エア弓道
坂本さんに紹介してもらった植物標本の整理のバイトは、結局5日ほどで終了となった。宇佐美先生からは、また整理が必要な時期が来たらお願いするので来て欲しいというお言葉があり、初めてのバイトで大きな失敗をせずにすんだらしいことにホッとした。
私は、初めてのバイト代は翌月の25日に振り込まれると聞いて、手帳の日付部分に花丸印を付けてしまった。もちろん、弓道部での活動に必要なお金として使うつもりではあったのだが、初めてのバイト代で、両親と祖母にも何かプレゼントがしたいという気持ちもあった。
そして、5月の連休には、一旦、実家に帰るつもりでいたので、その時までに振り込みが間に合わないのは、ちょっぴり残念ではあった。
弓道部の方は、数日休んでしまったものの、特に、何か言われることもなかった。しかし、今村君も西川さんも、射法八節をクリアしてしまっていて、ゴム弓を引かせてもらえる段階に移っていた。
私は完全に遅れてしまったのである。
焦ったところで仕方がないのであるが、私は、連休中のことが気にかかりだした。もしも、連休中に、今村君や西川さんが実家に帰らないとしたら? 勝手にそんなことを想像してしまっていた。
「連休中も、サークルって活動するのですか?」
私は、恐る恐る訊ねた。
「うちの部は、5月の連休中は特別な予定は無いよ。私も、実家に帰る予定にしてるし。毎年、連休中も弓道場には、誰かしら来ているみたいだから、練習したければ可能なはず。でも、まだゴム弓まで行ってないし、連休中に射場デビューは無理だから。焦っちゃ駄目だよ。」
倉科さんには、完全に見透かされているようだった。
それでも、なんとか、連休明けまでには射法八節をクリアしたい。私は、空きスペースでゴム弓を順番に引いている今村君と西川さんを横目に、エア弓道に励んだのだった。
坂本さんからのアドバイスもあって体の軸を意識するようになってからは、弓構えまでは比較的スムーズに進められるようになった気はしていた。単に手脚を動かすのではなく、体の軸をまっすぐに保ったまま胴体ごと動かすイメージが自分の中に形作られてくると、ふらつきも出なくなってきたのだ。
射法八節の打起しは、頭上に弓矢を持ち上げる動作である。私が勘違いしていた、というか、和弓に関して、それまで知らなかったことなのだが、単純に腕だけで引くわけではなかったのだ。一旦、頭上に持ち上げて、それを降ろしながら引き分ける、つまり、漢字の八の字みたいな動きが入るのだった。
そして、打起しには、「正面打起し」と「斜面打起し」という2つの方法があるのだが、教わったのは「正面打起し」の方だった。サークル内に「斜面打起し」をしている人がいなかったから、というのが理由だったりするのだが、弓道場内にあった教本を見たところ、これは私にはかなり難しそうだと感じた。「正面打起し」の方は基本的に平行に動かす動作だけであるのに対し、「斜面打起し」の方は斜めに構えた状態から体と平行になるように調整が必要なので、せっかくましになってきた胴造りが、またもや崩れそうな予感しかしなかった。好きな方を選んでよいと言われたとしても、敢えて「斜面打起し」を選択したいとは思えなかった。
もっとも、ただ平行に動かすだけの「正面打起し」の方だって、私にとっては簡単ではなかった。
的の方を見つめたまま、体の正面に対して平行に両腕をゆっくりと持ち上げるわけだが、両手を見ないで平行を保つのは思いのほか難しいのだ。
さらに、打起しに続く「引分け」は、文字通り弓を引く動作なのだが、これも、どちらかと言うと、左手の方で弓本体を押し出すイメージなのだ。
一旦、頭上に持ち上げた弓矢を降ろしながら引き分けると、ちょうど、矢の高さが口の高さまで降りたぐらいで、両腕の長さの関係で、それ以上広げることができなくなる。この限界の状態を「会」と呼び、その「会」の状態を越えると「離れ」、すなわち矢が離れて的の方へと飛んでいく。そして矢が離れた後の姿勢を「残身」という。
正直、エア弓道の段階では、弓と矢の重さや、弾力はかかってこないので、ピンとこない部分もあったのだけれど、後日、ようやく先輩方のOKを貰ってゴム弓を引く段階になってから、さらには弓と矢を実際に手にした段階になってから振り返ってみると、一連の流れは、よく考えられたものだなあと、感心するしかなかった。
一方で、私は、弓矢は、あまり実戦向きの武器ではないなあ、とも感じたのである。
儀礼的な動作になっているにしても、一連の動作には時間がかかり過ぎて、連続で矢を射ることは難しいし、おそらく視野は、的方向にのみ集中する形になるので、他の方向から突然襲われたらひとたまりもないだろう。
昔、社会科見学で、お城の壁に、内側から矢を射るための防御用の小窓が開けられているのを見たことがあったけれど、少なくともああいう場所じゃないと、怖くて無理だよなあと、思うのだ。
つくづく、私が生まれた時代が、平和な世の中であって、良かったのである。




