坂本さん
「それで、入部を決めちゃったわけ?」
坂本さんは可笑しそうに言った。
「そうなっちゃうんでしょうか? どうしたらいいのか、正直、困ってるんです。」
私は、高校の先輩で大学の先輩でもある坂本さんと食事をする約束をしていた。
もともと、決して交際範囲が広いとは言えない私は、クラスが同じか選択科目で一緒になるかの条件に当てはまらない人物をほとんど知らなかった。ずっと帰宅部だったこともあって、上の学年にも下の学年にも親しい人は数えるくらいで、坂本さんも高校時代から知っていたわけではなかった。大学入学が決まった時、担任教師が、一学年上に卒業生がいるはずだと教えてくれ、慌てて連絡を取ったのだ。
ほぼ初めてお会いしたといっていい坂本さんは、親切な人だった。
ロシア料理を専門とするお店の方も、彼女が選んで予約してくれていた。
高校でも一学年しか違わなかったのだ。校舎のどこかですれ違うくらいはしていたかもしれない。しかし、申し訳ないことに、私は、まったくその顔に見覚えが無かった。
坂本さんの方は、なぜか、私のことを知っていた。
「鈴木さん、隆君と一緒のクラスだったでしょ。恩田隆久。父方の従弟なのよ。」
いったい、従弟のクラスメートだという理由だけで、話もしたことのない人物のことを覚えているものなのだろうか?
坂本さんは、私の方が覚えていなかったことに関しては、大して気にもしていないようだった。
そして、彼女は、高校時代、弓道部員だったのだ。大学では弓道部には入らず、漫画研究会というサークルに入ったという。
「あの、うちの大学の弓道部って、何か問題でもあるんですか?」
私は、気になって、ピロシキを食べる手を止め、かなりストレートに訊いてしまった。
「違うよ。あぁ、知らなかったのね。問題があったのは高校の時の方。退部が相次いだの聞いたことない?」
坂本さんは少し表情を曇らせて言った。その瞬間、私は思い出した。確か、私が1年生だった秋に、弓道部内で内輪もめのような状態が起こり、主流派でなかった子達が結構大きな大会を前に集団で退部してしまったという話があったのだ。それで、同じクラスだった木下さんや多部君が弓道部を辞めたので覚えている。
「すみません。今、思い出しました。」
「謝ることはないよ。あの時、私、部長から泣きつかれて残ったんだよね。でも、本当は、辞めちゃった子達との方が仲良かったから、いろいろギクシャクしちゃってね。弓道自体は好きだったんだけど、大学では、もういいかなって。漫研に入ったのは、単純に、私オタクなんだよね。イラストとか描くの好きだし。」
坂本さんは、運ばれてきた、きのこのつぼ焼きの上に被せられたパン部分を外して、中のクリーム煮を口にした。
ロシア料理だと、パイ生地ではなくパンが乗ってるらしい。中身はサワークリーム煮だった。熱々で、舌を少し、やけどしてしまった。
坂本さんは、うちの大学の弓道部に関しては、内情は知らないが、悪い評判も聞いたことがないと言う。
必要な道具についても、高校時代の経験を基に、分かる範囲で教えてくれた。
「弓と矢はサークルの物を借りることができるって聞いてるのね? それだったら、あと必要なのは、道着一式と足袋と草履。弽も要るね。下弽でしょ。弽っていうのは弓を引く時に使うグローブみたいなもので、怪我しないために必要なものなの。下弽は、指カバーみたいなもん。弽の汚れ防止だね。女子は胸当ても要るし、あ、弦に弦巻も。」
「そんなに、いろんなものが必要なんですか? あんまりお金掛けられないんです。バイトもまだ決まってないし。」
私は次々と名前を出された必要品に、かなり焦った。
「ん、でも、最初の2、3か月は必要ないはずだよ。弓って、いきなり引くことはできないのよ。最初は射法八節っていうのを覚えて、一連の動作がスムーズにできるまでは、ひたすらエア弓道だから。その次にゴム弓っていう、自転車のタイヤのチューブみたいな道具を使っての練習。そこまでは、たぶん何にも要らないんじゃないかな? ゴム弓もどうせサークルにあるはず。」
「そうなんですか? だったら、慌てて、いろいろ揃えない方がいいってことですか? その、合わなくて辞めちゃうことになるかもしれない、……ですし?」
私は、自分の発言がかなり微妙であることに気が付いて、途中から口を濁した。
坂本さんは、苦笑いしていた。
「まぁ、嫌々やってもいいことはないからね。気乗りがしないんだったら、早めに断った方がいいよ。弓道は、まったく危険が無いというわけじゃないしね。」
かなり真剣な顔で、そう言った。
「危険があるんですか?」
私は、母に報告する時のことを考えて、できるだけ情報が欲しかった。
「弓矢って、人殺しのための道具だよ。」
坂本さんは、さらっと、しかし、きっぱりと言った。
「包丁が人を傷付ける道具にされてしまうこと、場合によっては命を奪ってしまうことだってある。でも本来、包丁は料理の為の道具なんだよね。正しい使い方をする分には優れた、必要な道具なんだよ。でも、弓矢の正しい使い方って何だと思う?」
「それは……。」
私は言葉を続けることができなかった。
「弓矢は人を殺すための、戦争のための道具なんだよ。これ、高校の弓道部で、練習を見てくれていた師範の先生から最初に言われたことなんだけどね。」
坂本さんは、どこか遠いところを見るような表情をした。
「誤解しないで欲しいんだけど、弓道、お勧めではあるんだよ。私は弓道場の何ともいえない静けさが好きだった。でも、危険はあるの。だから、よく考えてね。あと、さっき、バイトまだ決まってないって言ってたよね。」
横では、キノコのつぼ焼きの乗っていた皿が片付けられ、次の皿が並べられていた。フォルシュマークというニシン料理だった。
「良かったら、私のバイト先、紹介するよ。実は、誰かいい人いたら連れてきて欲しいって頼まれてるの。」