Re: / Phase.4
途惑いに満ちた青い瞳が僕を見つめる。彼女の口角が僅かに上がっていたが、とても笑顔とは言いがたい。黙ったままの僕に彼女は首を傾げた。言葉を交わすでもなく、沈黙だけが僕らの間にあった。
電信柱の街路灯が灯る。その時、改めて僕は夜が近付いていることを感じた。頭上の光が、それまで見えていたつもりの彼女をはっきりと映し出す。困惑。突然のことに拒絶することも受け入れることもなく、彼女はただ僕のことを見つめていた。
一体どうすれば良かったのだろうか。
過去の自分への問いかけは今までだって何度もしてきた。何が正しくて、何が間違っていたのか。選ばれなかった別の答えの先にある未来。それを覗き知ることができるのならば、そんな風に悩むことはなかったのかもしれない。
だけど現実は違う。ありえたかも知れないもう一つの世界。そんなものはどこにもない。どんなに戻りたい過去だって、存在しない以上は何の価値もない。人生にはセーブもリセットも無い。例え誤った道の上に居るのだとしても、もう前へ進むしかない。
僕は一つの答えを小さく口にした。
「何度だって同じ答えを選ぶ」
「……どうしたの?」
「後悔なんてしたくないんです」
突然の告白に莉衣さんは口ごもっていた。でも、立ち止まっている時間はあまり残されていないように思える。
「行きましょう。まだあの人が居た場所からそんなに離れていませんし」
僕の提案に彼女は首を振る。
「ありがとう。気持ちは嬉しいよ。でも、これ以上知らない誰かを傷付けることはできないし。君は私のことなんて早く忘れて、早く家に戻るべきだよ」
「でも――」
「でもじゃない。ふふ」
先程とは違う柔らかな笑みが彼女を飾る。きっとこれが彼女の素顔なのだと思った。
「ほら、もうお家に帰ろう? あんまり遅くなっちゃうと君のご両親も心配しちゃうよ」
繋いでいた手を解いて、彼女はそっと僕の肩に置いた。
「ね? そうしよう」優しい声が僕の耳に触れる。
両親か……。そう心の中で呟いた。最後に会ったのはいつだろう。部屋を貸してくれている叔父さんとは頻繁に顔を合わせているが、父さんとは多分半年以上会っていない。年越しを一緒に迎えただけ。それもかなり形骸的なものだった。つまり、父さんとは同じ空間に居ただけで、共に過ごしたとはとても言えない。親子らしい瞬間なんて、いつ以来なのだろう。
ぽつり、ぽつりと、肌に感じる雨粒が増えてきた。
「どこか行く当てがあるんですか?」
「うん? あるよ。そう、ある、大丈夫」
莉衣さんは自信有り気に親指を立てて見せた。だが言葉の歯切れの悪さのせいで、嘘だと直ぐに見破れた。
「本当はないんですね」
彼女は目を伏せて申し訳なさそうに呟いた。「うん」
「じゃあ当てが出来るまでの繋ぎってことで」
僕は強引に彼女の手を取った。もう引っ込みがつかないとでも心のどこかで思ったのだろうか。そこに迷いは無かった。
「だったら問題ないですよね?」
一つ溜め息を吐いて莉衣さんは笑った。
「仕方ないな」
僕らは再び陰りの覆い始めた街を歩き出した。
しかし、僕自身、行き先について考えがある訳じゃなかった。どこへ向かえば良いのか、どれだけ逃げれば良いのか。この奇妙な出来事に巻き込まれ始めたばかりの僕に与えられた選択肢は、ほとんど無いに等しかった。
降り出した雨がアスファルトの色を変えていく。悠長に街中をふらつくのももう限界近い。闇雲に逃げ続けても、いたずらに体力を消耗するだけで良いことは無い。それに外にいる限りあの十六夜という女に見つかる可能性だって付きまとう。どこか身を潜められる場所を探す必要があった。
立ち止まり、額に張り付いた前髪を上げる。少しずつだが確かに焦燥が生じていた。時間は変わらずに進み続ける。陽の傾きが深くなり、家々が灯り始めた。
思考の末に僕が辿り着いたその答えは、正直、妙案とは言い難いもので少々不適格な気もしたが、そこ以外に思いつく場所も無く、決断に至るまでは早かった。
周囲に気を配りながら僕らはそこへ向かった。その道中どうしても何度か来た道を引き返す必要があり、その度に十六夜の存在が浮かび頭から離れなかった。視界に入る人影の全てに目をやり続けることはそうそう容易では無い。誰かの姿が目に入る度に緊張が走った。
いつもは通らない裏道を幾つも使いながら、やっとの思いで僕は莉衣さんを連れてそこへ帰り着くことが出来た。
「ここは?」
四階建てのマンションを前に莉衣さんが尋ねる。
「僕の家です、一応」
結局、僕が思いついた隠れ場所はここしか無かった。莉衣さんの知り合いが僕の家を知っているはずはないし、一先ずここなら安全のはずだ。
僕は自分の部屋を指差した。最上階、向かって左から二番目の部屋だ。
「あそこが僕の部屋です」
莉衣さんの視線が僕の指先へと向かう。「ふぅん、あそこに住んでるんだ?」
「とりあえず、そこに隠れて休みましょう。それから――」
「じゃあ行こっか」
言葉を遮って莉衣さんは歩き始める。ここに来るのが待ち遠しかったかのように、軽い足取りで僕の手を引いていた。
「そーら、キリキリ歩けー」
「あ、ちょっと……」
笑みを浮かべる彼女に、僕の制止の言葉は少しも耳に届いていなかった。
一気に四階の廊下まで駆け上ると、莉衣さんは僕の背中を押した。
「ほらほら、ちゃんとエスコートしないと」
待ってください。の一言すら言わせない勢いで莉衣さんは捲くし立てる。
「それで? どこだっけ? 何番目の部屋?」
夕方再会するまで抱いていた『冷たい美人』という印象を、根こそぎ払拭していく彼女の言動に、僕は途惑い振り回されていた。
今の莉衣さんは、さながら『わがままな美人』といった感じで、心なしか外見までもが今朝よりも幼く感じる。その表情の違いからなのだろうか。僕の中では少しばかりイメージダウンしそうだったが、そわそわしく辺りを見回す彼女に対して、また違った魅力を覚えつつあるのも事実だった。
扉の前で僕は立ち止まった。「ここです」
ふんふん。と鼻で返事をすると莉衣さんは一歩下がって、身だしなみを整え始めた。
そんな彼女を黙って見ていると、莉衣さんは不思議そうに僕に声をかけた。
「ん? さぁ、早く案内してくれ。今の時間だと、そうだな、君のお父様も既に帰宅済みかな?」
あぁ。と僕は声を零した。
「ここには一人で住んでいます」
「あれ? そうなの?」
「それじゃあ、どうぞ中へ」
「へっ?」
まだ何かあったのか。開けられた扉の奥を見て、莉衣さんはじっとしていた。
「えっと、どうぞ?」僕の口調もたどたどしくどこか可笑しくなっている。「入らないっすか?」
莉衣さんは腕を組みながら唸った。
「こういう時ってさ、『ちょっと部屋を片付けるから待っててくれ』的なこと言ったりするんじゃないの?」
突然身振り手振りを交えながら語り出す莉衣さんに、僕は完全に置いてけぼりを喰らっていた。
「そういう人もいるとは思いますけど……僕は普段から結構掃除とかしてるので」
「そうか…」
どこか不満気な表情のままで莉衣さんは部屋の中へと入っていった。
その後に続いて僕も部屋に入る。一応用心の為にと玄関の施錠をして振り返ると、そこにはもう莉衣さんの姿は無かった。
部屋の奥から声が漏れ聴こえる。「確かに整理されているな」
「はやっ」
僕は急いで莉衣さんを追いかけた。
部屋の明かりを点けると、莉衣さんが僕のベッドに腰掛けようとしていた。
「あ、ちょっと――」
この人は遠慮というものを知らないのだろうか。迷わずベッドに腰を下ろすと僕を見上げた。
「ねー、お腹空いた」
「はい?」
「だって、ほらもう七時近いし。ご飯の時間だよ」
僕の枕を抱き枕にして莉衣さんは横になる。
「はーやーくー」
うろたえる僕に対して小さな子供のように彼女は駄々をこねた。言いなりは癪ではあるが、さっきまでの行動といい、彼女が僕の言うことを聞くようには思えない。
僕が折れる他の選択は多分無いのだろう。今日一番の溜息が零れる。
「今何か準備しますから……」
そう言い残して、僕はキッチンへと向かった。
この部屋の間取りはただのワンルームだが、キッチンにあたる部屋の一角は、突き出た壁によって視界が遮られていて、擬似的に1Kのようになっている。この場所からは部屋のほとんどが目に入らず、逆に見られることもない。唯一の孤立した空間とも言える。
冷蔵庫を開けて中を物色した。確かに食材は豊富。しかし直ぐに口にできるものとなると限られてくる。とりあえず僕は昨日の残り物が入った皿を取り出して、電子レンジに温めを任せることにした。だがこれでは到底二人分の食事には足りない。少し考えを巡らせた時、僕の頭に浮かんだのは食事とは関係の無いことだった。
僕はポケットから携帯を取り出した。
理由は勿論莉衣さんの為だった。彼女の保護や不審者への対応等、問題の解決にはやはり警察に相談するのが一番手っ取り早く確実だ。
少なくとも僕に出来ることは知れている。
ここに彼女を連れてきたのも、莉衣さんを追う人物に場所が知られていないことだけではなく、警察への通報の際に住所がはっきりしているという点も踏まえてのことだった。
1、1、0。そして通話のボタンを押す。携帯を耳にあてると呼び出しのコール音が聴こえた。
これで一つ肩の荷が下りる。そう思った時、何かが僕の腕に触れた。
真っ白な指先が僕の右手を覆うように掴む。振り返るとそこに莉衣さんが立っていた。
「なに、してるの?」
表情を失った彼女の目は冷たく、僕は無意識の内に見つめることさえ拒んでいた。
「えっと、あの……」
言葉が出ない。まるで喉をきつく掴まれているかのような気分だった。その問いかけに対して僕がどんな返答をしようと意味などなく、結局は彼女の機嫌次第なんじゃないか。そんな気さえしてくる。
「何? はっきり言えないの?」
じわりと距離が詰まる。別人かと思うほどに違った彼女の雰囲気に僕は気圧されていた。
『もしもし? 聴こえますか?』
携帯から声が聴こえる。気付かない内に通話状態になっていた。だけど僕は声を出すことはおろか指先すら動かせそうにない状態だった。
『もしもし? 大丈夫ですか?』
電話の向こう側からの呼びかけは尚も続いていた。莉衣さんは僕の手ごと携帯を引き寄せ、それに応じた。
「はい」
『あ、こちら110番です。ただいま通報を――』
「すみません、子供が悪戯でかけてしまったようでして……。はい。はい、申し訳ございません」
目の前で淡々と会話が進んでいく。
子供のいたずら電話に気付いた母親を演じきる莉衣さんに対して、電話の向こうのオペレーターは何の疑問も抱いていないようだった。
「はい、失礼します」
莉衣さんは通話を終えて僕を一瞥する。
「余計なことはしないほうが良い。君はただ私に時間と場所だけ提供してくれればそれで良いんだ」
「で、でも……」
「命を、粗末にするな」
その言葉の意図が僕には解らなかった。
出会った時からずっと不思議な人だとは思っていた。けれども、まさに今、決定的に僕と彼女とは何かが違うのだと気付かされた。




