1 旧校舎裏にいる先生
私立潮彩高等学校。
潮彩町の名物である綺麗な海岸を一望できるという浪漫あふれる立地に惹かれたのか、この高校を受験する学生は多い。
しかし、無料で海岸が一望できる訳ではない。それなりに長い坂を自分の足で登らなければならない。
毎朝汗水たらして坂を登り、疲れ果て、教室でぐったりしながら窓の外に広がる絶景を見るという生活は、初めのうちはかなり苦労した。一か月経った今でも坂は苦しいが、毎日のトレーニングだと思えば多少は気にならない。
……いや、やはり未だに慣れそうにない。
通学バスがあるにはあるが、似たようなことを考える生徒は多く、いつも満員だ。我慢して坂を登るか、ぎゅうぎゅう詰めのバスに乗るか。私は坂を登る方が性に合っていた。
「おはよー、唯!」
火照った身体をひんやりとした机で冷ましていた私を、快活な声が呼んだ。声の主はそのまま私の席に近づき、とん、と机の上に何かを置いた。顔を動かせば視界の端にお茶のペットボトルが見える。
「だいじょぶ?お茶買ってきたけど、飲む?」
「……波奈ちゃん、ありがと」
「どういたしましてー」
枕木波奈。地毛ではない茶髪をポニーテールにした、元気溌剌という言葉を体現したかのような女の子。私と波奈ちゃんは旧知の仲で、進学してからもよく登下校を共にしている。はずだ。なのに彼女は息一つ切らしていなかった。
「なんで波奈ちゃんは平気そうなの?」
「唯と違って、わたし鍛えてますから」
「体験入部で大活躍だもんね。もうどこに入るか決めたの?」
この一か月の間、彼女は色んな部活に顔を出しては目まぐるしい活躍をしたらしい。実際の活躍については私は伝聞でしか知らないけれど、休み時間に二年生や三年生の先輩方が波奈ちゃんを勧誘しに教室までやってきているから、きっと本当に大活躍したのだろう。
当の本人は、目を閉じて唸っているが。
「んー、まだ。あんまりピンと来なくって」
「そっか」
「……やっぱりどっか入んないとダメかなぁ」
「ピンと来ないんでしょ」
「うん」
「なら、気が済むまで悩んだらいいと思う」
「……そうだよね!ありがとっ。放課後になったら体験入部もう一周してくる!」
「今日で全部は無理でしょ?」
「うー、じゃあ今週の放課後全部使って!」
「いいんじゃない?頑張れ」
手を伸ばして、ぽんぽん、と波奈ちゃんの頭を軽く叩くと、彼女は少し寂しげにこちらを見て、
「……唯は付き合ってくれ、ないよね?」
と、いじらしい言葉を口にする。
個人的には付き合ってあげたいけれど、ただ、私には彼女ほどのバイタリティはない。
「私はパス」
「そーだよねぇ。ゴメンね。しばらく一緒に帰れないや」
「いいよ。また今度、美味しいものでも奢って」
「……今日のお茶でチャラになんない?」
「なりません」
「そんなぁー!」
そう悲鳴を上げながらも嬉しそうに笑う彼女に、私も思わず笑みがこぼれた。
――少し、心がちくりとした。
◇
放課後。
朝の宣言通り、波奈ちゃんは体験入部のためにいの一番に教室を出て行った。それを手を振って見送った後、荷物を纏めて教室を出た。
宛もなく、校舎内をぶらぶらと歩く。廊下の窓から見える運動場では、多分どこかの運動部が掛け声をあげながら練習している。その中に見覚えのある茶髪を見つけた。
波奈ちゃんの表情は真剣そのもので、それでもなんだか楽しそうで、嫌々やっている訳ではないことが見てとれた。
安堵と共に、溜め息が一つ漏れる。
波奈ちゃんと一緒にいるのはとても楽しい。けれど、疲れることも多い。私と彼女は性格も、趣味も、価値観も違う。もっと分かりやすく言えば、ノリが違う。合わない訳ではないけれど、少し距離を置きたい時もある。
それはあちらも同じようで、時折私達はどちらからともなく距離を置く。昼食を別々に食べたり、帰る時間をずらしたり。相手を嫌っている訳ではなく、そういう時期を作るというだけ。
「この感じは、久し振りだなぁ」
私達は受験期の寂しさを補うように、この一ヶ月はべったりだった。その反動が重く現れたことを、波奈ちゃんは察したのだろう。
部活の件は、そういう気遣いもあったのかもしれなかった。
(……迷惑かけちゃってるなぁ)
私と波奈ちゃんを比べた時に、私の方が精神的なしんどさを覚えやすいことを、波奈ちゃんはよく知っている。自分ではそういうしんどさを中々言い出せないものだから、波奈ちゃんの気遣いにはいつも助けられている。
感謝の気持ちと同じくらいの申し訳なさで、胸が窮屈だった。
(空気、吸いに行こう)
運動場から視線を外す。廊下の突き当たりから階段を降り、玄関口を抜けると潮風がぶわっと吹き抜けてきた。
あまり手入れしていない前髪が目に入り、痛覚を刺激する。異物感も強い。
親指で目元を拭う。髪の毛はすぐに離れていったが、異物感は残ったままだった。こういう時は何度拭っても意味がないことを知っている。
仕方がないからそのまま歩きだそうとして、僅かに、鼻に違和感があった。
「…………?」
潮の匂いとは全く違うもの。ぴり、とした苦味と少しの生温さ。昔嗅いだことのあるような、ないような、そんな匂い。
すん、と鼻を鳴らしながら、その匂いの元を辿る。特に理由はない。強いて言えば、好奇心。それとこの匂いに懐かしさを感じるから。
校舎を離れて、道を外れないように、嗅覚を頼りに進む。
昔から嗅覚には自信があった。匂いを嗅いだだけで晩ご飯の内容が分かるし、余所の家の匂いも何となく嗅ぎ分けることができた。流石に人並み外れた、とまではいかないけれど、それでも人よりは鋭いとは思う。
匂いは、今は使われていない校舎に続いていた。小説とかでしか読んだことのないような、所謂、旧校舎というやつだった。学校案内の時に旧校舎の話は聞いたことがあったが、来るのは初めてだった。
(誰か、いるのかな)
門が少し開いている。
距離が近くなったからか、さっきよりも苦い匂いがはっきりとしてきた。そこで、私はそれに近いものをどこで嗅いだのかを思い出した。
父だ。
父の、煙草の匂いに近かった。
「…………」
少し開いている門の隙間に身体を滑り込ませる。
煙草の匂い。もし不良が溜まり場にしているなら、注意しないといけない。私一人だと危ないとか、先生を呼んだ方がいいとか、色々な考えがよぎったけれど、最初に身体が動いていた。
大きく回り込み、校舎の丁度裏側に来たところで、細く立ち昇る紫煙が目に映った。
「……あ」
「え」
校舎の壁に背中を預けていたのは、白衣を着た男性だった。
その姿に、見覚えがあった。
「篠崎先生……?」
篠崎八尋。
社会科の授業で普段からお世話になっている中年の教師。お世辞にも愛想がいいとは言えない仏頂面には剃り残しの髭が点々と目立ち、着ている白衣にも同じようにチョークの粉やインクの汚れが点々としている。それだけで彼の野暮ったい性格が想像できそうだった。
そんな彼の手元には、授業中と同じように細い棒状のものがある。先端が僅かに黒く焦げ、薄い色の煙がひゅるひゅると空へ向かっていく。
篠崎先生は、旧校舎で喫煙していた。
「……あー、一年か」
「はい。4組の、渡辺です」
「ワタナベ、ワタナベ………。あ、ワタナベユイさん?」
「はい」
こくりも頷きながら、少し驚く。まさか名前を覚えられているとは。
篠崎先生は名前を覚えないことで有名らしい。波奈ちゃんが先輩たちから聞いた話では、同期の先生の名前すら間違えているのだとか。
そんな彼がどうして私の名前を覚えているのか、少し不思議だった。
が、それはそれとして。
「どうしてここで喫煙を?」
「ワタナベさんこそ。ここ、立ち入り禁止って、知らない?」
「そっくりそのままお返しします」
ぐ、と篠崎先生の眉間に皺が寄る。彼は何も言わなかったが、その表情は雄弁そのものだった。
「敷地内、禁煙じゃないんですか?」
「なんでそんなこと知ってる」
「足立先生がぼやいてました」
足立先生とは、私のクラスの担任だ。国語科の教師で、物腰柔らかな、それでいてスーツをぴしっと着こなしているかっこいい女性の先生。相当な喫煙家らしく、常々喫煙所がないことを恨みがましく嘆いている。
篠崎先生は「アダチ、アダチ」と何度か呟いては、首を捻っている。どうやら名前覚えが悪いのは本当のことらしい。
「それで、どうしてここで煙草を吸っているんですか?チクりますよ」
「………見かけによらず、案外強気だね」
「話を逸らしても無駄ですよ。後、それルッキズムでは?」
「そこでセクハラじゃなくてルッキズム持ち出す辺り中々面白いやつだよ、キミ」
はぁ、と態と聞こえるように溜め息をついて、彼は携帯していたであろう小さな灰皿に煙草を押しつけた。
「そもそもここの管理をしてるの、ボクなんだけど」
「それがどうして喫煙に?」
「暗黙のなんちゃら」
「………それ教師として良いんですか?」
「さあね。校長も黙認済みだろう」
「この学校腐ってますね」
「腐ってない学校なんて新設されたトコだけだよ」
「わあ名言。炎上しそう」
「ソイツは確かに名言だね」
先生の隣、旧校舎の外壁に背中を預ける。古びた木の感触がどうにも言葉にし難い。潮風をたっぷり吸っているからか、黴びた匂いの奥に潮の香りがした。
篠崎先生はそんな私を見て、携帯灰皿を仕舞おうとする。それに対して「吸っててもいいですよ」と声を掛けた。
「副流煙とか、マズいだろ」
「気にしませんので。それに、落ち着きますし」
「何、不良?」
「やったのはここへの不法侵入だけです。立派な不良ですね」
「確かにその点はそうだね」
頷きながら、先生は新しい煙草に火をつけた。苦味を含んだ、ぴりりとした匂いが僅かに香る。
彼はその煙を私に向けないようにしているが、漂ってくる香り自体はどうにもならない。
(………)
目を閉じる。
懐かしい匂い。父の匂い。父の、煙草の匂い。
「父が吸ってたんです。だから慣れてて」
「………ほーん」
それだけだった。
特に興味を示すこともなく、彼は煙草を吸い直し始める。それを横目で見て、その煙の行く先を追って、旧校舎の狭い空を見上げる。
群青の空に、薄い灰色が混じる。
退廃的だった。
「ねえ、先生」
「何だよ」
「チクらないので、また来ていいですか?」
「不法侵入」
「違法喫煙」
「どうぞ、ご自由に」
「手首の摩擦ゼロですか」
暗い空の下、古い校舎の裏で。
私は一つ、新しい居場所を手に入れた。
思いついたので、他の連載の箸休めに。
もしかしたら続くかもしれません。気分次第。




