Initial-E / Phase.2 -Thanks for not laughing-
大きな欠伸が出た。何せ日によっては朝から晩まで研究に追われる日々が続くのだ。事実ここ数日間もそうであり、昨夜もかなり遅くまで起きていた。
「そろそろ御部屋に戻りましょう。夕食の御時間も近付いています」
「うん。そうしようか」
背伸びをして立ち上がる。芝の汚れを軽く手で払って、私は十六夜の腕に飛びついた。
「気分転換できた?」と尋ねると十六夜は「はい」と遠慮気味に呟いた。
彼女なりに申し訳ない気持ちがあるのだろうか。笑うことは無くても感情が無いわけではない。少なくとも私はそれを解っている。
十六夜に連れられるままに私は自分の部屋に戻った。
凡そ三×四メートル四方の飾り気の無い真っ白な部屋。この天井内部に埋め込まれた空調が換気扇の役割も担っているせいで窓さえも無い。目に入るものと言えばベッドと本棚、そして机と椅子が二つずつあるだけ。でもこれが私に許された唯一の自由な空間だった。
『真っ白な部屋』と言ったが正確に言うと今はそうでもない。目の前の真っ白な壁には日に日に私の悪戯書きが増えているからだ。思いついた文章を書くこともあれば何かの絵を描くこともある。中には何の意味も無いものもあるが、何ヶ月も掛けて作り上げている大作だ。消されないように注意しなければ。
「随分賑やかになりましたね」
「うむ。我ながら良いセンスをしている」
十六夜は無口では無い。知識欲が豊富でよく本を読んでいる。私自身も本を手にすることが多々あり、互いに読んだ感想を述べたり相手の知らない一冊を薦め合ったり、彼女との対話は私にとって大きな楽しみだった。
そして何より彼女は唯一の友人であり、唯一の家族だった。
壁際に立つと十六夜は一つの絵に触れた。
「莉衣は外でのことを覚えていないのですか?」
「珍しいね。十六夜から質問が出るなんて」
ここで出会ってから今まで、十六夜から質問された覚えなんて無かった。 あっても職務上の形式的なものがほとんどだっただけに、私自身に関する質問はとても意外だった。
「私は外のことはほとんど何も知らないよ。ていうか、そっか、十六夜は知らないもんね。私はここで生まれたの。ここで生まれてここで育った。だから外には出たことが無いし、本で読んだり誰かから聞いたりしない限り知ることも無かったよ。ここの外があるなんて」
「そうだったのですか」
「でもさ、実際に外を知っているほうが辛いと思うんだ。だって私は何も知らないからさ、仮に外に出たいって気持ちがあっても、現実に外を知っていて、その上で出られない人たちに比べたら大したことないんじゃないかなって。私は何も知らないんだからさ」
半分本音で半分嘘。
「……本当はこっちのほうが良い世界なのかも知れないし」
それは精一杯の笑顔で繕った言葉。
一体どれくらいの壁がこっちとあっちにあるのだろう。物理的な壁の厚さも確かに気になるけれど、私が最も知りたいのはそこじゃない。
外の世界の匂いや温度、音や光、作り物ではない太陽や風、そして空から落ちる雨。想像することは容易い。だけど、きっと全部違う。
作り物だらけのこっちの世界は常に私が過ごしやすい環境を整えてくれている。
仮に『騒音』という言葉を辞書で引いたとしよう。その言葉が示すものが何かは直ぐに解かる。でも私にそれらを体験する方法は無い。不快に感じる音の種類や大きさ、何を持って「不快」だとか「騒がしい」と定義できるのか。話し声や音楽と言ったものですら時には騒音へと変わるというのならば、個人の主観にはこんなにも差が有るのに、どうやって区別を付けるのか。
私には知識しか無い。それらを客観的にしか判断できないのである。
壁の向こうには私の知らないことが山ほどある。確かな事実だが、残念ながらそれも結局は客観的な意見によって結論付けられていた。
「十六夜は外に出たいって思う?」
「私はただの莉衣の付き人です。貴女を助け、貴女の望むように動き、そして貴女を守る。それだけが私の思いです」
十六夜は笑わない。それが良いところでもある。きっと今の言葉に笑顔があったら、私の心も少しくらいは揺らいでいたかもしれない。
「今日は少し出すぎた真似を……。申し訳御座いません」
「ううん。良いよ、気にしないで」
二人でくつろいでいると係りの職員が私たちの食事を運んできた。
実に健康的で実にシンプルな味付け。世の中には「ジャンク(廃品)フード(食料)」なる食べられるのか不明な食事もあるらしい。勿論私は未だ出会ったことすらない。健康的ではないらしいが興味はある。
「頂きます」
十六夜は私と同じテーブルで食事を摂ったことが無い。とても寂しい。何度言い聞かせても断られる。正直に言ってかなり寂しい。
配膳された料理を見るに私のものと比べると十六夜の食事の量は少ない。その代わりなのか普段から良く流動食が入ったパックを口にしている。羨ましい。どんな味がするのだろうか。
十六夜曰く「人が好んで食べるような味ではありません」とのことだが、そんな物を毎日食べ続けていることが余計に関心を誘った。
「御食事が済みましたら今日はもう就寝まで予定は御座いません」
事務的な報告がぽつりと零れる。
十六夜にとって私という存在は一体何なのだろう。きっと業務において目を掛けているだけでそれ以上のものは無いのだろう。
寂しい現実が時折私の心の奥でふっと沸き立つと抑える間もなく体中を支配してしまう。
「そっかぁ。じゃあ何して過ごす?」
「私とですか?」
「もちろん! 十六夜以外に私の相手してくれる人は居ないからねー」
視線は料理に落としたままで決して彼女に向けることはしなかった。
「昨夜読まれていた本の感想でも御伺いしましょうか」
「うん? ああ、あれはイマイチだったからパスで」
「…………」
「…………」
会話が途絶えると途端に気まずさが漂った。こうなってしまうと折角の夕飯が更に薄味になってもはや無味である。
投げやるように箸を置いた。背もたれに全身を預けてたっぷりと息を吐く。品の無い行為だがここには気を張るよう相手は居ないし、殿方との出会いだって無い。日常的に出会うのは十六夜以外には数名の白衣の連中。それも二十も三十も上の人ばかり。
退屈だった。
「もしもさ……。私がここを出て行ったらどうなるんだろうね」
「私が居ります故、そのようなことは起きないかと」
「だから、もしもそうなっちゃったらっていう話」
思いつきの言葉に十六夜はひどく悩んでいた。
腕を組みながら手元に来た髪を指でいじるその仕草は彼女が真剣である証拠。私の思いつきに正面から向き合っている証だった。
「私は、それを止めねばならぬ立場です。出て行ったとなれば既に私の手の届かぬ場所まで莉衣が到達しているということ」
「うんうん。その場合の判断は? どう?」
「『追う』ことになるかと……。しかし、その場合私は責務を果たせなかった立場。違う人間がその役目になるかも知れませんね」
「ふーん。じゃあ、この施設はどうなるかな」
「ここの研究の根幹は莉衣、貴女です。貴女が居ない以上、研究が立ち行かない場合もあるでしょう。その分、彼らも死ぬ物狂いで貴女を追うはずです」
「そっか、難しいなぁ」
落書きだらけの壁に視線を飛ばす。さっき十六夜が触れた絵。それは雨の中に佇む人を描いたものだった。
誰かをモデルにして描いた訳じゃない。雨というものを知った時に、そのイメージを忘れないように描いただけ。傘も差さずにただ立ち続けているその人は顔も無ければ声も無い。
ひたすらに本心を隠し続けている。いや、きっと打ち明けられずに居るんだ。
「莉衣。何を御考えなのかは解りかねますが、誤った選択をしてはいけません。貴女はここに必要な人間です。少なくとも私には貴女が必要です」
それが本心なのは解っている。だけど嬉しくとも悲しい一言だった。
「傘……」
「傘がどうかしたのですか?」
「私には傘を差してくれる人が居ない」
「ここでは雨は降りませんからね。必要の無い物です」
「そうだね……」
「ですが仮に雨が降ることがありましたら、その時は私が莉衣に傘を差し出しましょう」
それじゃ駄目なんだって、その一言が出なかった。
きっと言っても今の十六夜にはそれを理解してもらえない気がして、私には言えなかった。




