2 アイリーンの場合
アイリーン・ホーランドは途方に暮れていた。
父から今日の夜会で、あるいは今シーズン中には、結婚相手を見つけるように言われているのだ。
「貴族なら誰でもいい。」そういう指示である。
元々娘への関心が薄かった父だが、ここに来て目障りになってきたのだと思われる。それがわかったからと言って、今更傷つくような関係では無いが、これまで家からほとんど出たことのないアイリーンにとっては、初めての夜会で人に話しかけるなど、できそうにもない。
これまでまともに会話をしたのは父と、使用人のシャーリーと、家庭教師だけだ。実の母の顔は覚えていない。母に抱きしめられたり、頭を撫でられたり、そのような記憶はアイリーンにはない。
知り合いのいない夜会でどうすれば、父の指示に従えるのか。
父の指示は絶対だ。可及的速やかに、指示を実行しなければならない。そうでないと・・・
左足の付け根がズキンと疼く。
慣れないドレスが足に纏わりついている。何人目の母のものかわからないが、とにかくこのドレスを着ろと言われて着た。アクセサリーなどは一切付けていないし、そもそも持っていない。
シルバーブロンドのアイリーンに全く似合っていない濃いオレンジのそのドレスは、趣味の悪いバラのモチーフが何筋にも渡ってつけられていた。
見かけない顔に、似合わないドレスを着た娘に話しかける物好きはいない。しかも一緒に来たのが評判の悪いダリウスだ。好奇心の籠った視線か、誰でもいいから今晩の相手に連れ帰ろうという好色な男の視線が向けられるばかりだった。
馬車を降りて早々にダリウスは仕事の知り合いの元へ行き、アイリーンは独りになってしまう。ドレスを上手く捌けずにもたついていると、いつの間にか扇子を落としていたようだ。
見知らぬ男性に拾ってもらう。
扇子を拾った男性は、手を差し出したまま固まっている。
(こういう時は何て言えばいいのかしら?)
ふさわしい言葉もわからず、アイリーンは慌ててお礼を言って扇子を受け取ると、ダリウスを見失わないように後を追った。
それからも何一つうまくいかない。
世間知らずのアイリーンも、自分のドレスが周りの趣向と若干違って浮いていることや、エスコートのいない初心者がこのような社交の場で溶け込んでいくのはかなり難しいであろう事はすぐに理解できた。
かと言ってどうすることもできず、結局は父の近くでこのいたたまれない時間が早く終わるのを待つことにしたのだ。
それが父の気に障ったらしい。
会場の外に連れ出され、再び叱責を受ける。
「いいか。私の周りをうろついていないで、誰か見つけてたらしこめ。お前をこれ以上養うつもりはない。言った通りにしろ。わかったな。あと1時間は帰らないからな。」
「はい、お父様、、、、」
掴まれた腕が痛い。ここで従順に頷いておかなければ、この程度では済まなくなる。
逆らわない様子のアイリーンに興味を失い、ダリウスは会場へ戻ってくれた。掴まれていたあとが痛い。これは跡になるかもしれない。
さて、あと1時間どうするべきだろう。
今日はもう誰かに話しかける勇気も気力もない。家に帰って、かつての母たちの部屋からもう少しマシなドレスを探し出し、シャーリーと知恵を絞って直してみよう。
父に見つからないように時間を潰せる場所はないかしら。
アイリーンが会場までの通路と反対側を見やると、男性が一人近づいてきた。
「いい月夜ですね。」
見覚えはない。ひどく綺麗な顔立ちをしている。
何と言っていいかもわからず、アイリーンが返事を躊躇っていると、その紳士はさらに言葉をかけてきた。
「先ほど、お会いしましたよね。あなたの落とし物を拾った男ですよ。お忘れですか?」
悲しい、といった表情で紳士はアイリーンにさらに近づく。
思い出した。けど、はっきりお顔を見たのはこれが初めてだわ。さっきはお父様に置いていかれると思って気が急いていたから。
「あ、先ほどの・・・。失礼しました。その・・・ありがとう、ございました。」
アイリーンが鈴を振るような声でやっと言う。
「素敵な声だ。思った通りです。私はアルフレッド・バトロイデス。今日あなたにお会いできて光栄です。お名前をお伺いしても?」
「アイリーン・ホーランド、です。父はホーランド伯爵です。」
アイリーンも慣れない自己紹介をする。相手がこの国の重要人物であることに驚いてしまった。御三家の公爵については家庭教師に習ったことがある。この国の中枢で唯一国王に意見できる貴族であり、莫大な資産を持ち、バトロイデス家は金融と経済の主軸を支えているという。普通ならアイリーンのような伯爵家の小娘が口などきける方ではない。そのような人がどうして私に?
「あの、私。すみません。父と来ておりますので、失礼を、、、。」
アイリーンが初めて人前で披露する貴族の礼をして、その場を去ろうとする。
「待ってくれ。」
アルフレッドの目がすうっと細められる。
「まだ夜会は始まったばかりだろう?それともこんなおじさんの相手が嫌だった?」
そんなことを言われるなんて。確かこの公爵様は23歳で後を継がれたと新聞で読んだ。18歳のアイリーンから見ても『おじさん』などと言うには早すぎる。
アイリーンは焦って言う。
「そうではありません。私、気後れして、、、。バトロイデス公爵様にお声掛け頂くような身分ではありませんので。」
「ホーランド嬢。それならどうか、私と一時、過ごすことを許してほしい。大勢人がいるのが苦手で、休みたいと思っていたんだ。どうか話し相手になってくれないだろうか。」
身分の高い方からのささやかなお願いを、無碍にすることもできない。アイリーンにとっても時間をつぶす理由ができて丁度良かったこともある。
遠慮がちに頷くと、アルフレッドは自然な仕草でアイリーンの手を取ると、さっと自分の腕にかけて中庭へエスコートした。あまりに慣れた素早い行動にアイリーンも慌てて付いて歩く。
左足を引き摺らないように気をつけた。父に「みっともない」と言われるため、普通に歩く練習をしておいて良かった。あまり無理をして歩くと翌日は痛くて腫れてくるのだが、今日は仕方ない。
つと目を逸らしたアルフレッドが冷たい笑みを浮かべて隠れた侍従に頷いたことなど、アイリーンには気づくことはできなかった。