第二幕(四)
私は女に、急いで皆を集めるように指示した。そして裏口から逃してやると。ただし町から出てはいけない、今日はひとまず別の建物へ移るのだと告げた。
彼女は勿論、疑いの眼差しで私を見ているので、今夜の我々の作戦の一部を明かした。敵は私の他に男が一人。対象はこの病院跡と商業施設跡。町から出る者は殺せとの指示が出ていると。そこまで伝えると彼女は半分は信じてくれたようだった。それを見て私は動線を確保するべく1階へ降り、裏口から出た。
すると其処に B.B. が立っていた。心臓が跳ね上がる。外に出れば遭遇する可能性がある事は分かっているつもりだったが、まさか此の建物のすぐ側で遭うとは思っていなかった。私が迂闊だっただろうか。
彼との間はおよそ7m。私は殆ど無意識に間合いを測った。彼は私を見るなり言う。
「お前に今回の任務は酷だろう。俺が殺ってやる」
私には子供は殺れないと見越しての発言だ。これまでの私との会話から彼はそう判断したのだ。彼なりの優しさであろう。彼の双腕の刃は既に血に濡れている。
「待て、此処は私がやる。お前は持ち場へ戻れ」
などと妙な事を口走ってしまった。彼は持ち場が終わったからこそ此処へ来ている。仕事の途中で来る理由がない。そんな事に考えが及ばないほど私は狼狽しているらしかった。勿論、それに気付かない彼ではない。彼は明らかに顔を歪めて
「本当に殺るつもりなら既に血に塗れている筈だろう。RedDress の名が廃るなァ!」
と挑発的に言った。しかし私にはその挑発に乗る余裕が無かった。通常なら何か言い返して然るべきなのだが、言葉が出てこない。冷や汗しか出てこないのだ。護るべきものを抱えて闘うとはこんなに不自由なものなのかと心の中で自嘲する。
彼を睨みつけて沈黙していると、彼も黙って一歩踏み出したから、私も双腕の刃を突き出した。
「それ以上来るな。お前の仕事は終わったのだろう?此処は私の仕事だ」
「だったらさっさと殺れよ、クソが。できないなら俺に代われ」
そこまで言われて私は彼の違和感に気づく。彼は不自然なほど苛立っていた。意図がわからない。彼は自分が感情的になっている事に気づき、少し頭を振った。そして冷静さを取り戻した声で私に言う。
「どうして敵に情けをかけるんだ。お前の心変わりは指揮官に知れている。俺は、お前が殺り損ねた奴を掃除するように命を受けた。そして」
そこで彼は一呼吸置いた。表情は変わらない。
「お前が俺に従わない場合、殺害するよう命を受けている」
一瞬、時が止まったような気がした。この瞬間に奴が飛びかかってきたならば、私は無抵抗のままあっさりと死んだだろう。何故だかわからないが泣きたいような笑いたいような奇妙な感情に襲われた。そして色んな疑問が頭を巡り始める。
指揮官はいつから私を疑っていたんだ。どうして私の思考がバレたんだ。確かに今回現地入りに遅れはしたが、それだけでは不確定要素が多すぎるだろう?脳波か?バイタルか?その他何か身体の異変を拾う器械でも存在するのか?だとしてもいつ殺害の決断を下した。長年貴方の下で働いてきたのに、こうもあっさり決断できるものなのか。そして B.B. はその命令を受けてどう思ったんだ。お前も長年苦楽を共にしてきた筈の私を殺せるのか。
身勝手な話だが、私が隊を裏切るつもりだったのに、逆に裏切られた気分になっていた。
色んな疑問が巡ったが、もはやどうでもいい。事態は変わらない。もう自分の考えを隠す必要はなくなった。私は B.B. に言う。愛憎を込めて。
「お前は指揮官に従順すぎる。自分の頭で考えろよ。我々がやっている事は昔は大義があったかもしれないが、今やただの虐殺だ。遠くにいる指揮官より目の前の命を見ろよ」
「違う。お前が愚かになったんだ。お前が悪魔の手に堕ちたんだ」
彼はあっさりと反論した。そして凍てつくような冷たい目に変わる。私を敵だと認識したのだ。それがとても悲しかった。彼は言う。
「あの日、お前の部屋で殺してやればよかった。そうすれば幸せに死ねただろう。お前も俺の下で死んでもいいと思った事はなかったか?」
彼は下卑た笑みを浮かべていた。彼のそんな表情は見た事がなかった。身の毛がよだち、胃の底が冷たくなり震えた。嫌悪感だ。その目は昔、広場で理不尽な暴力に遭った時の褐色の民の目に似ていて、思わず耳を塞ぎ叫びそうになる。もう私を人間としては見ていない。それがとても恐ろしく悔しく気持ち悪かった。初めて彼に恐怖を感じた。それは例えるなら、悍ましい姿形の虫に遭遇した時に感じる恐怖に似ていた。
乱れた感情の中、私は彼を殺す決意をする。心の中では泣いている気がした。だがもう彼を受け入れられない。
彼は強い。殺るならばエンジンがかかる前に終わらせねばならない。長引くほど不利になる事はわかりきっていた。
そして私はおもむろに飛びかかった。右腕の刃に全体重を乗せ、奴の心臓を抉る――が、奴は左腕で防御した。避けてカウンターをしてこなかったという事は、奴の反応はやや遅れたという事か、と思った矢先、右手で頭蓋を鷲掴みにされ、後頭部から地面に叩き付けられる。最低限の受け身は取ったつもりだが視界と平衡感覚が狂った。しかしこの時既に疑問を抱いていた。何故、刃で頭蓋を突かなかったのかと。奴は全体重を私の頭蓋にかけて馬乗りを狙ってきたから、まだ腰が浮いている間に私は渾身の力で奴の股間を蹴り上げた。プロテクターをしている筈なので勿論悶絶などはしないのだが、それでも僅かに怯んだその隙に、左腕を再び渾身の力で奴の右側頭に叩き込む。が、頭を掴まれていたので私も一緒に横へ転げ回る。上手を取らなければ終わりだ、と思いながら2、3転したがそれは意外にもあっさり取る事ができ、追撃を食らわせようと右腕を構えた時には、奴の頭は下顎だけになっていた。私を掴んでいた右腕が力なく倒れる。
ふふふ。私は笑った。ものの10秒ほどの出来事だったであろう。あっさり死にやがって。お前こそ死神に憑かれていたんだろう。
「詰めが甘いんだよ!クソ野郎!!」
左腕の刃に付いた脳漿を振り払いながら私は叫んだ。しかしその声は泣き声であった。力負けすると思っていたのだ。全力を尽くしてもきっと殺られると思っていた。だから奇襲にしたのだ。それが上手くいったのに、成功したのに、目的を果たせたのに、私は泣いていた。
子供たちはもう集まっただろうか、そう思い建物の中へ戻ろうとしたところで、突如大きな揺れが私を襲った。頭を打ち付けたせいか疲労のせいか立っていられなくなり、その場に倒れ込む。地震か――と思って周囲を観察したが、周りの瓦礫は物音ひとつ立てていない。私だけが揺れを感じている――?そう思った時、頭の中に声が響いた。
「裏切者は必要ない」
指揮官の声だった。そして奇怪な音楽が流れ始める。それは頭の中を有刺鉄線で掻き回すような激痛を呼び、心臓を弄んで脈動を乱す。寒熱判らぬまま大量の発汗によってみるみる疲弊し、胃は過剰に熱を帯びて内容物を吐き出した。肺は引き攣り呼吸もままならぬ中、足の先から肌の上を大量の百足が這い上がるような感触に襲われる。
「ぃあぁああ゙あ゙あ゙ぁあはぁ、ぁははははぁあっ」
私は自分でも聞いた事がない悲鳴を上げ、のたうち回った。そして絶望を感じて笑った。
指揮官は私一人のためにこんな音楽を用意してくれたのか。くだらない。くだらなすぎて笑えるよ、指揮官。でもね、貴方は遠すぎる。私を発狂させて自傷するのを狙っているのだろうが、直接命を奪う事はできない。
私は笑った。嗤った。
笑うと腹筋と肺の制御が戻ってきた気がした。まだ自分の意志で動かせる。
身体のすべてが侵される前に、本当に発狂してしまう前に、私は涙と汗と胃液と血液と脳漿に塗れた汚い身体を起こし、力を振り絞って立ち上がった。そしてこの町の中心に建つ通信塔を目指して走り始める。通信設備を破壊すればこの音楽は受信しなくなる筈。そう信じて走った。よくわからない液体を滴らせ、撒き散らし、笑いながら。傍から見れば既に発狂しているように見えたであろう。
私はこの時に改めて、生きるとは汚れるものなのだと実感した。