Re: / Phase.2
放課後を知らせるチャイムが鳴った。
一日の最後の号令による挨拶が済むと、途端に教室中が騒がしくなる。
「終わったー」
僕の目の前で條が大きく背伸びをしていた。思い切り伸びた両腕がだらんと落ちる。今日は随分と疲れているようだ。
しかし條にとって嬉しくない知らせが一つ、窓の向こう側で待っていた。
「雨ひどいね」
もう彼此一時間は降り続いているだろうか。切れ目の無い空は一向に止む気配を見せない。
「帰れねぇ……」
條は力なく椅子に座り込むと、そのまま無言で机に突っ伏した。
その姿に思わず笑いが漏れる。
「なんだよ、笑うなよ」
「ごめんごめん」
遂には小さな呻き声が聞こえ始めた。きっとあれこれ解決策を練っているに違いない。
條は勢い良く体を起こすと、椅子ごと反転して僕と向かい合わせに座った。
「なぁ、アキ! 傘持って来たんだろ? 入れてくれよ!」
「嫌だよ。どうして男二人で傘差さなきゃいけないんだよ」
「それもそうか……。あーあ、これなら委員長が来る前に売店で傘買ってれば良かった。もう開いてねーよ」
ぶつぶつ言いながら條の視線は再び外へと向かった。
雲が厚くなるにつれて太陽の光は遠くなる。時刻はまだ『午後五時』前だったが、もはや灰色を通り越して空は真っ黒だった。
「これから夏なのになぁ」
「じゃあさ、とりあえず下駄箱まで行こうぜ、アキ」
鞄を片手に條は僕を促す。何か策が浮かんだのだろうか。正直、何も考えてないような気もしていたが、僕は素直に従うことにした。
「どんだけゆっくり行っても無駄だと思うよ」
「るっせ!」
強がる條の後ろで僕はにやけを抑えられなかった。
当然ながら昇降口に辿り着いても雨は止んでいない。むしろ実際に外に近付くと、その音のせいもあってか、教室で見ていた時よりも強く降っているようにも感じる。今、傘無しで帰れば風邪を引いてしまうだろう。特に僕や條みたいに、帰宅に三十分近くも掛かるとなるとその確率は大きく跳ね上がるだろう。
じゃあ一体どうするのか。昇降口に着いてからというもの、條は一言も発していなかった。ただ黙って深呼吸と頭を掻く動作を繰り返すばかりだった。
途惑うようにも、覚悟を決めたようにも見えるその動作を見て、僕は問いかけた。「あのさ、もしかして帰るつもり?」
「今日は妹の誕生日なんだ。それに早く帰ると約束したからな、遅れて帰るわけにはいかん」
「おう、そっか……」
目が本気だった。端から見てもその決意の固さが伝わる。しかも條は一度口にしたら行動に移さないと気が済まないタイプだ。今の問答がよりその決意を確かなものにしたに違いない。
「…………」
正直に言えば途惑いがあったのは確かだった。でも、その姿を見て僕も一つ決心を固めた。
「しょうがないな。はい、これ」
そう言って僕は條の手に自分の傘を握らせた。
條は一度そうと決めたら真っ直ぐ突っ走る男だ。今帰ると決めたのだから何と言っても帰るだろう。だけど、せっかくの妹さんの誕生日に彼を濡れたまま帰す訳にはいかない。
「條が兄弟を大事にしてるのは知ってる。だから、そんな大事な日に兄貴に風邪引いちゃ駄目だって」
條は口篭っていた。何度も僕の顔と傘の間でその視線が忙しく行き来する。
「良いから行けって」
「アキ……。解った、ありがとう! この礼は必ずするから!」
「オッケー、忘れんなよ?」
條は傘を広げると勢い良く外へ飛び出した。あまりの勢いに転ばないか心配しだったが、あっという間に角を曲がり姿は見えなくなった。
「さてと、どうしようかな」
変わらず雨は降り続けているが傘はもう無い。だけど、それを悔やむ気持ちも一切無かった。むしろ條の喜んだ顔にちょっとした満足感さえあった。
「しばらく様子を見るしかないかな」
幸い今日は何の予定も入れていない。今はこの余韻に浸りながら、雨が弱まるのを待つことに決めた。
條を見送ってから一時間くらいが経っただろうか。雨足は徐々にその強さを失いつつあった。あれほど厚かった灰色の雲に濃淡の差が生まれ始めている。
この機会を逃すまいと僕は足早に昇降口へと向かった。
廊下を歩きながらも常に外の様子が気になった。学校の敷地の内外に歩いている人の姿が見えたが、その大半は傘を手にしつつも差していない人がほとんどだ。
「大丈夫そうだな」
胸を撫で下ろして一息。あとは帰り着くまでに再び降り始めないことを願うだけだった。
今日は真っ直ぐ帰ろう。もしも雨が強くなってもどうせ後は家に帰るだけだ。濡れた服は洗濯機に入れるか干して、さっさと風呂に入ろう。
少しだけいつもよりも早足で、水溜りと空模様に気を使いながら自宅へと急いだ。暦の上ではとっくに夏だと言うのに、雨上がりは少しだけ風が冷たい。「袖のある制服で良かった」なんて独り言も零れる。
歩き出して大体十分ちょっと経った頃。僕は今朝も通ったあの交差点まで来ていた。
唐突に今朝のあの「冷たい美人」のことを思い出していた。すれ違い様に見たさらりと伸びた長い髪に透明感のある肌。少しとげのある表情も彼女の美しさを引き立たせていた。出会いが出会いなら恋をしていたかも。なんて妄想は一瞬浮かんで気に留める間もなく消えた。
どうせ直ぐに忘れる。いちいちすれ違う人のことを考えていたらキリが無い。
空を見上げると、どんよりとした重たい雲が再び空を覆い尽くそうとしていた。
「すみません」
突然、肩に触れられて僕は動揺しつつ振り返った。
「は、はい」
目の前に居たのは白衣姿の長髪の女性。しかし白衣と言っても不思議と医者や看護師という風には見えなかった。白衣の下の服装のせいだろうか。淡い色のブラウスと黒のスカートからカジュアルな印象を受けた。
「実は人を探していまして」
そう言って彼女は一枚の写真を差し出した。
「此方の女性なのですが」
写真には四人の人物が写っていた。
一番左には短髪の女性。目付きが鋭くて手には煙草、正直いかにもキツそう。その隣には背の高い初老くらいの男性、穏やかそうに微笑む姿に大人な印象を受けた。右端にはこの写真を持つ目の前の女性。写真の中では彼女に限らず全員が白衣を身に着けている。
そして目の前の彼女が指差した人物。写真の右から二番目に写っていたのは――
「あぁ、この人なら今朝ここで見ましたよ」
あの「冷たい美人」だった。
「確かですか?」
「えぇ、今朝ここで肩がぶつかってしまって。だから結構はっきりと覚えてます」
写真の中の笑顔と今朝の彼女はイメージこそは違うが、間違いなく同一人物だと言えた。だから僕は正直にそう伝えた。
「そうですか。御忙しい中有難う御座いました」
女性が深々と礼をするのを見て慌てて僕も頭を下げた。
「それでは私はこれで――」
「あの、この人なんかあったんですか?」どうしても尋ねずにはいられなかった。「失踪みたいな感じ、とか……」
女性は表情を曇らせた。やはり余計な詮索だったらしい。
「そう、ですね。そのような感じです。ですが見ず知らずの方に御話しするような事では御座いませんので……。申し訳御座いません」
再び深く礼をすると女性は足早にどこかへ去って行った。
「…………」
どうせ直ぐに忘れる。その思いを撤回する必要があるとまでは思わなかった。だけど、もやもやとして納得のいっていない自分にも気付いていた。
取り残される立場の人間はいつだってそうだ。




