(1) いずみの迷い
6月に入って2週目の火曜日。梅雨入りが近づき、空は薄い灰色の曇り空だった。アーニメント社の本社B館内にある人事・ユニバーシティー課が管理するある1室で、数人の社員が集まっていていた。その部屋の入り口には「ユニバーシティールーム」という真新しい表札がかけられていた。そして、その入り口の廊下にはイーゼルに乗せられた「ウェルカムクラス」と書かれたフリップボードが置かれていた。
その部屋は、まさに「教室」だった。
ホワイトボードの前には簡易的なテーブルがついたパイプいすがずらりと並べられていた。もっとも全部の椅子を使うわけではなく、今は少人数の社員が前のほうに座っているだけだった。
そして、その少人数のなかに、さくらたちのSV、久保田、城野が座っていた。
その教室で授業をしていたのは、スーツ姿の若い女性が二人だった。講師役の女性のほうが、生徒役のSVたちより緊張していた。キャストとゲストの意味を説明しているが、なんだかぎこちない。終始ぎこちない感じで講義は進み、1時間後、一応最後まで終わった。ふう、とため息をつく2人の女性社員は、玉のような汗を額に浮かべていた。
SVと久保田、城野は拍手した。
講師役の女性が安堵したのか笑顔を作った。
こうして授業は終わった。この授業がふつうの授業と違うところは、生徒と講師の立場が逆だということだろう。
授業後の教室では、SVたちが先ほどの女性社員たちと話をしていた。女性社員たちのために、特別なコスチュームが会社から支給され、それを受け取るために待っていたのだった。一応高級品なため、通常のイシューカウンターでは扱えないのだ。最初の一人が呼ばれて教室の後ろの控室に入っていったあと、SVはもう一人の女性社員からどうでしたかと聞かれた。「あとは経験」と答えた。
それよりも女性社員が気になったのは、今まで教育はどうしてたのかということだった。女性社員がいうには今まで会社で集合教育なんてやったことないという。久保田が女性社員に経緯を説明した。
「開業当初のころはあったそうですが、経費削減とかでなくなっていったそうですよ」
「そうなんですか?」
SVが女性社員の持っている台本を指差した。
「そうよ。そもそもその台本、開業の時の資料を私が現代風に書き換えたんだもの」
「えー!? そうだったんですか……」
そのやり取りを聞いていた城野も、ほかの社員の教育体制に疑問があったようだ。
「私は、なんか経験者とかでいきなり配属されたけど、みんなはどうだったの? 」
「みんな同じです」
女性社員は痛いところを指摘されたような笑顔をうかべた。
「人事課が人事・ユニバーシティ課に改編されたのも、今年に入ってからですし」
その時、ドアが開く音がして、一斉にみんなが控室の方に顔を向けた。もう一人の女性社員が現れた。真新しい青系のブレザーと黒のスカート、そして、高級そうなネクタイといったいかにも「お高い」感じのコスチューム姿だった。映画かなにかに出てくる「特別な教師」みたいなイメージで、着ている本人が上気して顔を赤くしていた。
それをみた女性社員が「うわあ……」とひとりで盛り上がった。自分も同じものを着れる、というのがうれしいらしい。
「なんかやる気湧いてきました!!」
とSVにやる気をみせて大いに感動している様子だった。
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午後に入ると天候は回復し、陽射しも強くなっていた。監督の執務室にSVは資料をもって報告に訪れていた。執務室の中は次回の大型劇場用作品の絵コンテとレイアウトがずらりと並んでいた。その作業の手を止めて、時々うなずきながらSVの話に耳を傾けていた。
「うん。まあ、結構なことじゃないか? そのための予算も確保してあるわけだしな」
「はい。総務部長の承認をいただければ、来週中にもユニバーシティを再開することができるかと思います」
「集合教育のことはお前が提案して始めたことだ。いっそ、お前が指揮を執るか?」
「いえ、それはグループマネージャーの職権を無視することになるかと思います。あまりいいことではないと思いますわ」
「そうか、わかった」
「ところで、ユニバーシティの開始の件なんですが、せっかくですから本格実施の前に『被験者』を推薦しておきたいと思います」
「キャストオーディション組は来週から入社だろ? どこのロケーションだ?」
「『アウローラ・ユニット』ですわ、おじさま」
口をへの字にして、監督がSVの顔を見た。
「アンバサダーにまで集合教育するのか?」
「全員が原則ですから。それに、彼女たちに私たちのフィロソフィーを理解してもらうことも重要だと思います」
「わかった。人事課長と総務部長には僕から話をしておこう」
「ありがとうございます」
オフィスにもどったSVは、事務仕事中の久保田の机に手元の資料を置いた。
「ユニバーシティ復活の最初の教え子たちが決まったわ」
「そうなんですか? どこのロケーションの子達ですか?」
「うちよ」
「あらー、それは楽しみですねぇ」
「入社手続きだけじゃ、味気ないと思ってたのよ。ちょうどよかったわ」
SVは受話機を手に取って、ユニバーシティユニットに内線をかける。
「今週の土曜日、さっそくだけど、ユニバーシティ実施できるかしら?」
受話器の向こうから「えー!」という女性の声が聞こえた。
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水曜日の午後は秋田の駅前は人通りもまばらだった。
学校が終わった帰りの学生や仕事中のサラリーマン、OLなどが駅前の大きなガードの下をパラパラと行き交っていた。そんな中、高級な一眼レフのカメラを持つ職業カメラマンとそのアシスタントらしき男性が1人の少女の写真を撮影していた。
人通りが少ないおかげで特に整理しなくても混雑が起きないのは地方都市ならではだろうか。モデルの少女は、その脚線美と美しく長い髪を遠慮なく活用しながら、ポーズを決めて行く。その姿は確かに美しく、足を止めるのは男性ばかりでなく、学校の制服を着た若い子も遠巻きに見ている子もいるようだった。
その中には、さくらと駅前まで一緒に歩いてきた美咲の姿もあった。
美咲が「すごいきれいな子だね」とさくらにささやく。さくらもそう思っていたらしく2回ほどうなずいた。
見られている方は見ている方についてあまり意識していなかった。
もちろん仕事中だったというのが最大の理由だったが、そもそも気にしていては仕事にならないのだ。この仕事はローカル雑誌の表紙のためのものだし、服装も私服なのでどうせすぐ終わる、という意識も強かった。
何枚か撮影した後、カメラマンは写真をモニターで確認しながら
「じゃあ、これでOKね。おつかれ、いずみちゃん」と声をかけてきた。
いずみ、と呼ばれた少女はお辞儀でそれに答えた。
「ありがとうございます。どうでしたか?」
「いいんじゃないかな。ねぇ」
近くで撮影用のボックスの中身をいじっていたアシスタントにカメラマンが声をかけると、「そっすねー」という返事が返ってきた。カメラマンはいずみにカメラのモニターで写真を見せながら、いかにも残念そうな声で話しかけた。
「いずみちゃん、これで最後なんだって?」
「ええ。今のところの予定では」
「遊園地の広報の仕事って聞いたけど?」
「まあ、そんな感じですね」
「もったいないなぁ。いずみちゃん、女性の読者からも評判いいのに」
「そうなんですか? まあ、また機会もあるでしょうから」
大人な会話で応じているが、いずみはさくらたちとは1つしか違わない高校生でもある。いずみの完璧な営業スマイルは、確かに写真写りはよさそうだった。
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それからしばらくたち、空の色が紫とオレンジのグラデーションで染まるころ。秋田市の繁華街川反にからやや外れた、商店街の中にある古いレンガの建物にある花屋さん。
それがいずみの家だった。
後ろ髪をまとめ、エプロン姿で店の中の掃除を手伝っていたいずみに伯母が電話の子機を持ってきた。それは自分が所属している事務所の社長の声だった。社長は50台の女性で伯母の幼馴染でもある。
この前のテーマパークの話のことで事務所に来れるか? と尋ねていた。
伯母にそのことを告げると、エプロンを渡して出かけることを告げる。車が多いから気をつけなさい、という伯母の声に、いずみは片手をあげて応じた。
10分ほど歩いて大通りから曲がって赤レンガの郷土館近くの細い商店街。その中にある店の脇の階段を上がり2階にある事務所。その事務所がいずみが現在所属しているローカルの小さな芸能事務所だった。
いずみは事務所の小さな応接ブースにある、年代物のソファに座り社長から話を聞いていた。社長は経営者というよりは、メガネをかけた姿が「おかあさん」という感じだった。その内容は、以前アーニメントの「オネェみたいな社員さん」から受けた依頼で、新しいユニットのために候補を推薦して派遣してほしい、というものだった。そのこと自体はいずみも知っていたが、その話が「派遣ではなく、移籍で」ということになったというのだ。
聞いていた話とは違うので、いずみは「え?」と思わず聞き返した。
移籍となれば基本的に一方通行で帰ってくることはない、ということだ。
「移籍の話はこっちから話したのよ」
社長はいずみに先方から提示された条件を見せた。その書類をいずみは読み込む。その条件は、この事務所よりいい条件だった。少なくともレッスン料無料で、時給もしっかり支給される、というものだった。契約は1年更新で審査はあるとはいうものの、そこは芸能界では当たり前のことで、それ以外の点では、はっきり言って地方の事務所と比較すれば破格の条件だった。しかし、その条件を見ても、いずみはあまり喜んでいるようには見えなかった。
「……この条件って向こうから言ってきたの?」
「いいえ。私が移籍するなら条件はどうなるのか聞いたの。その答えがこれよ」
社長は自分の子供を諭すような目線で、いずみへ顔を向けた。
「いずみにはその方がいいと思うわ」
「でも……」
「こんな地方の小さな資本の芸能事務所に残るのと、地方とはいえ最大手の出版社の関連会社の懐に飛び込むのと、どっちが将来のためになると思う?」
「私、ここでずっと仕事してきてたし……それに、あおい……」
社長はメガネをかけなおしながら首を振った。
「自分のことを考えなさい。わたしはね、いずみにとってチャンスだと思うのよ?」
今度の土曜日に入社の手続きが行われるからその時までに考えなさい。社長のその言葉を聞いていたいずみは、写真撮りをしていた時には見せなかった困ったような顔で書類に目を落としていた。
この話、いったん持ち帰っていい? と聞くいずみに社長はうなずいて答えた。
一応、いずみはこの事務所では仕事が途切れない程度に人気があるモデルだった。その自分が抜けるということは、事務所にとっては仕事が少なくなることを意味する。今まで、仕事でもプライベートでもお世話になった事務所を、こういう形で出ていくことは果たしていいことなのだろうか……
深夜を迎えても、いずみの家の前の道路は繁華街からのタクシーや運転代行の車が行き交っていた。そのヘッドライトが時々差し込んでくる店の2階にある自分の部屋で、いずみはパジャマ姿でベッドに横になっていた。
移籍の話とか、秋田に来てからの事とか、いろいろ考えこんでいた。
視線を左に向けると、机の上にある写真が車のヘッドライトで照らされていた。いずみは写真につぶやいた。
「どうしたらいいと思う?」
もちろん返事はない。天井に視線を戻したいずみは、しばらく何かを考え込み、やがてそっと目を閉じて少し遅い眠りついた。