Re: / Phase.1
無機質な時計のアラームが鳴り響く。快適な眠りは終わりを告げて、いつもと同じ時間、いつもと同じ場所で、僕の毎日は始まった。
頭まで被った布団から這い出た右手が、しきりに左右に行ったり来たりを繰り返していた。何度と同じ場所を往復する内に、漸くそいつを見つけ出すことに成功した。その頭をポンと軽く叩くと途端に部屋は静寂に落ちる。途端に眠気がぶり返してきた。
だが、ここで再び寝てしまってはいけない。今日は平日だ。あと数時間もすれば朝のホームルームがあり、その後は一時間目の授業が始まる。つまり学生である僕に遅刻は許されざる行為なのだ。
さっさと起きることにしよう。目覚まし時計のスヌーズ機能のスイッチを切って、僕は横になったままで思い切り伸びを済ませた。おまけに欠伸を天井に投げる。
重たい体をしっかりと起こして、今日の準備に取り掛かろう。その為にも先ずは毎朝の日課からだ。これが無ければ一日が始まらない。寝癖の付いた頭を掻きながら、僕は早速キッチンへと向かった。
「フンフフン……」
どこで聴いたのかはもう覚えていないが、定番の鼻歌をBGMに冷蔵庫の扉に手を掛ける。そしてドアポケットのそれを取り出した。洗ったままで仕舞い忘れていたマグカップに冷たいそれを注いで、残りの仕事は電子レンジに任せる。
そして、あとは何もせずとも、これで朝の必需品「ホットミルク」の出来上がりだ。
待っている間に空になった紙パックをゴミ箱に捨てに行くと、戻ってきたタイミングで電子レンジが鳴った。
カップを取り出してぐっと飲み干す。いつもの刺激。温かな液体が体の中心を流れ落ちて行く。
さあ朝だ。これだけですっかり気持ちが切り替わる。我ながら何と簡単な人間だろう。
空のマグカップをシンクで水に浸ける。僕のすべきことはむしろこれからが本番なのだ。洗顔に寝癖直し、次に着替え、それから鞄の中の確認に朝食の準備。朝は一日の中でもかなりの大忙しだ。
全ての準備が終わって、ほっと一息つくことが出来たのは、起床から三十分以上が経過した『午前七時十分』頃のことだった。
テーブルに並んだ朝食に手を伸ばす傍ら、空いた片手は携帯を操作していた。画面上部の『六月三十日』の表示を見て、このワンルームでの一人きりの生活がもう一年と三ヶ月も続いていることに気付かされた。
だからと言って、今日が特別な記念日になる訳ではなかったが。
「今日は雨かぁ」
BGM代わりに点けている朝のニュースにも時折視線を飛ばしながら、淡々といつも通りの朝は続く。
朝食とその片付けを終えると、出発前の最後の仕上げが待っていた。
部屋の中をぐるりと一周する形で、全ての戸締りを確認して回る。毎朝やっているこの作業はもはや習慣と呼ぶべきだろう。いつもと同じように過ごしている限り見落とすはずもなく、その一部は一見無意味にも思える。
だけど一度体に染み付いてしまった行動というものは無意識の内に従ってしまうもの。習慣とはそういうもので、一つ確認を終える度に「よし」と呟くのだってそうだし――
「いってきます」
誰も居ない空間の帰ってこない声に向けた挨拶も、きっとそう、いつもの習慣。
家から高校までは歩いて約三十分の距離だ。決して近くはないが、それでも一年以上も通っている内になんてことなく思えるようになった。
そして、その凡そ中間地点にあるのがこの大きな交差点。狭い住宅地の路地ばかりを通っているせいもあって、ここに到達すると一気に視界が大きく広がった。片側三車線の国道を二車線の県道が貫いている。五階建て以上の建物が幾つも並んでいたが、その多くはどこかの会社の事務所や倉庫と言った感じで、飲食店や服飾店は数えるほども無い。その為ここは通勤や通学といった通り道には使われるものの、それ以外の時間帯は閑散としている。
ここを通学路として選んだことに大した理由はない。ただ単純に他の道は遠回りになるだけだからだ。しかし大体毎日通る上に、毎度二回も横断の必要があるせいで、正直ここの風景は見飽きていた。
周囲には大きな声ではしゃぐ小学生、携帯ばかりいじって前を見ているのか心配になる女子高生、早足で歩き去るスーツ姿の大人、店の前を掃除するファミレスの従業員に、あと今日は時々見る何かの演説をしているおじさんの姿もあった。そのどれもこれもがいつもの風景の中の一つで、何か少し違うくらいじゃ変わらないのと同じ。落胆とも言える感情。退屈なため息は喧騒に混じって消えた。
変化の無い日常というものは決して悪いものではない。関心を無くして平坦な毎日が続くということは、恵まれた環境の下で得られる幸せとも言えるだろう。少なくとも僕は昨日よりも幸せな今日より、昨日と同じ程度に幸せな今日が欲しい。大きな問題も不安も無く、腹の底からじゃなくたって笑える出来事が一つでもあれば、それで十分。それ以上の贅沢は頭の隅っこにも無かった。ただ退屈で平凡な日常が明日も続くことを願って毎日を過ごしていた。
交差点の先頭に立って、信号が変わるのを待った。大体二分くらいは掛かるかな。なんて考えながら、ぼっーっとただ立っていた。
目の前を何台もの自動車が通り過ぎていく。渋滞は少ない地域だから、この交差点で信号以外に停止する要素はほとんど無い。勢いを殺さないまま、視界の端から端までほんの一瞬で過ぎ去っていく。
その時、僕の目の前を一台の大型トラックが走り去っていった。ぐっと押されるかのような風が吹くと同時に、多量の排気ガスに僕は囲まれた。それを思い切り吸い込んでしまい、ごほごほと咳を繰り返しながら後ろに下がる。なんだか今日はツイていないのかな。なんて思わせられた。
長く退屈な赤信号もじっと見つめている内に消える。そして青信号が灯った時、人も車も動き出す。
一斉に動き出した人波の中で、僕はすれ違い様に他人に肩をぶつけてしまった。それ自体はたまにある話で、互いに会釈と一言謝罪を交わせれば何の問題も無かったし、記憶に残るような出来事じゃない。
だけど、その人は違った。
「あ、すみません」
振り返った時、その人と目が合った。鋭く冷たい眼差しからは淡々と怒りだけが伝わる。でも、僕の関心は既にそこ以外に移っていた。
背中まで伸びた長い黒髪に、日焼けを知らないような真っ白な肌。その異国的で端整な顔立ちに僕は目を奪われていた。
――きれい。
実際には口にしていないはず。でも見えた横顔は美しく本当にそう思った。
「ごめん」
それはとても冷たい言い方だった。まるで気持ちが篭っていない。肩がぶつかった僕へ向けた言葉のはずなのに、その一言はまるでどこか違う方向へ飛んでいった。
たった一言だけを残してその人は振り返ることもなく、そのまま立ち去っていった。
――なんだよ。美人だからって。
そう腹を立てたのは事実。だから僕はその「冷たい美人」のことを覚えていたんだと思う。
自宅を出発してから三十分を過ぎたほどで高校に到着した。校舎の時計は『八時十五分』の少し先を指している。おそらく今が最も登校する生徒の多い時間帯なのだろう。正門付近は同じ制服で溢れていた。
校門を潜り敷地内を進むと、すぐに嫌な奴を見つけた。生活指導の小山田だ。様子を見るに今朝は抜き打ちで服装検査を行っているらしい。昇降口へと繋がる道の真ん中を陣取って、通る生徒一人一人をじろじろと見ていた。
別にひどい着崩しはしていないが、面倒を避けるに越したことはない。歩く速度を少し緩めて制服を正した。小山田のねっとりとした視線を感じながらも、堂々とその目の前を通過してやった。
教室に着いてからは、知った顔と挨拶を交わし他愛の無い会話を広げた。その多くは今朝の服装検査のことで持ち切りだ。
「おはよう……」
中でも一際気の抜けた挨拶をする人物が一人。
「おはよう。また検査引っかかった?」
鼻で笑う彼のリアクションが肯定の返事だと、僕には解った。
彼の名前は伊川條。学校で唯一はっきりとした茶髪の生徒で、目付きや制服の着方等の見てくれは完全に不良だった。本人曰く「あくまでファッション」らしく素行不良という訳ではないらしい。だけど先生や他の生徒から特別視されることは避けて通れず、このクラスになって三ヶ月が経つ今でも彼を避けるクラスメイトが少なからず居るのも事実だった。
「いつものことなのに懲りないよね」
「るっせ……」
なんだかんだ言っても僕と條は仲が良かった。席が前後で近いことがきっかけだったけど、会話を繰り返す内に條は彼自身が言うように悪い奴じゃないと思うようになったからだ。
「不器用な奴め」と僕は言った。真面目には到底見えないが、條が自分自身に真っ直ぐな人間なことは知っている。
「さっさと鞄片付けろよ。先生来るぞ」
「はいはい」
窓の向こうはどんよりと灰色だったが、友と過ごす朝の時間は悪くなかった。
午前中の授業が終わり、昼休みが始まる頃には小雨が降り始めていた。
「はぁ、マジか……」
ため息と共に條は肩を落とすと、不満そうに外を眺めていた。
「どうしたの?」
「傘持ってきてない」
「マジで? 今朝あんだけ曇ってたのに?」
思わず笑ってしまった。傘を忘れたことにではなく、その落ち込みようが絵に描いたようで面白くて。
「今日はツイてない……」
頬杖がずれて條の顔を曲げていた。それがまた僕の笑いを誘ったが、流石に可哀想なので今度はなんとか押し殺した。
「ねえ、伊川居る?」
教室の入り口から條を探す声が聴こえた。僕らが振り向くとそこにはクラス委員長の永峰杏子の姿があった。
條は呼ばれた理由に心当たりが無いらしく、腕を組んで首を傾げていた。
杏子はこっちに條が居ることに気付くとまっすぐに向かってくる。
「よう、委員長」
條の軽佻な挨拶を無視して、杏子は詰め寄った。
「今日、委員会の会議あるって知ってるよね?」
その言葉であっという間に條の表情が曇っていく。
「知ってるよね?」机に手を付いて杏子は更に追い討ちをかける。「だよね?」
杏子はクラスの中でも條に臆することなく向かってくる数少ない生徒の一人だ。その中でも多分最強。というよりも條以外の生徒だって手も足も出ない。
條は黙ったまま頷いての返事を繰り返した。
「じゃあ行くよ」
杏子に言われるがまま條はすごすごと教室を出て行くしかなかった。
僕はというと二人の後姿に小さく手を振って見送るだけ。
「僕もツイていないな」
條を連れて行かれて僕は一人ぽつんと教室に残されてしまった。
結局、二人が帰ってきたのは昼休みも終わる間際になってからだった。「疲れた」と呟く條にとって、休む間も無く午後の授業が始まる。
たまに眠気に負けそうな條の背中をシャーペンの頭で突くことを楽しみにしつつも、午後の曇り空は少しばかりアンニュイな気持ちに拍車を掛けた。




