初めてのバイト
秋の桜子 様からFAをいただきました。
バイトを紹介してくれるという坂本さんと待ち合わせをしたのは、水曜日の講義が終わった後だった。前日のサークル終了時に、バイトに行くことを話したら、倉科さんから、あっさりと「じゃ、明日はお休みなのね。」と言われた。
その辺は、かなり緩めらしい。皆、それぞれの経済状況は違っていることが前提で、奨学金を貰っている上にバイトを掛け持ちしていても苦しい学生もいるので、バイトに行くためにサークルを欠席することには寛容らしいのだ。通常ならば、欠席することを伝えてくれればよいということだった。大きな試合を控えた時期は、またちょっと別の感じらしいのだが。
「うちの大学は全般にその辺緩めだよ。地元から離れて下宿生活送ってる学生も多いし。まず、生活が成り立っている事が優先だね。スポーツで有名な大学とかとは全然違うから安心して。」
私の不安そうな顔を見て、坂本さんもそう言ってくれた。
坂本さんに連れられて私が向かったのは、教養課程で使用している講義棟の中の教室の一つだった。
そこにいたのは、生物を担当している講師の宇佐美先生だった。
「今日から手伝ってもらえるって聞いてるけど、大丈夫?」
宇佐美先生は、段ボール箱と新聞紙の束をたくさん教室に運びこんでいた。
新聞紙の間に挟まれていたのは植物標本だった。
「新聞紙に植物標本と、メモが挟んであるので、メモを見ながらラベル書きをして欲しいんです。」
宇佐美先生は標本用のラベル用紙に、手書きされたものを見本として渡してくれた。
「分からないところは空欄にしておいてくれて構いません。ただ、メモは紛失しないようにしておいてください。メモと標本ラベルに共通のナンバーを振って保存しておくので、捨てちゃわないでください。」
共通ナンバーは、何列も数字のゴム印帯が付いていて回転させて使うスタンプで刻印した。そしてメモを見ながら、ラベル用紙を埋めていく。
何でも、定期的に、宇佐美先生が県内のあちこちで採取してきた植物標本を整理しなければならず、その手伝いとして学生バイトを数人雇うのだそうだ。大学構内でバイトをすることになるとは思ってもみなかったが、他にも学食の食器洗い、大学生協の棚卸の手伝いなど、大学構内のバイトはいくつかあるのだそうだ。これらのバイトは、一時的なものなので、継続的なバイトはまた別に探す必要があるのだが、1回やっておくと、再度人手が必要となった場合に、優先的に連絡がまわってくるらしい。
気が付くと、窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
坂本さんも私も、そして宇佐美先生も、伸びをする。とにかく数が多いので、植物の和名および学名書きは続けていると、目が疲れる。肩も凝ってくる。
そこで、今日の分は終了となった。
続きは明日。というわけで、明日もサークルはお休みすることになった。私は、倉科さんに事情を説明するため電話をかけた。坂本さんは、その様子を傍で聞いていた。
「大丈夫だった?」
「はい。バイト頑張ってねって、言われちゃいました。」
倉科さんは、私が、サークル活動にお金がかかることを気にしているのを知っている。それで、ということもあるはずだ。連続で休むことに関しても、特に何も言ってはこなかった。
「弓道の方は、どう? その、馴染めてるのかな?」
坂本さんも気にしてくれていた。
「ええ。でも体が硬いのと、もともと運動神経が良くないのとで、一緒に入った子と差が付いちゃってる感じはありますね。射法八節やってるんですが、弓構えのところで、顔向け? 首が突っ張った感じになったり、姿勢が崩れちゃうんです。」
私は、経験者である坂本さんになら、なんとなく分かってもらえる気がした。
「それは、足踏みの時点から見直さないと駄目かも。首が突っ張るだけなら、肩に力が入ってるのかなって感じだけど、姿勢が崩れちゃうのだとしたらね。」
坂本さんからは、もっとも初期の段階から駄目だと言われてしまったのだった。
「難しいんですね。なんとなく、腕力っていうか、腕の力の方が要求されるのかと思ってたんですけど、それ以前、しかも脚の方が大事っぽいし、当初、考えていたのとは違う感じで……。」
「弓の力に負けないように、きちんと姿勢を保っておく必要があるんだよ。脚っていうか下半身は体の土台だからね。洋弓の方はよく知らないけど、和弓に関しては腕で引くっていうより、肩甲骨の辺りで引き分ける感じなんだよね。感覚的な説明で分かりにくいかもしれないんだけど。」
「肩甲骨ですか?」
「あくまでも感覚的な話なんだけどね。だから体幹がブレないことが大事だし、体幹を支える下半身の位置決めは重要なの。やっぱり、分かりにくいかあ。もともと言葉で説明するのって苦手なんだよね、私。高校の時、後輩に教えなきゃいけなかったんだけど、どういうふうに伝えたらいいのか分かんなくってさ。」
「でも、なんだか今の言葉で、イメージがちょっと変わった気がします。」
坂本さんの経験者としての言葉は、私にとって、充分に重みのある言葉であった。少なくとも、意識するポイントが全然違っていたことに気付けたのは大きかった。
そして、坂本さんは、大学では、弓道をやめてしまっているけれど、やっぱり弓道のことが好きなんだなあと思えた。私の言葉に対しても、すごく真面目に答えてくれているのが分かる。
まだ、始めたばかりの私がこんなことを思うのは不遜なのかもしれないけれど、勿体ないなあと感じてしまう。物事を直観的に捉えることができるというのは、一つの才能なのだ。特に考えなくても、重要な部分を正確に掴んでしまえるから、言葉にして説明することが難しい。どういうふうに伝えたらいいのか分からない。でも、きっと、ふとした瞬間に浮かぶピッタリな言葉があって、それは、他の周囲の人間に大きな衝撃を与えるのだ。
坂本さん自身は、少しも、自分の発した言葉の意味などピンときてはいないようだった。