初心
私は結局、坂本さんに相談したことで、少し落ち着いて考えることができたのだと思う。
自分でも嫌になるほど、主体性が無いのだが、大学に入学して以来、始まった新生活の中で、自分がいかに田舎育ちの世間知らずであるかを思い知らされ、周りの誰も彼もが当たり前のようにどんどんと決断していく様を呆気に取られて見ていることしかできていなかったのだ。
自分で、決めなければ駄目なのだ。サークルにしたって、バイトにしたって。そんな当たり前のことなのに、私は、大学や都会の雰囲気に完全に呑まれてしまっていたこともあって、ずっと受け身の姿勢でしかいられなかった。
とりあえず、流れで弓道部に入ることになってしまったような感じだったが、やってみようと思えた。坂本さんの話通りなら、最初っからいろいろと購入する必要はないようだし、もし、自分に合っていないと感じたなら、その時にきちんと断ればいい。その時、私は、そう考えたのだ。ただ、2、3か月くらいしたら、いろいろと必要な物が増えてくることが分かったので、お金の準備はちゃんとしておかなければならないと、手帳に記入した。
坂本さんが紹介してくれたバイトで、どの程度の金額を確保できるかは、その時点では、はっきりしていなかったが、同じバイトということであれば、今後も何かと坂本さんからアドバイスを貰えるはずと期待した。実際、同郷のよしみ、同じ高校の後輩ということで、頼りにさせてもらっている。その後も、弓道を続けるにあたって、経験者として、いろいろと教えてくれて助かっているのだ。
それにしても、私と一つしか年齢も違わないのに、坂本さんは随分としっかりしている。私も、1年間大学生をやっていたら、あんな風になれるのだろうか?
ともあれ、必修科目に関しては一通り講義を受け、選択科目もある程度決まってくる頃には、私も少しは新生活に慣れてきていた。
そして、バイトなどの用事が無い日には、講義が終わったら、そのまま、弓道場へ直行するようになっていた。私の他に、経済学部の今村君と理学部の西川さんが入部を決めて、私たちは一緒に、射法八節を覚えることになったのだった。
射法八節というのは、弓道の基本のようなものだ。正しい姿勢と動作で、「正しい射法」にのっとり練習すれば、百発百中の達人になれると、昔の偉い人が伝えているらしいが、その「正しい射法」というのを説明したものが射法八節なのだ。
それは、足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残身の8つの項目に分けられている。
このうち、足踏みは、的前に立った時の位置決めで、体を安定させるのに重要な動作である。
弓を引く時は、的を真正面に見るように立つわけではない。的が自分の左側になるように立つのだ。そして、的の中心と左右の母趾を繋ぐ線が直線になり、その直線に対し左右の母趾はそれぞれ60度の角度を付け、正三角形を作るようにイメージするのだ。
実際の動きは、まず、自分の的に向かって射場の立ち位置まで進み、自分の的が左側になるよう横向きに立つ。足が揃った状態から左足の方をまず左側へ開き、次いで右足を左足の方に一旦寄せ、扇のように半円を描きながら右側へ着地させる。この時、足元を見てはいけないのである。
特に緊張すると、動きがカクカクとぎこちなくなる私は、流れるような動作が上手くできず苦労した。
先輩たちは弓と矢を持った状態で、射場に入る全員が、きれいに揃った動きを難なくしていた。
慣れもあるのだろうが、比べて、自分の所作の拙さには、つくづく残念な気分にさせられた。
胴造りは、足踏みに続けて行う動作であるが、これが一番説明しにくい。
要するに、弓を引く動作に入る前に、安定した姿勢を完成させておく、ということである。姿勢が安定していなければ、ぐらぐらとしてしまい、的が定まらないだけでなく危険を伴う。
私は、両太ももと腹筋を緊張させ、上半身をまっすぐに保つよう意識してはいるが、両肩の線と腰の線と足踏みの両母趾が作る線の3本が平行になる理想的な姿勢を作るのは、なかなか難しいのだ。
弓構えは、矢をつがえて、的を注視するまでの一連の動作を示す。
そして、弓構えは、取懸け、手の内、物見という3つの動作に分けられる。
取懸けは、体の正面で右手親指(実際には弽というグローブのようなものの弦溝部分)に弦をかけて、弦と矢を保持する動作のことだ。
手の内は、「手の内を見せる」という慣用句にもなっているあの「手の内」。弓を持つ左手の形を整える動作で、ここが良い形になっているかどうかが鍵。そしてこれは、上手な人のコツ、いわば秘密中の秘密と考えられていて、それ故にあの言葉ができたということらしい。
取懸けが右手側の準備ならば、手の内は左手側の準備なのだ。
最後に、物見であるが、これは両手の準備ができたところで、呼吸を整えて、視線を的の方へ移す動作。大きな木を抱えるようなイメージで、両腕は丸く保ち、肩を動かさないようにして、静かに顔を的の方へ向け、的を見定めると説明されている。が、どうも、私は肩が動いてしまう。首がつりそうになる。
今村君はなんだかんだで、運動神経が良いらしく、あっさり動作を会得してしまっている。西川さんは、なんでも中学高校とダンスをやっていたそうで、体が柔らかい。やっぱり、動きに無駄がない。スムーズな動作は、まるで日舞か何かのように見えなくもない。
私だけが、どうにも不格好な感じになってしまう。
順番を待つ間、私たちの練習を入れ代わり立ち代わりで見てくれている先輩方も、私の動作を見て、頭を捻るばかりだ。
走らなくてもいいが、体は柔らかくないと駄目だったようなのだ。
つくづく、残念なのだった。




