せーので笑おう‼︎
「……うん、間違えたんです」
「カエデさま、うっかりにも程がありますぞ」
「おムコさんって、言うべきでした……ね」
「大丈夫です。そこまでは私も通訳してませんから、父王シャフィーク=マフムードさまは『嫁』の日本語の意味などは、わかっておられますまい」
「……そうですか。じいやさんの機転で命拾いしました……」
「あれから、シャフィーク=マフムードさまは呆然とされまして、自室へと帰られたわけですが……」
「はい、もう日本へ強制送還ですね。ワカッテマス」
「カエデさま……」
私はうなだれながら、呟いた。もうだめ。魂が抜け去っていくのをこの目で見送りました。
「じいやさん、私、お父さんにタックルしてからどうなったか、一切の記憶を失くしているのです」
「なんと⁉︎ それほどの、衝撃だったのですか」
「覚えていないんです。どうやって、あの地獄のダイニングを生きて出られたのかも、定かではありません」
「ほほう。そこまで思いつめておられましたか……お可哀想に」
「もうだめ」
「……そんなことはありません」
「もうだめでしょうう」
がばっと顔を上げる。
「だって、……だってえ」
涙が零れ落ちていく。ツンと鼻の奥に痛みがあって、私は手の甲で何度も何度も涙を拭いながら、しゃくりあげた。
「せ、せっかく、マッフーに、ひっく、連れてきてもら、もらったのに、ぜんぶぜんぶ、ひっく、……だいなし、に、」
「カエデさま……」
「う、うえ、うえーん」
涙が次々に出ては、胸の底から塊のようなものがせり上がってきては、私を苦しめる。
こんなことになってしまって、もうマッフーに合わす顔がない。マッフーの立場だってあるというのに。全てを馬鹿みたいにダメにしてしまった。
「もう日本に帰りたい……」
ぽつっと弱気の言葉が、転がり落ちた。
自分が言うのもなんだが、明るいだけが取り柄のはずの私が、もう自信喪失、人生のどん底にいるのかと思うくらいに、落ち込んでいる。
こんな気持ちになったのは、本当に久しぶりだよ。
太刀打ちできない大きな壁を、ボルタリングのようによじ登っていったというのに、途中で手が離れて、真っ逆さまに落ちていった気分。落ちた地面に大の字になって見る空は、ここザイードでも青いんだ、そうなんだ。ぽけーーー。
どんっと落ち込んでいると、知らぬ間にじいやさんは静かに去っていて、部屋には私ひとりぼっち。
すると、涙がさらに湧き出して、私はベッドにがばっと伏せて、おんおん泣き出した。
「パパ、ママ、おじいちゃん……」
遠い日本が懐かしい。
「……マッフー、」
するとドアが、トントンと優しくノックされた。はっとしてドアの方へと目を向ける。
真っ赤な目で、はい、と答えると。
ドアが開く。
マッフーが、そろっとドアから覗くようにして、入ってきた。
「カエデ、……」
ようやく。
戻ってきたあ。
私はベッドから飛び降りると、マッフーの元に駆けていき、そしてマッフーに飛びついた。首に腕を回す。ぐいっと背中に回された太い腕に力が入って、私の身体は少し持ち上がる。
涙でぐちゃぐちゃになった顔を、マッフーの肩口に押しつける。すると、嗚咽を抑えることができなくなった。
「ま、マッフー、ごめ、ごめんな、さい」
「カエデ、すまなかった。俺が留守にした間、父上が……」
「う、うえ、」
「おまえにこんな辛い思いをさせてしまった。男として本当に不甲斐ないよ……」
「うう、ふう、」
「でも、嬉しかった」
「ぐすっ、……?」
顔を離して、マッフーを見る。すると、マッフーは優しげに微笑みながら、私の頬に流れる涙を、手で拭った。
「俺を嫁にもらってくれるのだろう?」
そのおどけた言い方で、私はふっと吹き出してしまった。そして弱々しくとも笑った目から、涙がぼろっと溢れ落ちた。それを、マッフーが親指ですいっと拭ってくれる。
「王位継承権は、放棄してきた。もうただの男でしかないが、それでもいいか?」
その大きくて温かい手で、頬を包んでくれる。覗き込む瞳は、濃いグレー。私のために、ヒゲまで剃ってくれたんだ。
「うん、いいよ」
「愛してるよ、カエデ」
「うん、私もマッフーのこと大好き」
初めて。
するりと言葉が出たんだ。
ああ私、マッフーのこと、こんなにも好きになってたんだなあ。
『活動』で遊ぶ時、一緒にご飯を食べる時、折り紙を折る時、公園を散歩する時。マッフーの楽しそうな笑顔が一番好き。
自分でも知らない間に。こんなにも、マッフーの存在が私の中に入り込んできて。
マッフーがおずおずと寄せてくる唇が、私の下唇と上唇を交互に吸っていく。
そして、その間を軽く、舌で撫ぜてから……。
脳が甘く、痺れていく。
その痺れに身体の力がするすると抜けていって、揺れる身体をマッフーが、太い腕でしっかりと支えてくれる。それでも、ふらと足が揺れ、ドアにもたれかかった。
背中にどんっと小さな衝撃があってから、マッフーが身体を押しつけてきて、私を支えてくれる。
「ああ、カエデ、カエデ、」
「ん、マッフー……」
息ができないほどの深いキスをして。私は唇を離してから、マッフーに抱きついた。
幸い、ベッドはすぐ側にある。
これはもう……。
「ん?」
これはもう、
「むむ?」
マッフー⁇ どうした⁇
「しっっ」
さっきまで私の唇を貪っていた口元に、人差し指を立てる。
しーんとした空気。その空気の中、ドアを挟んで向こう側から。
「(……兄ちゃん、声が聞こえなくなったよ)」
「(しいっ、静かに)」
「(なんだか不思議な声がしてたね)」
「(兄上とカエデはなにをしているんだろう)」
「(ケンカなの?)」
「(ケンカなわけないだろ)」
「(中庭でもイチャイチャしてたもんね)」
「(だな)」
囁くような小さな話し声に、私は慌ててマッフーから身体を引き離すと、髪の毛を手で直したり、めくれていた服を直したりして、居住まいを正すと、引きつった笑いでマッフーを見た。
いや、この顔の引きつりは、ただ今まで泣いてたからであって、勢いに任せて『ベッド』とか考えちゃったことは、関係ないですよー、ふふー。
マッフーも、顔を真っ赤にして、なんだか居心地悪そうに、くるくるに跳ねた髪を掻いている。
「え、えっとあれだ。そ、その、お、弟たちがカエデを心配して、見にきてくれたのだな」
「そ、そだ、そだね。い、一緒にオヤツでもた、食べるかね、これ」
「おう、おう、そうしようっ。お茶でも飲もう」
「私、日本からお菓子持ってきてるし、」
「ああ、よし、『けやきのき』でも時々やっていた、お菓子パーティーをやろう」
少し落ち着いてきて、顔を見合わせると、私たちは笑った。
「じゃ、ドア開けるよ?」
「ああ、いいぞ」
せーのっで、笑ってからね‼︎




