた。だが、そんな王に、従者は渋い顔を作る。
「陛下はやはり、お疲れなのでしょう。少し、考えが後ろ向きに傾いているように思えます」
「……私の誤解だと言うのか? 事実として、彼女は辛そうにしているのだ」
「そうだとしても……一度、二人でじっくり話をするべきではないでしょうか。避けていては、正しい答えとならないはずです」
避けているということをはっきりと突き付けられる。自覚はしていたからこそ、その忠告が痛い。
「差し出がましいことを言いました、お許しください」
「……いや。確かに、お前の言うとおりかもしれない。少し、考えてみるとしよう。忠告に感謝するぞ、ゼルニス」
「勿体なきお言葉。……陛下、資料と一緒に焼き菓子を置いておきますので、よろしければお召し上がりください」
焼き菓子、と聞いた瞬間、王の耳がぴくりと跳ねた。この屈強で強面な王の好物が、蜂蜜をふんだんに使った焼き菓子であるなどと知っているのは、今となっては数名だけだ。軽く気を紛らわせることには成功したらしい。
「では、失礼致しました。陛下、くれぐれもご自愛ください」
「ああ。他ならぬお前の進言だ、今日はこれで切り上げるとする。……それから、ゼルニス。時間があるならば、少しだけ……」
「…………」
「……いや、何でもない。ご苦労だった、下がるが良い」
言いかけた言葉を飲み込んだ王に、従者は一礼して部屋を後にする。そのまま少しだけ歩き、十分に離れてから、彼は溜め息をついた。
(「少しだけ話し相手になってほしい」か……昔はよく、そうやって相談に乗っていたよね)
しかし、今の王がそれを口にしないことを、彼はよく知っている。王は、特定の誰かに弱味を見せることを避けているからだ。
そんな彼が、少しでも「間違っていた」などと弱音を漏らし、相談を求めようとした。戒めを破りかけた時点で、かなり参っているのが分かる。
だからこそ彼は期待しているのだ。王の戒め、その例外となる可能性を持った女性に。だが、事態はよくない方向に転がり始めている。
「本当に不器用だよ。誰も彼も……ね」
そんな本音を小さくこぼしてから、彼はやるべきことをやるために歩いていった。