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Re:Evolutions  作者: アキノヒナタ
Re:Evolutions
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Initial-E / Phase.1 -Rain after memories-

 何も知らないことが何よりの『幸せ』だった。

 ここには何の不自由も無い。望むことで全てが手に入る。快適な居住空間に人当たりの良いスタッフたち。健康的な食事や適度な運動施設。ルームシアターに膨大な量の図書を閲覧できるライブラリー。

 この世界は笑顔と絆によって作られている。そして、私が生きていることが誰かの為になっているんだ。そんな理想を信じて疑わなかった。

 だけど彼女が現れた。

 十六夜(いざよい)と呼ばれた一人の女性。私は彼女と出会っている。それだけは変えようのない事実として私の記憶のどこかに存在している。

 それなのに私は彼女のことを忘れていた。とても大切で、とても特別な存在のはずなのに。私は彼女を……思い出せなかった。外の世界から来た彼女のことを。

「どうかしたのですか。莉衣」

 十六夜の真っ黒な瞳に私の姿が見えた。

「ううん、大丈夫。ありがとう」

 彼女が歩く度に腰まで伸びた黒い髪が艶やかに揺れる。汚れ一つ無い白衣の上で、それはとても美しく、とても繊細だった。

 十六夜と出会ってから約二ヶ月。この間ずっと彼女のことを思い出そうとする日々が続いていた。

 まるで遠い昔の記憶みたいに、思い出す度にその映像は曖昧さを極めていく。私たちの関係性も出会いの場も、そして別れの瞬間も。どれ一つとして 正確なイメージを掴めないまま、徒然と時間だけが流れていった。

 苦しかった。どれほど大切にしていたのか。その感情だけが私の心に残り、その理由も何もかもが消え去ってしまう。伝えようにも伝えられない気持ちが私と十六夜の溝をより一層深めた。

「そうですか。しかし、何かあってからではいけません。具合が悪いのでしたら――」

「大丈夫だよ。ありがとう十六夜。何かあったら直ぐにあなたに相談するわ」

「……ならば良いのですが」

 十六夜は笑わない。まるで感情の無いロボットだと他人はそう呼んで彼女を遠ざけるけれど、私は違う。仮にこのまま一生思い出せなくても、私にとって特別な人には変わりない。そばに居てくれるだけで嬉しかった。

「今日は良い天気です。久しぶりに庭に出て歩きませんか」

「いいね。行こう。直ぐに準備するね」

「はい」と答えて十六夜は背を向ける。女同士ではあるが、着替える私に対して気を遣ってくれているのだ。

 室内着をベッドの上に置いて運動用のスポーツウェアを身に纏う。

「よし。それじゃ出発しよう」

「ええ」十六夜が部屋の扉を開けて私を促す。「あまり遠くへ行ってはいけませんよ」

「はーい」

 彼女は笑わない。それでも彼女は喜んでいることが私には解る。この施設からのささやかな「脱出」は彼女の小さな我侭であり贅沢なのだ。

 そしてそれは今の私にとっても同じこと。

 この施設は果たしてどれほどの大きさなのだろうか。少なくとも建物自体はそう大きくは無い。四階建ての灰色のビルディングはそれぞれのフロアに二十から三十の大小様々な部屋があり、各所で異なった研究が行われている。

 建物を出ると正面に同じような建物が二つ見えるだけで、それ以外ほとんど何も無い。地平線まで続く平野には何一つ見当たらなかった。

 勿論それには理由がある。

 この施設。その大きさや広さが想像できないのは施設の外周を覆う壁及び天井。そして、そこに映し出されているリアルタイムの外の景色に起因があった。

 あまりにも精巧なその映像技術はここが外であると完全に錯覚させる。ここから壁、及び天井までの距離感は一切感じられない。どこに行けば突き当たりなのか人間の目には全く理解できないのだ。ただ、ここで過ごした四年間、雨というものを経験したことが無い以上、あの空が偽物であることは間違いなかった。

 勿論、過去には壁に向かって只管に歩いたことがある。だが十分以上掛けても近付いている気配すら無く、途中で別の職員に帰宅を促されてしまい、私の計画は中止となった。

 ここは気に喰わない。過去の私であれば満足に足る存在だったが、今となってはただの鳥篭同然。目の前に空が見えていて飛び立つのを諦める鳥は居ない。

 少なくとも私は大空を飛び回り、いつかは雨をこの肌で感じたい。

「莉衣。気を付けて下さい」

 十六夜の視線の先から輸送用のトラックが現れた。私たちの目の前をゆっくりと走り去り、隣の建物の中へと消えていく。一体どこから来ているというのか。そもそも移動に車が必要になるほど広いのか。一時はそんなことを頻繁に考えていたが、最近はそれも無駄だということが解った。

 私はここから出られない。きっと死ぬまで。いや、多分死んでも。

 トラックの通行を見送って、私たちは静かに歩を進め始めた。

「十六夜は、外の世界を知っているの?」

「少しだけですが、覚えています」

「そうなんだ……。ねえ、今日はその話をしてよ。ほら、歩きながらで良いからさ」

 十六夜の腕に絡みつく。彼女は決して私を離そうとはしないし嫌な顔もしない。他の人とは決定的に違う。

「外の世界では学校に通っていました。私と近い年齢の男女で同じ制服を着て同じ学び舎に通い、共に勉学に励むのです」

「それくらいは本で知ってるよ。もっと違うこと。例えば十六夜のこととか教えてよ」

「私のこと、ですか」

 彼女は言葉に詰まっていた。何か知られたくない事情があるのだろうか。

 作り物の風が彼女の長い髪を靡かせる。物憂げな瞳、そして額に刻まれた『No.16』の文字が視界を通り過ぎていく。

「過去を思い出すと、とても辛く暗い。そんな気持ちばかりが込み上げてきます」

 十六夜の僅かな記憶の中に一際強く残る出来事があった。


 土砂降りの雨の日。彼女は学校帰りの友と別れて、一人家路を急いでいた。

 時間と共に次第に勢いを増す夕立。湿った靴下の不快感に彼女の歩く速度も上がる。

 人通りの減った住宅街で彼女は誰かに出会った。その人の姿以外は今も鮮明に浮かび上がるのに、その人の顔は真っ黒に塗りつぶされて思い出せない。

 傘も差さずに地面に座り込むその人に十六夜は声をかけた。

「大丈夫ですか? あの、どこか具合が悪いとか……」

 返事は無かった。雨音だけが二人を覆い続ける。

 その場を離れるという選択肢は十六夜の中には無かった。勿論その人を助ける理由は無いに等しく、彼女の行動に損得の考えも一切無い。

 ただ十六夜は気掛かりを残したまま立ち去ることが出来ないだけだった。

「あの――」

「助けて」

「えっ」

「……お願い」

 その言葉で十六夜の思いは決まった。例えそこに危険があるのだとしても、見ず知らずのその人を助けたい。そこには一滴の迷いも無かった。

 そこで映像は目まぐるしく入れ替わる。次に思い出したのは知らない駅の直ぐ近くだった。虫食いだらけの記憶のフィルムは正確な過去を映し出せずにいた。

 その人と出会ってからどれくらいの時間が経っているのだろう。解らないことばかりだったが、確かなことが一つ。十六夜は焦り始めていた。

 壊れた傘を捨てると雨が全身を一気に包んだ。肌が雨を感じなくなると今度は衣服に沁みた雨水が体を冷たく這い始める。重みを増した制服が彼女の枷と変わり、体温は少しずつでも着実に奪われていった。

「ほら、もうすぐです」

 その時、既に十六夜は別れの決意を固めていた。きっともう二度と会うことは無い、と。

 再び記憶が途切れる。

 雨を凌ぐ屋根の下。彼女が最後に抱きしめていたのは自分自身の温もりと、守りぬいた彼女の正義感だった。


 語り終わると十六夜は立ち止まり座った。

 その隣に腰を下ろして彼女の肩にもたれる。

「その人はきっと無事だよ。どこかで元気にやってる」

「それなら、良いのですが……」

「大丈夫。私が保証するよ」

「ありがとう、ございます」

「そろそろ帰る?」

「…………」

「やっぱり、もうちょっとのんびりしようか?」

「……はい」

 見上げた空をゆっくりと灰色の雲が覆っていく。きっと雨が降るんだ。

 この世界には無い雨。私は未だそれを知らない。

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