5 四人の妻
アイリーンは母の顔を知らない。
出産後すぐに流行りの病気で亡くなったと聞いている。父とは政略結婚だったらしい。二人に愛があったとは思えない。
なぜなら、母の死後、喪も明けないうちに父は二番目の妻を迎えたのだ。
母はホーランド家の隣の貴族家から嫁いで来たそうだ。外国から来た移住者だったとかで、国内には親戚もいない。
母は私と同じ色の眼をした、儚い印象の女性だったようだ。
10歳の頃、三番目の妻を迎えるために片付けられた部屋から出てきた知らない女性の肖像画を見た私が、父に誰かと問うと、「お前を産んだ女だ」と教えられた。
捨てられそうになっていたその肖像画は大して大きなものでもなかったので、こっそり持ち出してクローゼットにしまってある。
おそらく父と結婚する前に描かれた絵の中の母は、儚げで夢を見るように微笑んでいる。容姿は私によく似ている。
結婚することになって、嬉しかったのだろうか。
あの父と、共に暮らすのは辛くなかったのだろうか。
誰にも教えてはもらえない。
母の死後、父は使用人のほとんどを入れ替えたのだ。彼らの口から、何をいわれるのを恐れたのか。突然解雇された昔の使用人たちに会ったことはない。
父の二番目の妻は、領地が隣だとかいう、子爵家から嫁に来た。名前は、、覚えていない。私が8歳くらいまで一緒に暮らしていた。私に似た緑の眼をしていた彼女は、実家の借金を帳消しにする条件で嫁いできたらしい。
理由は何にしても、彼女は私に親切だった。年相応の服を着せ、食べることに気をつけてくれたのだから。もしかしたら私の世話をさせるための結婚だったのかもしれない。
とにかく彼女が私の世話をして、貴族らしい教育を受けさせるために家庭教師を付けてくれたのだ。
自分で言うのもおかしいけれど、私は良い生徒だったと思う。本を読むことは好きだったし、教えられたことは良く覚えた。
マナーの授業もお気に入りの時間だった。
「お姫様になったつもりで」が口癖のマナーの教師は、ほとんど出掛けない私を不憫に思ってよく近くの公園まで連れて行ってくれた。
「小さな子は外で少しくらい、はしゃいでもいいのですよ。」
そう教師に言われた私は、思い切り公園で走り回ったものだ。
公園には多くの家族連れが来ていて、私と同じくらいの小さな子が、おそらく彼らの両親であろう大人と手を繋いだり、抱き上げて運んでもらう光景もよく見られた。
当時は何とも思わなかったが、家庭教師が何度も変わって、もう公園で走り回ってもいい歳ではなくなった時に、不意にその頃の光景を思い出して胸が苦しくなることがある。
父は私には無関心を貫いていたので、当時私の世界は二番目の母と、家庭教師たちが全てだった。その世界が少しずつ歪み始めたのは、二番目の母が突然いなくなった時だと思う。
8歳の頃、いつも一緒に夕食を取る彼女が現れなかった。使用人が騒がしくしているが、何があったかわからず、腰掛けてじっと待つ。
「お嬢さまはお先に召し上がってください。」
料理長が汗だくでやって来て私にそう言った。
二番目の母は、御者をしていた青年と駆け落ちをしたらしい。この辺りではひどい醜聞となり、父は激怒した。
メイドの噂話では、妻への扱いが酷かったことに耐えられず、言い寄って来た御者と呆気なく出て行ったのだとか。
普段から彼女と一緒にいることの多かった私は、御者が彼女に手を貸す時の熱っぽい視線や、お出かけの頻度が増えていくことなどを考えると、「呆気なく」出て行ったとは思えなかったが。
私に親切だった義母が、幸せになってくれたらそれでいい、そう思っていたし、今でもそう願っているけれど、外で他の家族を見かけた時の胸の痛みは少しだけ、強くなっていた。
義母がいなくなった後、父はひどく荒れていた。
私への無関心が怒りに変わるスピードも早くなった。
この頃から父はよく私に手をあげた。
10歳になる少し前、私は階段から落ちて怪我をした。踊り場で、ちょうど降りて来た父と鉢合わせたのだ。
歩くのに邪魔だった、それだけの理由で父は階段の上から私を突き飛ばしたのだ。
「お仕事がうまく行ってないのですよ。」
当時の家庭教師が私にこっそり教えてくれた。
それなら娘を突き飛ばしてもいいのだろうか。誰か教えてほしい。
歩けるようになるまで、泣いた夜が何日もある。
私の足がなかなか良くならないので、世間体を気にした父は事故から半年経ってようやく骨の怪我の専門医を呼んだ。
医師が言うには
「骨が歪んで固定されてしまっている。もう手遅れです。」
だとか。すぐに診ていれば、もっと上手に治せたのに、と彼は悔しそうに帰って行った。リハビリを頑張るように、それだけ言い残して。
それから三番目の母がやって来た。名前はジョゼット・バーンスタイン。裕福な商家の長女だという。ジョゼットは若干キツめの性格をしており、決して優しくはなかったが、私には基本的に無関心だった。
父の気を惹くことだけに熱心だったので、邪魔をしなければ意地悪もされない。私の家庭教師もそのまま付けてもらえた。
足が悪いので、外へ出かけることはあまりなくなり、以前にも増してたくさん本を読むようになった。勉強のため、と家庭教師は新聞も読ませてくれた。彼女のおかげで得られた知識は多い。
足のリハビリにも付き合ってくれ、努力の甲斐があって、15になる頃には父をイラつかせない程度には自然に歩けるようになった。
この頃には家庭教師にすっかり懐いて、日に3時間の授業が楽しみでたまらなかった。
父が彼女を毒牙にかけるまでは。
16歳の誕生日に、私は授業の後に家庭教師と一緒に食べようと、料理長に特別にお菓子を分けてもらいに行った。焼き上がりに少し時間がかかったが、私の一番好きなお菓子を料理長は喜んで手渡してくれた。
部屋に戻ると彼女はおらず、帰ったのかと思ったが、大切なカバンが残されている。
おかしいと思ってカバンを持って部屋を出ると、3つ向こうの父の部屋から彼女の声がしたような気がした。
用心深く近づくと、くぐもった女性の声と、父の低い声が聞こえる。見てはいけない。本能がそう告げているが、扉にかけた手は止まらなかった。
音を立てないようにそうっと扉を開けると、ベッドの上に父がいる。全裸で、家庭教師の彼女にのしかかっていたのだ。チラリと見えた彼女の顔は涙で濡れており、口には猿轡が噛まされている。
慌てて戸を閉める。震えが止まらない。どうしたらいいの?
家庭教師のカバンを持ったままフラフラと歩く。
そこへジョゼットが戻って来た。
私を見て嫌そうに顔を顰めるが、私の蒼白な顔と持っているカバンを見て何か察知したのか、ツカツカと父の部屋へ歩いていく。
その後は、いわゆる修羅場だった。
金切り声を上げるジョゼット、泣き続ける家庭教師。
父はつまらなさそうに出かけて行ってしまった。
結局ジョゼットも、家庭教師もいなくなってしまった。
父の手癖の悪さは以前からのものだったようだ。
四番目の妻は数年前に新しく雇った下男の妹だった。
どうして結婚に至ったのか、もう知りたくもない。
唯一、神に感謝したのはこの四番目の妻のノーリーンが従姉妹のシャーリーを雇ってほしいと頼んだことだった。
年頃の私に侍女もいないのは体裁が悪いと思ったのか、新しい妻の頼みを一つくらいは聞こうと思ったのか、父はシャーリーを私専属にしてくれた。
二つ年上のシャーリーは明るくて、手先が器用で、今まで引き篭もりがちだった私の世界に色をつけてくれた。
「お嬢さま、美人なんですから大丈夫ですよ!」
そう言って、公爵様にお会いした夜会にも送り出してくれたのだ。
家の中の暗い雰囲気にも負けず、シャーリーの手にかかるとすべて笑い話になってしまう。
不幸続きのアイリーンが希望を失わずに前を向けるのは、家庭教師の教えと明るいシャーリーのおかげだ。