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Re:Evolutions  作者: アキノヒナタ
Re:Evolutions
7/16

Re: / Phase.3

 幸いにもあれから雨足が強まることはなかった。霧状の雨で体中が濡れはしたが、制服は部屋干しで十分だろうし、シャワーを浴びれば雨も流せる。傘を持たずに帰ったにしては上出来だ。

「腹、減ったな」

 ぐぅ。と小さな音が鳴る。今日は普段よりも遅い帰宅になった。ということはその後の行動の全てにも遅れが生じることになる。早急な対応が必要だ。空腹に急かされて自然と歩く早さが上がった。

 僕の自宅は四階建てのマンション、その最上階にある。残念なことにエレベーターは設置されておらず、これからもその予定はない。外出の度にきつい上り下りを強いられるわけで、今の空腹状態の僕にとって、それは少し苦だった。

 やっとの思いで自宅の前まで辿り着いた。鍵を差し込んで扉を開ける。世界一落ち着ける我が家の匂いだ。

「ただいまー」

 力の無い声を部屋の中へと放つ。勿論それで何かが帰ってくることは無い。部屋の中身は空っぽなんだ。

 習慣付いた帰宅の言葉は、どことも言えない場所へ吸い込まれて消えていく。

 部屋の電気を灯すと、色気の無い部屋が無言で出迎えてくれた。僕の部屋にはテレビやテーブルにベッドと言った一般的な家具しかなくて、僕個人を象徴するようなものは何も無い。引っ越してきた当初と何ら変わりないそのままの姿だ。

 黙ったまま、ネクタイと鞄をベッドの上に軽く投げて上着をハンガーに掛ける。

「ふう……」

 重たい息が漏れた。空腹というものは何よりも耐えがたい。今日は着替える前に夕飯の準備をするとしよう。昨日までの献立を思い浮かべながら、僕は台所へと向かった。

「うーん」

 何を作ろうか悩み唸る。それは単に目ぼしい物が無いのでなく、冷蔵庫の中の食材が普段よりも豊富だからだった。

 テレビの週間予報を見て、今日が雨なのは大体予想できていた。だから一昨日の買い物では普段よりも少し多めに買い込んだ。

 が、ここで一つ欠品があることを思い出した。

「あ、牛乳無いし」

 そういえば今朝、空になったパックを捨てたばかりだ。

 やはりもう一本買っておくべきだったか。なんて考えながらも僕は既に外出の準備を進めていた。どうしても毎朝の日課は欠かせない。雨が弱まっている今こそ買いに出るべきだろう。

 空は未だ灰色。だが、ところどころで雲が途切れている。今しばらくの間、雨は降らないはずだ。

 上着も置いたままで、僕は携帯と財布だけを手に家を飛び出した。

 雨上がりの空気はいつもと違う匂いがする。単純に地面を覆った雨水の匂いなんだろうけども、この雰囲気は嫌いじゃない。

 僕にとって小さな頃から雨の日は特別だった。いつもとは違う世界がそこにあるような気がして、ずっと窓の外を眺めていた。外出する時は傘を差して長靴を履く。そんな普段とは違う格好も嬉しくて、よくあちこちの水溜りにジャンプしては怒られてばかりいたっけ。でも何よりも覚えているのは、いつも手を引いてくれていた母さんの横顔。時には怖い時もあったけれど、とても優しかった。

 きっと子どもの頃から僕は雨が好きだったのかもしれない。

 だけど大抵の場合、雨は嫌われものだ。暗く厚い雨雲が現れると太陽の光は遮られ、外気温は一気に低下する。雨の勢いが強くなれば外出は困難になるし、例え小雨程度でさえも人は嫌がって、結果として街中から確実に人気は無くなる。

 現に今歩いているこの道だって、普段ならもう少し人が居たって可笑しくない。住宅から漏れる話し声やテレビの音声がいつもよりも鮮明に耳に届いていた。

 大きな欠伸が一つ零れる。

「雨の日は眠くなるな」

 住宅街を抜けて目的のコンビニまであともう少し。ぼーっとして轢かれないように気を付けないと。

 通りに出る角を曲がると目の前に一人の女性が居た。どこかで見覚えのある顔。今朝から妙なところで何度も彼女を思い出している。

「あっ」

 一瞬それは見間違いかと思ったが、間違いない。あの「冷たい美人」だ。

思わず出た驚きの言葉に彼女も僕の顔を見る。そして目が合ったと思うや否や彼女の表情が変わる。どうも僕のことを覚えていたようだった。

「今朝はどうも」

 素っ気無く視線を俯けて、彼女はこの場を去ろうとした。

「あ、待ってください」

 僕は咄嗟に彼女を探していた白衣の女性のことを思い出した。

 これはお節介ではなくただの悪戯心だった。他人にはそう語れない理由で彼女は捜索されている。ならば心のどこかにやましさがあっても可笑しくない。そんな彼女に「あなたを探してる人に会いましたよ」なんて言ったら、きっと焦りだすに違いない。無下に扱われた今朝の仕返しだ。

 彼女が立ち止まる。「何?」

「さっき、今朝の交差点の近くであなたのことを探している人がいましたよ」

 彼女がどこの誰で何者かなんて知らないし解らない。だからこそ僕には関係が無い。ほんのささやかな復讐のつもりだった。

 それでも、きっと彼女は「あぁ、そう」くらいで立ち去って終わりだろうと思っていた。赤の他人の僕にそんなこと言われたって、それを鵜呑みにする意味がない。ほんの少し気には留めるかもしれないが、効果は薄いだろう。言い終わって初めてそう感じた。

 だけど、その一言で彼女の様子は一変する。

 彼女は大きく一歩ふら付くと肩から塀にぶつかった。思わず駆け寄ろうとした僕を、彼女はそのままの姿勢で見上げる。威圧さえ感じさせるその目に僕はたじろいでしまった。ただ「見る」と言っても、その目は焦点が定まることなく揺れ続けている。一度視線が合ったかと思うと、その後のほとんどは地面に近い場所をさまよっていた。そして急に口元を手で塞ぎこむと、彼女はそのまま蹲った。

「だ、大丈夫ですか?」

 堪らず近寄って声をかけた。見知らぬ他人とは言えど、自分のせいでこんなにも動揺させてしまうなんて……。その肩に手を添えると彼女の体の震えが伝わった。あまりにも過剰なその反応に僕は途惑うばかりだった。

「誰……?」

「えっ?」

「私を探していたのは、どんな奴だった?」

「えっと、白衣を着た黒い長い髪の女性でした。なんか、凄く丁寧っていうか腰が低いっていうか……」

「そう。十六夜が追ってきたのね」隣に居るに僕がなんとか聞き取れる程度に微かな声で彼女は続ける。「他には誰も居なかった?」

「はい、誰も」

「何を聞かれたの?」

「あなたの写真を見せたれて見覚えがあるかどうかだけ」

「その人が向かった方向は解る?」

「えっと、そこまでは……」

 質問を続ける間も彼女は怯えていた。大きく肩で息をしている。まるで恐怖に怯えるような姿に僕も気が気じゃなかった。そわそわと落ち着かない気分が僕にも伝染していた。何がきっかけになるか解らない。出来るだけ落ち着いた口調を心掛けて僕は話を続けた。

「一体何があったんですか? 僕はてっきり友人や知り合いだとばかり」

「――友人、だったわ。家族のようにも思っていた。でも、それは結局私からの一方的な感情だったみたいね……」

 彼女は目を瞑って深い呼吸を繰り返す。しばらくして息が整うと彼女は小さく笑った。一見すると既に落ち着きを取り戻しているように思える。だが、きっと心の中は平然とはしていないだろうことは容易に想像がついた。

 髪を掻きあげると彼女は顔を上げた。まるでガラス玉のように澄んだ青い瞳。柔らかに微笑む彼女に僕は息を呑んだ。

「ありがとう。色々と迷惑を掛けてしまったね……。もう私のことは忘れていいよ」

「で、でも――」

「ええ、そうです。元より貴方には関係の無い話でしたから」

 白衣の女性が僕らの後ろに立っていた。いつの間に近付いていたのか。一切気付く余裕なんて無かった。

「十六夜……」

「随分と御待たせをしてしまいましたが、莉衣、御迎えに参りました」

 『莉衣』、そして『十六夜』。きっとそれが二人の名前だと思った。青い目をした『莉衣』と彼女を追う『十六夜』。僕はまだ二人のことをそれだけしか知らない。だけど、どちらの味方をすべきか既に決めていた。

「いいえ、十六夜。あなたは私と一緒にいるべきじゃない」

「御気持ちは解りますが、私と一緒に居られる方が賢明な判断かと思われます。少なくとも――」言葉半ばにして十六夜は僕に視線を移す。「この方と御一緒されることは危険が伴います故、見過ごす事は出来ません」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。あんたは一体この人の何なんだ?」

 十六夜の前に立ちふさがって莉衣との間に僕は立った。事情は解らないが、どうもこいつは信用が出来ない。少なくとも莉衣さんのほうが幾分マシだ。

「先程、御話しました通り。見ず知らずの方に説明するようなことではありませんので」そう言うと十六夜は左手を僕の前に翳した。「そこを退いて頂けますか」

 その手には何も持っていない。だが彼女の視線は獲物を狙う獣のように僕の顔を睨んで微動だにしない。恐ろしいまでに僕のことだけに集中しているのが解った。

 体格的に言えば僕は平均的ではあるが、目の前の十六夜だってそうだった。僕よりも小柄で仮に取っ組み合いになっても負けることは無いだろう。だが、その力強い視線と彼女の行動から漂う威圧感に怖気付いてしまいそうだった。

「十六夜!」強い口調で莉衣さんは続ける。「彼は関係ないわ。ほんのちょっと顔を知ってるってだけよ……。あなたがわざわざ手を下す必要なんてないわ」

 十六夜は表情一つ変えずに手を下ろした。その視線が今度は僕達二人をがっちりと掴んでいる。

 目を逸らすことが危険に思えてしまうほどに僕は目の前の女性を警戒していた。

 今の彼女の行動の目的は定かではない。いや、僕を退けようとしていたのは理解できる。だけどその方法は? 軽く手で押しのけるくらいでは到底無理なことは解かっていたはずなのに、ナイフや何かで脅してきた訳でもない。ただ僕の顔の前に手を差し出しただけ。異様で不可解。それ故に至って平凡な一人の女性とは思えない不気味さを僕は感じ始めていた。

 それに「手を下す」と莉衣さんは確かに言った。莉衣さんは何かを知っている。十六夜という女性の不可解さを解く事実を、彼女は知っている。

「では、莉衣。こちらへ」

 解らないことが山積みだが、今は絶対に莉衣さんを渡せない。その考えから僕に出来る行動はただ一つだけ。莉衣さんを連れてこの場から立ち去る。それだけだった。

 僕は莉衣さんの手を掴んだ。驚いた莉衣さんが何か口にしたようだったけれど、その時の僕には聞き取れるほどの余裕は無かった。

「逃げましょう!」

 莉衣さんの手を引きながら十六夜に背を向けて走り出した。雨に濡れたアスファルトを一歩一歩しっかりと踏みしめて前へ進む。

 十メートルは離れただろうか。後方を確認してみると十六夜はただそこに立っていた。彼女は追ってきていない。やっと見つけたであろう莉衣さんをみすみす見逃してくれるというのだろうか。

 だけど、今は十六夜の不可解さに甘えるしかない。

 どこへ向かう訳でもなく、僕らは走り出した。

 それから、どれくらいの距離を走り続けたのだろうか。曲がり角は二つ? それとも三つ? いや、もっと過ぎ去っただろうか。適当にジグザグに走り回ったせいでもうへとへとだった。

 微かに注いでいた夕暮れもとっくに地平線の向こうへ姿を隠している。

 僕は立ち止まった。後方に伸びた左手が今も莉衣さんの存在を感じさせてくれる。繋いだ手が解けないように僕らは、知らない内に、互いに強く握り合っていた。

「ごめん……」僕の掌を少しなぞりながら莉衣さんの手が離れる。「助かったよ。ありがとう」

 僕はもう一度莉衣さんの手を掴んだ。どうしてかは今でも解らない。とにかく理屈じゃない部分で彼女を放っておけなかった。

 莉衣さんは驚いた、というよりも焦っているように見えた。僕自身さえも理解出来ない僕の行動。引きつった微笑が彼女の次の言葉を固く閉ざす。

 静寂を破る一滴。

「雨、ですね」

 僕らに出会いの瞬間があるとしたら、きっと今朝の交差点じゃなくて、今この時のような気がした。

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