Re: / Phase.9
無機質な時計のアラームが鳴り響く。いつもと同じ時間、いつもと同じ場所で、僕の毎日は始まる。
ここがどこなのか。その音が無ければ思い出すまでに幾分か掛かっただろう。
ここは僕の部屋だ。枕元では、聴き慣れた音を撒き散らしながら、目覚まし時計が朝を告げている。僕は自室のベッドの中で横になっていた。
呆然とした。今の今まで僕は雨の中、莉衣さんと一緒にいたはずなのに……。
まるで何事も無かったかのように、いつもと同じ朝が始まろうとしていた。
体を起こしてアラームを止めた。そばにあった携帯の画面を確認すると『六月三十日 午前六時三十分』の表示。
――あれは夢だったのだろうか……。
もしそうなら何とも後味の悪い夢だ。嫌なほどに現実味を帯びていて、展開の一つ一つを挙げられるほどに鮮明に全てを覚えている。
彼女の声も掌の温もりも。全て夢だったのだろうか。
こんなにも不気味な朝は生まれて初めてだった。もしかしたら今見ているこの光景でさえ、本当は夢なんじゃないか。そう思えるくらいに居心地は最悪だった。
とにかく今は準備をしなければ。どんな夢を見たとしても時間が来れば学校が始まる。気分を入れ替えてしまえば、いつも通りの朝と何ら変わりはない。
それにしても今朝はやけに目が覚めていた。荷物をまとめ確認をするのも、朝食の準備だってとにかくスムーズに進んだ。朝食を終えて家を出る支度が整った時はまだ『七時二十分』を少し過ぎた頃。普段よりもずっと早かった。
――たまには早く行ってもいいか。
退屈な朝の時間を少しでも潰そうと、僕は早々に家を出ることにした。
部屋の中をぐるりと一周して全ての戸締りを確認して回る。五分と掛けずに一つ残らず施錠の確認は済ませた。
「いってきます」
誰も居ない空間に向けた挨拶も、すっかり慣れてしまったいつもの習慣。
未だに些か気分は優れないが今朝は妙に足取りが軽い。きっといつもより早く学校まで行ける気がした。
普段と同じ風景が現れては流れていく。よく見かける近所の人や、誰彼構わず吠えまくる番犬だって知った光景だ。
十分ほどであの場所まで辿り着いた。あの交差点だ。――夢の中で――莉衣さんとぶつかった始まりの場所。当然ながら、そこに彼女の姿はなかった。少しも期待をしていなかったといえば嘘になる。だが、それを受け止める準備をしていなかった訳でもない。
彼女、莉衣という存在は一体何だったのろうか。僕の心が生み出した幻影だったのなら、僕は無自覚に彼女のような人を求めていたとでも言うのか。わがままで掴みどころのない女性に振り回されることを望んでいたのだろうか。
自分自身のことというのは実際のところよく解らない。自分を百パーセント理解できている人間なんていないだろう。人は頭で理解できても心が納得しないことがある。そしてその逆だって。
僕は、僕が生み出したであろう彼女を理解できたとしても納得することはないのだろう。本当に彼女が存在してでもいない限りは、永遠に。
交差点の信号が変わり人の波が動き出した。僕もそれに合わせて流れていく。夢の中よりは少し人の数も減っているだろうか。誰かにぶつかりそうになることもなかった。
今の自分の足取りと夢の中の自分とをずっと比べていた。あぁ、夢の中ではこうだったな。と覚えていることの一つ一つを照らし合わせていると必ず違いがあることに気付く。
交差点の人の数も目視で解るほどに違ったし、家を出てすれ違った小学生に挨拶されたり、莉衣さんと出会わなかったりしたこともそうだった。明確に異なる状況。それが僕にとってはあれが夢であることの証明になっていた。
もう十分もすれば学校に着くはずだ。そういえば夢の中では抜き打ちで服装検査があっていたのか。クラスメイトの條が嘆いていた姿が目に浮かんで僕は笑みを浮かべた。端から見れば一人で笑っているのは不自然だが、この付近は人通りも少なく、あまり気にしていなかった。
学校に行けば友人たちがいて、つまんない授業に精を出して、そしてそれについて愚痴りあったり、馬鹿みたいに笑って、そんな日常が待っている。夢のことなんて直ぐに忘れてしまうだろう。そう思うと少しでも早く学校へ行きたくなってくる。高校生にもなって学校を楽しみにするだなんてちょっと子供染みているかも。
だけど、そんな日常から僕は既に一歩踏み出していた。いや、正確には再び一歩踏み出そうとしていることに気付いていなかった。
曲がり角の先にその人は居た。僕が夢の中を共に過ごした、存在しないはずの彼女がそこに居たのだ。しかし――
そんなはずはない。そう何度も思い聞かせながらも僕は彼女から目を離せなかった。もしかしたら見間違いかもしれない。もしも僕が望み生み出した存在なのだとすれば、彼女の似た誰かに空目している可能性だってあるはずだ。
僕はじっとその人を見つめ、記憶の中の彼女に一つずつ当てはめていった。
肩よりも伸びた長い髪にラフな服装、そして異国的で端整な顔立ち。真っ直ぐに歩く姿が近付いてくれば来るほどに疑問は確信に変わり、そしてまた違う疑問を強烈に打ち出してくる。
その青い瞳が僕を見た時、彼女の名前を口にせざるを得なかった。
「莉衣さん……」
その人は驚いていた。だけどその理由が僕には解らない。第一に僕自身どうして彼女にまた会えたのか。あれは夢ではなかったのか。それとも本当は今もまだ夢を見ているのか。僕の頭は混乱を極めていた。
「お前、どうして名前を知っている? 私の知らない顔だ。施設の人間じゃないだろう?」
その声。そして彼女も言った「施設」という言葉。謎は解決するどころが深くなるばかりだった。
「えっと……その……」
「どういうつもりかは知らないが」莉衣さんは目の前で腕を組み立ち止まった。「はっきりと言えないのであれば失礼させてもらう」
はっきりと言えるはずがなかった。「夢の中であなたと出会いました」なんて信じてもらえるはずもなければ、今時ナンパの台詞にしてもクサすぎる。
それでも僕にとってそれだけが真実だった。
「あの、信じてもらえないかもしれないんですけど……」
「それは私が決めることだ。君じゃない」
「その、夢の中で莉衣さんと出会ったんです……。可笑しいですよね、夢だと思ってたんですけど、まさかホントに出会うなんて、あはは……」
自分で言っていて意味不明だった。恥ずかしくて誤魔化しの笑いも出てくる。もしも彼女が夢の中と同じ性格をしているのなら、きっと冷たくあしらって去っていくだろう。最初の出会いがそうであったように。
だけどそうはならなかった。
「出会ったのか、私と……」
「え、はい」
落ち着いた口調で莉衣さんは続けた。
「それじゃあ安藤もいたんだな」
安藤――あの男の名前だ。まさか奴も実在しているのだろうか。それならば十六夜もなのだろうか。
「確か、そんな名前の人も。あと十六夜って人にも」
「そう……。十六夜も来てるのね」
「あの、夢じゃないんですか……? 本当に安藤って人も、十六夜って人もいるんですか?」
「君は知らないほうが良い、とはもう言えない、か。これから時間はあるか?」
「いや学校が……」
「なら質問を変えよう。君は夢の中で何時頃まで過ごしていた? 何時まで記憶している?」
「多分、『午後十一時』くらいだと思うんですけど」
「ならまだ余裕があるな」
「あの言っている意味がよく……」
「とにかく後で話をしよう。ちょうどこの付近は人が少ない。午後五時過ぎに私はもう一度ここに来る。もう学校も終わっているだろう。君も忘れずに来い」
そうして一方的に約束を取り付けると莉衣さんは足早に立ち去っていった。
呼び止める僕の声は空っぽの路地で誰に拾われることもなく消えていく。




