まんゆうき
1.
(は~! スゴイ解放感。これが東京かぁ)
東北地方から新幹線に揺られて数時間。
東京駅から、山手線に乗って渋谷へ。
そして、渋谷から電車で5分のところにある三軒茶屋。
地元の高校を卒業して、上京したてほやほやの女の子、牛上美波はオシャレな下町で有名な三軒茶屋の駅前に降り立っていた。
(くんくん……はぁ~、仄かにパンの香ばしくて甘い香りがする。空気はちょっと悪い気がするケド……いいなぁ、東京。憧れの土地にワタシ来たんだぁ~)
――季節は春。
華やかな都会生活に憧れる一心で上京してきた美波は、東京の雰囲気、東京の空気を満喫していた。
軽やかな春風の吹き抜ける中、高揚して舞い上がった気分で、三軒茶屋の街中を闊歩していく。
オシャレなカフェに、オシャレな古着屋さん。行列のできてるカレー屋に、焦げた小麦の香り漂うパン屋さん。人波あふれ、春めく気分満開の、まるでお祭りの時のような華やかな喧噪に、ああ、こんな楽しい世界があるなんて、と、美波はすっかり魅了されていた。
ふと、美波はショーウィンドーに仄かに映る自身の姿を見てみる。
中肉中背の身体に、上は横縞の青と白のストライブの入ったTシャツで、そこにフードの付いた緑色のジャンパーを羽織っている。下は身体のラインが隠れる太めの黒のパンツルックで、靴も黒でローヒールの革製のを履いている。髪型はボブヘアーで前髪ぱっつんといった具合。
う~ん……いまいち垢ぬけてないかも。
髪染めようかな、などと化粧映えのしない、しかし、素朴な顔立ちの良さのある自身の顔を見つめながら、美波は春風で乱れる髪を手櫛で整えた。
はぁ~、なんかお腹空いてきちゃった。どこで食べよう?
と、美波は手提げバッグの中からスマホを取り出す。
やっぱりオシャレで美味しいお店がいい。
美波はネット検索で三軒茶屋のオシャレで美味しいお店を調べていく。
……と、近くにいい感じのカフェがあるのを発見した。
そして、歩くこと3分。『ル・ロマリー』という瀟洒なカフェを見つけ出し、ああ、ここだここだと美波は少し緊張した面持ちで、店の中へと入っていった。
上品でスタイルのいい、カフェの制服がとてもよく似合っている店員に案内され、美波は着席する。
店内は木目調の木々を組み合わせた内装で、テーブルや椅子もセンスのよさそうなデザインで木製のものを使っている。ところどころに観葉植物など緑のものがあしらわれ、清浄で品の良い雰囲気が店内には漂っていた。
そして、美波はテーブルの上に置かれている白地のオシャレなメニュー表を眺める。
そこには、キッシュやグラタンスープなどフランスの定番のランチメニューが記載されていたが、美波にとってはどれも馴染みのないもので、一体どれを頼めばいいのやら、思わずむむむっと目が泳いでしまう。
しばらく悩んだ末、本日のおすすめのランチメニューを頼むことにした。
店員に本日のおすすめランチをくださいと伝え、しばし美波は食事がくるのを待つ。
ふふふ、なんだか気分が高まっている。明るくて清々しい気持ち。
店内に居る女子たちもみんなキレイだし、やっぱり地元とは全然雰囲気違うなぁ。
店内をキョロキョロと見回しながら、美波がふんふんと頷いていると、果たしてランチの食事がやってきた。
目の前に、ワンプレートの様々な料理が乗った皿と、香ばしいコーヒーが置かれる。
ワンプレートの皿のメインディッシュは、切り揃えたバゲットの上にエビやホタテなど様々な海鮮のマリネが乗っていて、シソやチーズや玉ねぎなどがバランス良く和えられているものだ。
その脇に、いくつかの副菜が乗っていて箸休めとして食べてくれといった仕様になっている。
うわぁ、オシャレ。なんだか食べるのが勿体ないかも知れない。
そわそわした面持ちで、美波はバゲットを手に取る。
そして、バゲットを上に乗ったマリネごと齧り、はむはむと噛みしめていく。
うっ……このパン……固い。
すごく固いよこのパン。口の中に刺さりそう。これが東京のパンなの……?
美波は訝しむが、そのままバゲットを噛みしめ続けていく。
すると……なんともいえない深いうま味、仄かな甘みが口の中に広がっていく。
あっ、これフランスパンか……噛めば噛むほど味が出るっていう……ホントだ噛めば噛むほど味が出る……おいし~。
興奮気味に一切れ分バゲットを食べ終えると、すぐに次のバゲットへと手を伸ばす。
そして、あれよあれよという間に、バゲットも副菜も全部食べてしまった。
ふぅ~。おいしかったぁ。またここに食べにこよう。
温かいコーヒーを飲みながら、満足そうに美波は一息ついた。
と。
ふと、時間が気になり、テーブルの上に置いていたスマホに触る。
げっ、もうこんな時間だ。……不動産会社の人と待ち合わせてたんだった。
美波は慌てて会計を済ませると、店から飛び出していく。
小走りで、時折スマホのマップで方向を確認しながら、引っ越し先のアパートへと向かう。
――10分後。件のアパートに到着した美波は、階段を駆け上がり2階へ。
205号室、と書かれたプレートの前には、既に不動産屋と思しきスーツ姿の男性が待っている様子が伺えた。
「すみませ~ん。ちょっと遅れてしまいました」
「大丈夫ですよ。お気になさらず」
慌ててペコリと謝る美波を不動産会社の男は、平静な様子で受けた。
それから、部屋のカギを渡され、水道やガスの会社の連絡先を受け取った美波は、不動産会社の男と別れた。
新居に入室して、洗浄クリーニングを受けたばかりの部屋の空気を満喫する。
とりあえず、やることがないので美波はフローリングの床にゴロっと寝転がった。
(ふ~う)
と。
ピンポーン! と部屋のチャイムが鳴った。
「はい」
誰だろう? と思いながら美波は部屋のドアを開ける。
すると、玄関先に居たのは引っ越し業者と思しき男だった。
パリッとした制服に帽子を被っている。
その帽子を脱いで、男は言った。
「すいません。まだお約束の時間ではないのですが、お時間前倒しという形で差支えないようでしたら、これから引っ越しの作業をしても宜しいでしょうか?」
「は……はい。どうぞ」
「ありがとうございますっ」
男はありがとうと言うと、踵を返して、階段を駆け下りていった。
そして、しばらくすると何かを手にして階段を駆け上がってきて、失礼します、と言って、玄関先にマットを敷いた。
後ろには別の男が2人控えていて、冷蔵庫を2人がかりで持ってスタンバイしている。
冷蔵庫はかなり大きくて、重さも相当ある様子で、大人の男が2人がかりで持ってもなんとか力一杯でギリギリ持ち運びができているという感じだった。
プルプルと震えながら、声を合わせて男達はマットの上に冷蔵庫を置いた。
……。
それを何気なく見ていた美波はふと思い立ち、冷蔵庫に片手をかけた。
すると。
そのまま片手で、スッと何気なく冷蔵庫を持ち上げ、ワンルームの部屋の奥へと向かっていく。
思わず、引っ越し業者の男達はそれを目の当たりにしてギョッとする。
「……と。ここでいいかな」
言うと、美波は部屋のコンセントの前に冷蔵庫をやはり片手で持ったまま置いた。
………。
あまりの出来事に引っ越し業者の男達は沈黙するしかない。
それからも、鏡台やタンスなど重そうなものが部屋の前まで運ばれてきたら、美波は手伝って、どんな品でも軽々と片手で持って部屋の奥へと運んで行った。
「う~ん、信じられん。一体どういう握力……というか、体幹が異常に強い」
「是非ともウチで雇いたい」
「重量挙げで金メダル獲れるんじゃないだろうか……」
引っ越し業者の男達は口々に美波の尋常ならざる怪力に驚き、褒めたたえた。
「これ、ウチの連絡先です。待遇とか考慮しますので是非ウチで働くことを考えてみてください」
最後には、引っ越し業者の会社の連絡先を渡され、美波は思わず苦笑した。
「このバカ力でよくみんなに驚かれるんですよね」
引っ越し業者の男も苦笑で応えて、そのまま、ありがとうございました、と言って去っていった。
……。
………。
引っ越し作業を終えて、ガスや水道、ネット業者などにも連絡を終えた美波は、外に散策に出ることにした。
目的地は――渋谷。
若者のメッカと言われる渋谷へと繰り出しに行くのだ。
美波の胸は期待に高まる。
美波は再び、三軒茶屋の駅へと戻り、田園都市線の電車に乗り込み渋谷を目指した。
カタンコトンと電車に揺られ、すぐに電車は渋谷駅に到着する。
電車を降り、複雑な渋谷駅の構内マップを見てから、美波はハチ公口の改札を抜ける。
そして、出たのは有名な旧渋谷センター街。とりあえず、忠犬ハチ公の銅像を写メでパシャリと一枚撮影してから、スクランブル交差点越しに、美波は旧センター街を一望する。
……なんだかゴチャっとしてるな。
……うん、ゴチャっとしている。
飲食店を中心に様々な店の看板や、企業広告ばかりが目立つ景観になっている。
まるで、少し怪しいネットサイトに所狭しと沢山表示されている広告の山みたいだと美波は思った。
でも、なんか人波はお祭り並みに凄いし、みんな垢ぬけて見えるしで、やっぱり渋谷は東京の中でも特別な場所のように思えた。
美波としては、渋谷で働きたかったので、よさそうな職場の下見もかねてやってきたのだが、洗練されている一方で雑多過ぎる渋谷の雰囲気にどこか気後れしてしまった。
なるべく隅っこの方を歩こう、などと思ってしまいスクランブル交差点の歩道の端の方を歩いて旧センター街へと吸い込まれていく。
しばらく歩いているとマックがあって不思議と安心したり、何かのキャッチらしきスーツ姿の派手な髪の男達に恐れおののいたりしながら、無事に旧センター街を往復した。
(ふう。渋谷ってちょっとレベルが違う。オシャレで制服の可愛いカフェで働こうと思ってたけど、ムリっぽい。とりあえず、人波に慣れるのも兼ねて簡単そうなティッシュ配りとかから始めようかな)
元々、渋谷を散策したらアパートに帰る予定だったが、思ったよりも時間が余ったので、オシャレなことで有名な代官山にも行ってみることにした。
山手線に乗って、代官山へ。
山手線の2,3分置きにひっきりなしに電車がやってくる凄さや、しかもほぼ随時満員電車なことに驚きながら、電車に揺られて代官山へと向かっていく。
代官山に着いたら、スマホのナビを頼りに、思い切って高級ブランド店が取り仕切っているビルへ向かう。
物怖じする気持ちよりも、いつか高級ブランド品を手にしたいという夢を追いたい気持ちの方が美波の中で勝っていたのだった。
正装の礼服を着ている店員の目線を気にしながら、美波はブランド品を物色する。
……。
(やっぱり本物のブランド品はオーラが違う。手触りも質感もつくりも格調が高い。ああ、いつかこういうブランド品を身に着けて、都内の色んなとこ散策したいなぁ……)
などと思いながらエルメスのバッグを物色していると、店員が歩み寄ってきて話しかけられそうになったので、慌てて美波は撤退することにした。
……。
………。
帰りの電車の中。
……。
………。
なんとなくブルーな気分になって、三軒茶屋の駅に降り立つ。
――遠い。理想とする世界が美波にはとても遠く感じられた。
あのエルメスのバッグについていた値札のお金を稼ごうと思えば、日給1万円のバイトを半年もしないといけない。勿論、家賃などの生活費が毎月出ていくので、それを差し引くと何年かかるか……。
それなら、いっそ……。
ふと、よくない考えが頭の中に過ってきたので、ふるふると頭を振る。
真っ当にアルバイトしながら、ステップアップを考えていこう。
そう思い直して、最寄りのコンビニに寄ると、今日の晩御飯のサンドイッチとアルバイトの求人誌を手に取り、家路へと向かうことにした。
2.
新居のアパート、階段を登り205号室のドアを開ける。
まだ見慣れない部屋の間取りに少し高揚感を覚えつつ、テレビのスイッチをオンにして部屋を賑やかしながら、ベットにドサッと寝転がり、さっきコンビニで取ってきた求人誌をパラパラとめくる。
色んなバイトがあるが……。と、渋谷区の求人情報欄にあった。
ティッシュ配りのアルバイト。時給1200円! スゴイ、さすが東京。時給1000円の壁を軽々と超えてくる。
美波は浮き立つ気分になって、早速ティッシュ配りのアルバイト求人を出しているコンタクトレンズの会社に電話をかけることにした。
電話をかけると、明日にでも面接をしたいということで、履歴書も不要ということらしい。
――ふぅ、やることはやったし、明日に備えて寝るか。
ということで、美波はテレビを消して、電気も消して、買ったばかりのフカフカの布団の上に横たわり、寝ることにした。
……。
………。
次の日。
再び、渋谷駅に降り立った美波はハチ公口前すぐにあるコンタクト屋に面接を受けに来ていた。
普段着でも大丈夫だろう。ということで、普段着のまま面接会場となっている部屋のドアをノックする。
コンコン……。
「どうぞ」
落ち着いた中年男性の声に招かれて、美波は少し緊張しながら部屋の中に入る。
そして、そのまま面接は淡々と進み、無事に即採用ということになり、明日から駅前でティッシュ配りのアルバイトをはじめることになった。
そして。
――約1ヵ月後。
念願の初給料が振り込まれると、美波は満面の笑みで三軒茶屋で人気のハンバーガーショップへと向かった。
お目当ての品は、テンフィンガーバーガー。
その名の通り、指10本分の高さがある巨大なハンバーガーだ。
これに定番のフライドポテトとクラフトコーラをセットにして注文した。
美波の目の前に、テンフィンガーバーガーが運ばれてくる。
香ばしく焼き上げられたパンズの香り、ジューシーな肉汁滴るハンバーグからあがる湯気、とろけているチーズ、新鮮で彩り豊かなトマトやレタス……ハンバーガーからくる五感に対する様々な刺激が美波の食欲をくすぐる。
(すごい。すごい迫力のあるハンバーガー。とてつもなくおいしそう……)
美波はあふれ出てきてしまうヨダレを抑えつつ、テンフィンガーバーガーに思いっきり齧りついた。
――。
(スゴイ)
これは……。これはまるで……世界そのものを食べているかのようだ!
美波にはそう感じられて、深く感激した。
こんなに美味しいハンバーガーが食べられるなんて、なんて私は幸せ者なのだろう……。
ハンバーガーを食べて口の中にまとわりついた油っ気をフライドポテトを口に含み噛み締め落としつつ、すかさずシュワっと甘くて蠱惑的なクラフトコーラを流し込む。
……。
なんという官能体験。
これぞ絶品というヤツだろう。
美波はハンバーガー、ポテト、クラフトコーラの三味一体のコンビネーションを何度もサイクルして、うんうん、サイコー! と深い満足感を得た。すると、ここ一か月節制を強いられ枯渇していた心が、一気に満タン近くまで潤った。
ふぅ。やっぱり食べ物の力ってスゴイなぁ。食べる前と後で全然気分が違うんだもん。
幸福。
その二文字が美波の頭の中に浮かぶ。
ふぃ~。ごちそうさま。と、心の中でご馳走様をして、会計を済ませて美波はハンバーガーショップの外に出た。
ひょっとしたら、まだ小腹が空いてるかも知れない。
でも、これから食べたら太りそう……絶対太る。
と、逡巡しながら歩いていると、『なんと今だけピザ半額 本場イタリアンシェフの渾身作』と書かれているのぼりを見つけて、思わず足がピタッと止まる。
――は、半額!?
こ、これは食べるしかないのでは……。
今まさに直前に巨大なハンバーガーを食べたばかりだというのに、美波はイタリアンピザ屋に魔法のように吸い込まれていく。
どうやらこの一ヵ月の禁欲生活で、そうとうフラストレーションが溜まっていたらしい。
人が時折陥るという、胃袋が底なし状態になってしまった美波は、ピザ屋で一番大きなサイズのピザを注文すると、そのピザが届くや否や猛烈な勢いで食べ始めた。
食べるというより貪ると言った方が適切だろうか。
(んほっ、んほほっ、このアツアツのピザサイコー! チーズとトマトのコンビネーションって神が与えた最高の恵みだわ。うまかりし、いくらでもイケちゃう!)
興奮しながら、どんどんピザを胃袋に収めていく。
お腹がパンパンになった美波は、苦しい、けど大満足な様子でピザ屋を後にする。
そして、帰宅すると、歯も磨かずにグゥゥとすぐに寝てしまった。
……。
それから……。
それからは、毎日同じような生活を繰り返した。
ティッシュ配りのバイトが終わると、帰り際に美味しいものをたらふく食べては、すぐに寝るという日々。
当然のようにあれよあれよと太っていき、二ヶ月後には今まで着れていたスカートが入らなくなったり、そのスカートの上には腹肉が乗ってしまうという状態になってしまった。
とある日。鏡を見て――。
(ワタシ醜くなってる。恥ずかしい。こんなんじゃ外出歩けないよ……)
醜形恐怖症のようになってしまった美波は、それからバイトにも行けなくなり、家の中に引きこもるようになってしまった。親にはちょっと病気になって働けなくなったから仕送りしてくれと連絡して、つまりは遂にニート化してしまう。
――それから更に一ヵ月後。
美波は一層太っていた。
部屋の中には、ウーバーイーツで頼んだ出前の空容器が散乱し、所狭しなゴミ屋敷と化している。
掃除もせず、洗濯もせず、風呂にも入らず、朝起きれば身体が重たくて倦怠感があり、ベッドから起き上がることが出来ない。何をするのも億劫になってしまって、殆ど寝たきりの生活になり、昼夜逆転、メンタルボロボロ、生きる楽しみは一日二回頼むウーバーイーツだけになってしまっていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
わからない。
以前、地元の友達が東京は恐ろしいところだと言っていたけど、そういうことだろうか?
わからない。一体何が原因でこうなってしまったのか。
ただ。ただ今は、なんとなく死にたい。
美波は、ゴミ屋敷の中、一日中、死にたい気持ちばかり抱えながら生活するようになっていった。
――そして、ある日。
衝動的に自殺してしまいたくなった美波は、ベルトで輪をつくり首吊り自殺しようとする。
そして、いざ首を吊ろうという時……。
母親の顔が浮かんできた。
まだ自分が赤ん坊の頃の、若々しい母親の姿だ。
母親の顔は満面の笑顔だった。母親は美波を見つめて嬉しそうに笑っている。
そうだ。ワタシこんなに望まれて産れてきたのに……。
うう、ごめんなさい。お母さん。こんな筈じゃ、こんな筈じゃないのに……。
どうしてワタシこんなことしているんだろう? 本当は死にたくなんかない。
生きたい。
強くそう思った美波は、涙ながらにそのまま外へ飛び出し、あてもなく走り始めた。
とにかくこのまま家の中に居るのは不味い。そう感じたのだ。
外は真夜中。
夜風に当たりながら、三軒茶屋の駅の方へ向かって、美波は疾走していく。
人影は無く、街頭の薄明りだけが頼りの中、美波は走り続ける。
そして、ふと、転んでしまう。
もんどり打って、ゴロゴロと地べたを転がる。
(ワタシなにやっているんだろう……)
少し冷静になった美波は、上を見上げる。
すると、見たこともない老婆が美波を間近で見つめていた。
フードを被り、髪と顔の一部を覆い隠した、なにやら怪しげな老婆だ。
「お婆さん、誰ですか?」
思わず、美波は尋ねてしまう。
「……。私は占い師。未来が見える者ですじゃ」
老婆はおずおずと喋りだした。
「見たところ、貴方様は特別な星周りの元に産れた特別な存在――無料で視て進ぜましょうが、如何ですかな?」
「お、お願いしますっ。実はワタシさっき死にかけてしまって!」
美波は、この老婆が白馬に乗った王子ならぬ、星から飛んできた救世主のように思えて、藁をもすがる気持ちで食い気味に言った。
「宜しい。では失礼して――」
老婆はそう言うと、美波の額に人差し指と中指を当てた。
そして、目を閉じ、精神集中すると何やら小声でブツブツと呪文らしき言葉を唱え始めた。
しばらく、沈黙した後、クワッと老婆は目を見開く。
「この者、未来に在りし黄金竜の加護を得し者。その絶えなき願いは何れ天に星を昇らせ、遥か時代を繋ぐ架け橋となる」
3.
「え? なんですか?」
美波は老婆に言われたことの意味がわからなかった。
それでも老婆はニコリと微笑み、言葉を続ける。
「望むままに生きなされ。そなたは仮初めの洗練された都市の人間に憧れ、本来の自分を見失っておる。望むままに生きれば、困難はあれど、必ず打破できましょうぞ」
「望むままに……」
「はい」
でも、ワタシの性根は……。
それ以上、美波は自分のことを意識することが出来なかった。
自我に対する防衛機能が働いた為ではない。
老婆の背後に4人の黒服のスーツ姿の男達が居て、こちらににじり寄ってきているからだった。
「おい、ババア。邪魔だ」
黒服の男達の中の一人が邪険そうに言った。
「ひっ」
老婆はその声に恐れおののいたのか、何かを察したのか、小さく悲鳴をあげるとそそくさと逃げ出し、この場から立ち去って行った。
「おい、そこの太った女」
黒服の男達は老婆を一瞥すると、美波に話しかけてきた。
「な、なんですか」
美波は今更ながら、自分が裸足で、キャミソールの下着姿で外に出てきていたことに気付いた。警戒しながら、男達に応ずる。
「死ね」
「え?」
思わず、美波は聞き返す。
今、死ねと確かに聞こえたけど、まさか初対面の人間にいきなりそんなことを言う筈がない。
美波は自身の常識と照らし合わせて、なにかの聞き間違いだと判断をした。
「死ね、と言ったんだ。耳が悪いのか? もう一度言ってやろう、死ね」
聞き間違いではなかった。確かに死ねと言っている。にわかに美波の身に緊張が走る。
「お前みたいなのが居るからいつまでも世の中が良くならない。速やかに、死んでくれ」
別の男が口を開く。
「な、なんでワタシが死なないといけないんですか? いきなり……なんなんですかっ」
「黙れ。四の五のグダグダ言い繕うなら、死ねないなら俺達が殺してやる」
「本気で言ってるんですか? 警察呼びますよっ」
そう言ってから美波は、自分のスマホを家に置き忘れていたことに気付いて激しく後悔した。
身体が緊張して、冷たい汗が滲みでてくる。
「タダで死ねると思うなよ。じっくりとなぶり殺しにしてやる」
言うと、4人の黒服の男達は美波ににじり寄ってきた。
(こいつら本気だ。やるしか……ない)
怪力無双の己の両の拳を握り締め、美波は臨戦態勢に入った。
それにしても、人払いでもしているのだろうか、確かに真夜中だが不思議なほど他の人がこない。
と。
「お待ちなさい。貴方達」
上品で高貴な感じがするが、同時に威圧的でもある若い男の声がした。
美波が声がした方を見やると、黒づくめのゴスロリファッションに身を包んだ20代中盤位に見える男がいた。相当なイケメンで思わず美波はドキリとした。
(ひょっとして、白馬に乗った王子様が助けに来てくれたのかも)
なんて風に、一瞬夢見心地になる。
「土野様っ。わざわざこの様なところに」
黒服の男の一人が狼狽しながら言って控えると、一斉に他の男達も控えて地面に片膝を付く。
「およしなさい。ここは下界。いくら魂のステージが違うとは言え、ここ下界において人は皆平等なのです」
「はっ」
土野と呼ばれた男に諭され、黒服の男達は控えるのをやめにした。
「失礼しました。お嬢さん(マドモアゼル)。いきなり死ねなんて言われても困惑するだけですよね」
土野は、片手をひらひらさせてから、自身の鳩尾の辺りに当てると恭しく礼をした。
「あなたは?」
美波は要領がよく飲めないといった様子で尋ねた。
「申し遅れました。私の名は、土野夜風。黒銀会の代表を務めております。以後、お見知りおきを」
言って、土野は洗練された動作でもう一度礼をする。
「黒銀会? ってなに?」
耳慣れないワードに美波は自己紹介を返すことも忘れて尋ねる。
「黒銀会は、これからの時代を見据えて、社会の裏側から社会正義を実現する秘密結社です。貴女のように欲深い動機から都市部にやってきた人間を処罰……つまりは、抹殺をすることで綺麗な社会を実現していくという次第です」
土野は悪びれる様子もなく朗々と説明をした。
「抹殺って、殺すってことですよね? なんでそんなことをするんですか? 犯罪でしょう」
美波は殺人なんてとんでもないと、いたく真っ当なことを思い、それをそのまま口にした。
「利器に頼れば、機知が減る。文明こそは真に罪深い存在です。……貴女は本当はご存じの筈ですよ。ご自身の一体何がいけないのかを」
土野にそう言われて、確かに美波には思い当たるところがあった。
けど、それはみんな同じじゃないか、とも同時に思い、自身を否定してしまう念を必死に抑える。
「仮にワタシがいけない子だとしても……それでも殺すなんて酷いじゃないですか。ワタシだって両親から望まれて産れてきたんですっ。ワタシはワタシ。牛上美波という人間です。他の誰にもなりませんっ」
ハッキリと美波は抗弁した。
どうやら先程の占い師だという老婆のアドバイスが効いたようだ。
「フフフ、ならばいいでしょう。話は終わりにしましょう。お前達、このお嬢さん(マドモアゼル)を殺して差し上げなさいっ」
「はっ」
土野の号令に黒服の男達は応え、懐からナイフを取り出してきた。
一対四の構図。しかも、こちらの方は丸腰だ。
美波の貌に戦慄が走る………かと、思いきやニヤッと笑った。
「いいですよ。そっちが銃刀法違反なら――」
そう言って、美波は『40』と書かれた速度制限の標識が付いている鉄柱を軽くチョップする。
すると、鉄柱は唸りをあげてねじ曲がり、そのまま切断されてしまった。
そして、その鉄柱をひょいっと持ち上げ、右手で握り締める。
「こっちは器物損壊、道路交通法違反でいきますっ」
速度制限の標識が付いている鉄柱を振りかざし、美波は四人の男達に突進していく。
――ガキィイイイイイイイン。
と、黒服の男の一人のナイフと、道路標識の金属が当たった音が響き、火花がスパークする。
「なんだこの女、バケモノだっ」
今更ながら別の黒服の男が言って、男達四人は頷き合い、四方に散っていった。
そして、美波を四方から囲むように包囲網をつくり、じわりじわりと間合いを詰めていく。
「ムダですよ。全力疾走、いきますっ」
美波は言うと、裸足でアスファルトを蹴り上げ、そこから凄まじい加速度でグングンと足を速めていく。
そして、円を描くようにスパイラルしながら、その円周を拡大させていくと、右手に持った道路標識の鉄柱で、黒服達に足払いをかけていく。
「ぐっ」
「うがっ」
「なんとっ」
「ちくしょう」
四人の男達は足元を払われて、すっ飛んでもんどり打って転がっていく。
しかし、全員すぐさま立ち上がり、各々が再びナイフを構えた。
「ふふっ、結構丈夫ですね」
美波は嬉しそうにほほ笑む。どうやら戦闘に入って気分が高揚してきたようだ。
「舐めやがって」
忌々しそうに黒服の中の一人が呟く。
そしてまたすぐに、戦闘が継続していくと思われた。
が。
「お止めなさい。どうやら貴方達の敵う相手ではありません。――私がお相手をしましょう」
土野が黒服達を制した。
代わりに自分が出る、と言って、ゴスロリファッションに身を包んだ土野が美波の前へと移動していく。
見た目は、身長は高い部類だが、細身でそんなに力があるようには思えない。
それでも美波は銃などが飛び出てくることを警戒して、緊張した面持ちで臨戦態勢に入った。
「ふふふ、どうやら警戒すべき強敵と認めてくださった模様……光栄ですよ、お嬢さん(マドモアゼル)。そこの黒服の男達は強化人間で一人でも並みの男十人よりも強い戦闘力を持っているのですが……驚きました。これは賞賛に値します」
土野はそう言うと、パチパチパチと拍手をし始めた。
どうやら、嫌味などではなく、本当に感服して拍手をしているらしい。
敵相手に一体なにを考えているのだろうかと、美波は訝しく思った。
「先程は、話は終わりだと言いましたが、気が変わりました。貴女は興味深い。もう少しお話をしましょう。如何でしょうか?」
「べ、別にいいですケド」
イケメンにお話ししましょうと言われて、美波は少し嬉しくなってしまって受けてしまう。
「貴女の身体能力、尋常ではありませんね。産れつきそうなのですか?」
土野が尋ねる。
「……子供の頃、神社にお参りにいく途中で大ケガをしてしまって……それで、慌てたお祖母ちゃんが、神社に供えられている特別な御神水をワタシに飲ませてくれたの。ケガがあっという間に治るご利益があるからって。……それから今みたいに人並み外れて強くなった」
「なるほど。神水を飲んだのですか。それはそれは……なるほどね」
「……」
合点が行ったという具合に頷く土野を美波は注意深く見つめる。
「これほどの戦闘力を有する人間を失くしてしまうのは、惜しいですね。……どうでしょう。改心して、我々の組織に貢献したいとは思いませんか?」
「改心って?」
素朴過ぎる疑問に、土野はふふっと冷笑する。
「この現存の文明は地球を汚し過ぎています。全ての原因は人間が持つ欲望からです。共に欲望の強い人間達を粛清していきましょう。――綺麗になった地球を未来の子供達に残すために」
独善的。だが、尤もな正論を土野は美波にぶつけてきた。
しかし、美波は動揺することはなかった。そして、口を開く。
「人間にはね……人間には、欲しいものを欲しいと願う力がある。それは誰にも邪魔できないし、欲しい気持ちがこの素晴らしい世界を発展させてきたの。……そりゃ地球がおかしくなっちゃうなら、欲しい気持ちも抑えなきゃいけないのかも知れないけど、現状なにも異常なことは起こってない訳で、一部の学者の人達がヤバイって言ってるだけの話だよ。ワタシはそれを信じない。この目でそれを確認するまでは。――欲しい気持ちは譲れないよ」
美波は自身の気持ちを言い切った。
と。途端に土野の顔がプルプルと振るえる。
怒りのあまり血管が浮き上がり、顔が真っ赤に紅潮している。
「……なんという恥知らずな。クソにも劣る汚物が……お前に生きる価値などない。――死ね」
4.
言うと、土野はアスファルトの地を蹴って、凄まじい速度で美波に向かって突進してく。
それは、常人の速度を遥かに凌駕し、先程の美波のトップスピードをも超えていた。
(手加減無用ね。……こっちだって全力でいくわ)
美波は手にしている鉄柱を振りかざし、それを思い切り突進してくる土野に向かって叩き込んだ。
ジャストタイミング。
叩き下ろした鉄製の標識は、土野の顔面を捉え強かに打ち据える。
やった。
会心の手ごたえを感じ、美波は勝利を確信する。
が。
くにゃり。と鉄製の標識はねじ曲がり、見ると土野の顔面は無傷だった。
なんという石頭。と、思う前に土野の手刀が美波の鳩尾をとらえる。
グハッ。内臓を損傷したのか美波はわずかに吐血しながら、息を強制的に吐き出された。
同時に手にしていた鉄柱からも手を放してしまう。
(――こいつ、強い)
今まで何処かしら負けはしないだろうと、余裕ぶっていた美波ではあったが、その余裕が一気に吹き飛ぶ。
(身体にダメージも受けているし、きっと長くは戦えない。アレをやるしかない)
意を決した美波は、手刀を叩き込んでから一旦距離を置いた土野に対して、陸上のクラウチングスタートのポーズを取った。
「――爆速ダッシュ。ステージ1(ワン)」
美波は身体に巡る気を高速循環させ、代謝を異常活発化させ、爆速的に推進していくためのエネルギーを貯めていく。
そのエネルギー量およそ7000キロカロリー。
脂質の体積にして1kgに及ぶエネルギー量を一気に消費して、そのエネルギーを足の筋肉に注ぎ込む。
超高熱を発した足からは湯気が立ち上がり、わずかに周囲の空気を歪ませている。
そして、美波はアスファルトの大地を蹴った。
まるでロケット砲の如くの加速度で、音速を超え、空気を切り裂き、ソニックブームを発生させながら、瞬間的に土野との間合いを詰めていく。
(イカン。これはモロに食えば危ない)
そう判断した土野は、足を曲げ、それを力いっぱい伸ばし、上空へと飛んで躱そうとする。
しかし。
(逃がさない)
美波は、尋常ならざる脚力で、アスファルトを蹴ると、やはり上空へと飛んで、土野を撃墜しようと狙う。
(イカン。避けられ――)
上空に逃げたのが逆に仇となり、身を捻り躱そうとする土野に対して美波の身体が激突する。
ズドンッ!!
大砲を撃った時のような響き渡る音が鳴り、それからグシャリと土野の身体が砕ける音がする。
身体中の骨が折れたのか、土野は身体の関節があらぬ方向に曲がり、そのまま落下していって、地面に激突した。
ドォンという鈍い音が響き渡る。
美波はズドンと着地すると、痛む身体に耐えつつ、土野の安否を確認しに向かう。
すると。
これ以上はさせないと、黒服の四人の男達が、美波に対して立ちはだかってきた。
「ぐっ、おやめなさい。私はまだ負けていない……」
地面に突っ伏したまま、息も絶え絶えに土野が黒服の男達を制する。
「しかし……」
どうしたものかと狼狽しながら黒服の一人が抗弁しようとする。
が、更にそれを土野が制した。
「貴方方にはやるべきことが他にあります。―――それは、この私の養分になることですよ」
言うと、土野の背中が盛り上がり、四本の触手が飛び出してきた。
四本の触手は、それぞれ黒服の男達に突き刺さると、みるみる内に身体の中身を吸い上げていく。
黒服の男達はどんどんと干からびていき、10秒もかからずにミイラ状態になった。
「ふぅうううう、素晴らしい。四人の尊い犠牲により、私の魂のステージは一層高まりました。――見なさいっ」
土野は精力満々といった様子で立ち上がると、むんっという掛け声と共に身体が肥大していく。メリメリと上の服が破れて、肌が露わになり、瘦せ型から一転して筋肉質になった身体が一層に肥大していく。そしてとうとう身の丈2mを超える巨漢へと変貌を遂げた。
「ふははははは、素晴らしい。素晴らしいぞ。力が漲る。……いいことを思いついた。このままキサマを吸収して一層ステージを高めてやろうっ。光栄だと思え。さぁ、今こそ私と一つになろう」
土野は狂喜乱舞しながら、背中の触手を振り回し、その内の一本が美波に向かって襲いかかる。
美波は尋常ならざる驚異の動体視力で、それを素手でキャッチし、叩き折ろうと手刀を叩き込む。
が、触手には思いの他弾力性があって、ブヨンッとしなるのみで、ダメージを与えるには至らなかった。
(クッ、手ごわい。……今まで試したこともないけど、限界を超えるアレをやるしかないか……)
触手の先端が肥大化した土野の元へ戻り、ウネウネとしている。
美波は再びクラウチングスタートのポーズを取ると、決意を込めて口を開いた。
「――爆速ダッシュ。ステージ5(ファイブ)」
実に先程の5倍に及ぶカロリー。つまりは、35000キロカロリーを一瞬で消費する美波をして限界を超える必殺の疾走。
太っていた美波の身体はみるみると痩せていき、身体は膨大な熱量に包まれ、身体中から湯気が立ち上って、着ていたキャミソールを雨にずぶぬれになったかの様に湿らせる。
エネルギーチャージ完了。
空間が湾曲するのではないかと思えるほど激しい足蹴りをアスファルトにして、火の粉を散らせながら空前絶後の速度で土野夜風に向かって突っ込んでいく。
そこに海があったなら海が割れるのではないかと思うほどの勢い。
しかし、土野はそれを四本の触手を重ね合わせて受け止めようとする。
先程、上空に飛び上がり痛い目に遭ったのと同じ轍は踏まないという算段であろう。
果たして、グワシッ!!!! とゴムチューブにバットをフルスイングで叩き込んだ時と同じような音が、その数十倍のボリュームで鳴り響く。
――土野の四本の触手はそれから音もなく崩れ去った。
が、美波の勢いもそれで死んでしまい土野に届く寸でのところで静止している。
……土野はニヤリ、と笑った。
限界を超えた力を使い切ってしまった美波はガクリと力なく膝を地面に付いた。
身体中が痛い……もう動く力がない。
美波は濡れた身体のままアスファルトの上に横たわった。
5.
土野が舌なめずりをしながら、美波の元へと歩み寄る。
「ふふふ、精魂尽き果てましたか、お嬢さん(マドモアゼル)。触手も壊れてしまったことですし。どうですここで選択肢を貴女に与えましょう」
「……ぅ」
美波は言葉を発することも困難になっていた。
それには構わず土野は話を続ける。
「一つ目の選択肢、このまま私になぶり殺しにされる。二つ目の選択肢、今からでも改心して黒銀会に忠誠を誓う。……お好きな方を選びなさい」
「……ぅ………ワタシゎ……」
「ふむ」
「ワタシは……欲しいものは欲しい。その気持ちだけは絶対に譲れない……」
「ふむ」
そう頷くと、土野は美波の顔面を強かに蹴り上げた。
うぐっ、とうめき声をあげて美波は地面を舐めるように転がっていく。
「それでは、なぶり殺しということで」
……。
………。
それからは、凄惨なリンチが始まった。
何十発、何百発と土野は美波に蹴りを浴びせていく。
蹴られる度に、美波はうめき声をあげながら地面の上を転がり、次第にその地面は美波の流した血に滲んでいった。
数十分も続いたであろうか、土野は満足気に笑みを浮かべて、美波に蹴りを浴びせるのを止めた。
美波のキャミソールは血の赤に染まりあがり、身体中のあちこちに青タンやら赤タンができて醜く膨れてしまっている。
「……ぅ」
息も絶え絶えに美波はうめくことしかできない
もはやその心はバキバキに折れてしまっていて、抵抗する気力すら失ってしまっていた。
土野は、むんっと言うと、背中が盛り上がっていき、再び四本の触手が生えてきた。
「リバイバルタイムが終わりました。触手も復活したことですし、楽にして差し上げましょう」
「………」
土野は触手を美波に向けようとする。
が、寸前になって殺すのが惜しくなってしまったのか、はたまた黒い征服欲が湧いたのかはわからないが、もう一度だけ、美波に先程の提案をしてみようと思いついた。
「本当のラストチャンスです。心を入れ替え、黒銀会のために尽くしなさい。私達に忠誠を誓うなら助けて差し上げましょう」
「………」
美波は迷った。ここで折れなければ確実に自分は殺される。
それならば、一時の嘘でもなんでもいいので、黒銀会とやらに忠誠を誓えばいいのでは?
そんな思いが、葛藤が脳裏に過ってくる。
そして、美波は口を開いた。
「……ゃだ」
美波は土野の提案を拒絶した。
「はははははっ、この期に及んで我を通すとは、愚か過ぎて笑うしかありません。――いいでしょう望み通り死になさい」
土野が触手を美波に突き刺そうと構える。
――その時。
「よくぞ、己が存在の意思を貫き通した。その心意気、努々(ゆめゆめ)忘れることなかれ」
誰かの声が聞こえてきた。
「なんですっ。ここは今は結界の中。普通の人間は入ってこれない筈です」
不意の声の持ち主の存在に狼狽し、土野は周囲をキョロキョロと見回す。
しかし、誰の姿もない。
「我とて敵が多い身。時空を超えてくるのに手間取ってしまった。しかし、今こそ天より助けの手を下そう」
――上かっ!?
声がした方を今度は確実に捕え、土野は上を見やる。
すると……。
そこに居たのは、翼はためかせる黄金の巨竜だった。
バッサバッサと大きな翼でアイドリングしながら、上空から滑降してきている。
その存在を目の当たりにし、土野は恐れのあまり目を見開く。
「黄金竜……。我々高次の6次元存在の遥か彼方上をいく17次元の存在と謂われる……あの黄金竜が、こんな低次元の下界に……降臨………信じられん」
黄金竜は、そのまま滑空して地上に立ちすくんでいる土野に対して、ぱっくりと口を開けると――。
パクン、と一飲みにしてしまった。
即座に土野は黄金竜の胃袋、煮えたぎる胃酸の中に送り込まれていく。
その刹那……。
(ああ、なんという至福。これほどの高次の存在と一体化できるとは……神よ、感謝いたします)
そう思いながら、土野はドロドロに溶けて消えてなくなった。
黄金竜は、そのまま音もなくアスファルトの大地の上に降り立つ。
「………」
そして、言葉もなく地面に横たわったままの美波と対峙した。
「………」
黄金竜は、美波の心の中を読み解いていく。
そして、何かに思い当たった。
「そこな少女――牛上美波よ。遅れてしまったことの詫びだ。たった一つだけそなたが心底欲しいものを与えて進ぜよう」
(欲しいもの……たった一つだけ)
大金が欲しい。と、即座に思い立った美波であったが、本当はそれは違うような気がして思い直した。
そして、おずおずと口を開いた。
「彼氏が欲しいです。できればイケメン男子が。というか絶対イケメン男子がいいです」
「――よかろう」
黄金竜は言うと、静かに目を閉じた。
すると黄金竜の身がみるみると縮んでいき、同時に変形していく。――人間の形へと。
そして、昭和のスターが着るような金のキラキラした衣装に身を包んだ、イケメン男子へと変貌を遂げた。
「特別サービスでそなたのケガは治しておいた。それでは我が彼氏とやらになってやろう」
そう言うと、黄金竜だったイケメン男子は美波の身体を抱え上げ、お姫様抱っこした。
「なんだか照れてしまうな。……正直言ってこっぱずかしいぞ」
イケメン男子が頬を赤く染めながら言う。
それを見て、美波はニヤリと笑っていった。
「とりあえず、1億円頂戴! あと、ブランド品と御馳走と最新のスマホと、高級車とデラックスパフェと……あと、あと……」
堰を切ったように、美波の要望が溢れ出てくる。
「お前、やっぱり卑しいんだよっ。ちゃんと教育して叱ってやるから覚悟しろっ」
「あ、ハイ」
美波はイケメン男子の言うことを素直に受け入れた。
それで、ますますイケメン男子の顔が赤くなり、思わずプッと美波は笑いだす。
「それよりその派手でおかしな格好をどうにかした方がいいと思う」
「なんだとっ!? これが最先端のオシャレなのに、そんなこと言っちゃう!?」
「まるで昭和だよ」
「な~ん~だ~とぉおおおおおおおっ」
――空が明るみ始める中、牛上美波と謎の黄金竜であるイケメン男子の痴話喧嘩はいつまでも続いたという……。
ハッピーエンド