Re: / Phase.8
その時だった。
莉衣さんの遥か後方、数十メートル向こうに人影が見えた。
――あいつがいる。
絶対にとは言えないが、こんな時間に雨の降る中を傘も差さずに出歩く人間などそうはいない。十中八九、あの安藤という男だ。
「どうかしたのか?」
「あいつがいます」
一気に緊張が走る。莉衣さんの手にも力が入った。
「ゆっくり行こう。下手に大きく動くと見つかる可能性が高い。壁際を歩いて逃げよう」
莉衣さんの言葉通りに僕らは身を寄せ合った。
後退りするように身を捩らせながら歩く。二人の視線は常に後ろへと向いていた。
その小さな人影は、わずかながら、こちらに近付いているように見える。まるで何かを探して回っているかのように、とてもゆっくりとした動きだった。
一刻も早くここを立ち去りたい。逸る気持ちとは裏腹に足取りは重たい。
あと少しで交差点に辿り着く。まだ十分に離れている。きっとここからなら逃げられる。そう思って駆け出した時だった。
「危ない!」莉衣さんが声を上げた。
彼女の声に続いて、大きなクラクションが鳴り響いた。振り向いた僕の目に煌々とした光の塊が飛び込んでくる。視界は一瞬にして奪われた。と同時に、その音と光の正体が自動車の物だと判った。背後にばかり気を配っていたせいで、交差点に近付いてきていたその自動車の存在に僕は気付けなかった。
立ちすくむ僕の手を莉衣さんが強く引いた。勢いよく引き戻される。突然のことにバランスを取ることもできずに、僕はそのまま道端に倒れこんだ。
豪快なブレーキ音を引きずりながら、その自動車は僕らの目の前を走り抜けていった。莉衣さんが気づかなければ僕は飛び出していたかもしれなかった。
「大丈夫?」
倒れた拍子に腰や腕の一部を叩きつけていたが、大した痛みもなく、目立った怪我もない。大丈夫ですよ。と応えると、莉衣さんは安堵の表情を浮かべた。
でも、それも直ぐに消えた。
僕らは思い出して来た道を振り返った。距離が出来たといえど、幾ら雨音が存在を紛らせてくれているといえど、大して離れていないその場所に今の騒動が届いていないはずがない。ましてや相手は躍起になって僕らを探している。その為にありとあらゆる神経を尖らせているのだから、この大きな異変を逃すはずがない。
そして僕らのその予想は当たっていた。
その男――安藤は体の向きをくるりと翻し、直ぐに僕らの存在に気付いた。いや正確には『まだ』それが僕らだとは気付いていないかもしれない。それでもここに居る誰かを確かめに来るのは間違いなかった。
そして考えるよりもずっと早く奴は走り出した。前傾姿勢に移行し、まるで短距離走の選手のような全力疾走でぐんぐんと距離を詰めてくる。一度標的を見失った自責の念のせいか、気迫に満ちているのが遠目にも伝わった。
いかに距離が出来たといっても、それは僕らがいつでも逃げ出せる状態にあるという前提ありきのもの。僕は未だ立ち上がってはおらず、莉衣さんも僕の様子を見ようと中腰の姿勢だった。猛然と迫り来る相手を前にとても万全とは言えない。
それでも諦める選択肢は無かった。すぐさま体を起こして僕は莉衣さんの手を掴んだ。しかし導火線に点いた火のように、奴との距離は確実に縮み始めている。
「くそっ!」
家を飛び出してから、もう既に三十分近く経過している。その間ほとんど休息もなく動き続けた肉体は限界を迎えようとしていた。踏み出す度に脇腹の痛みは増して、雨を吸って重たくなった衣服が鎖のように体の自由を邪魔してくる。腕を振る体力すら残っていない。もう走ることを辞めたいとすら思った。
「諦めるな!」途切れながらも莉衣さんは言葉を繋いだ。「散々首を突っ込んだ癖に、こんなとこで投げ出すなんて許さないからな」
苦しいのは同じはずなのに、彼女の口元は笑っていた。
ぐっと強く手を握って莉衣さんは続ける。「生きる意味は、君が教えてくれる。そうだろ?」
その言葉で勇気が沸いた。僕が今日、今この瞬間まで生きていたことに、一つ意味があったんだと実感できたのだ。まだやるべきことがあると、胸を張ってそう思えた。
背後に視線をやると奴の姿が見えた。見る見る内にそのシルエットが大きくなっている。手が届くような距離ではないが、もうすぐそこまで来ている。消耗しきった僕らがこのまま逃げ切ることは不可能だった。
だけど一人だったら……。誰かが奴を引き留めることに成功したなら、きっと莉衣さんは奴から逃げ切れる。
迷いは行動を鈍くさせる。それが僕の後悔しない為に見つけた答えの一つ。
僕は立ち止まり、莉衣さんの手を引いて彼女を前方へと押しやった。途惑う彼女に背を向けて僕は駆け出した。
「待って! アキ!」
呼び止める声を振り払い、地面を蹴って駈け出した。
改めて視界に奴の姿を捉える。やはりあの男、安藤だった。全力疾走の代償だろう、走る姿に疲れが滲んでいた。左手に持った棒状の影――あの刀は今も抜き身の状態で妖しく光を反射している。
安藤はその刀を両手で握り締めた。振り下ろすか、あるいは突き刺すか。そのどちらにしても触れる訳にはいかない。莉衣さんを逃がすのは勿論だが、その為に易々と命を差し出すつもりなど無い。
何よりも闘いを挑む為に立ち向かうのではない。打ち勝つ必要も無い。僕にとっての勝ちは、莉衣さんをこの場から逃がし、尚且つ僕自身も立ち去ることだった。安藤という男を打ちのめしたり屈服させたりすることに意味はない。
低い雄叫びを上げながら安藤が向かってくる。水平に構えた刀はその腕の長さと合わせれば一メートル以上は届くがあるだろう。近付くのは危険だ。これ以上近付くつもりもないが。
安藤の手前で踏みとどまって後方へ一歩下がった。振られた切っ先が数十センチ以上も向こうを切り裂く。素人目に見ても扱いなれた武器とは思えない所作だった。
「アキ!」
莉衣さんの声が響いた。
「止めるんだ! 早くこっちに来い!」
「僕も直ぐに行きます。だから、莉衣さんは先に逃げててください!」
安藤は自分で振った刀の重さに体を持っていかれていた。だらしなく曲がった上体がその疲労具合を表している。僕自身の体力も少ないが、いざとなれば逃げ切れるはずだ。
「行ってください! 早く!」
ためらいながらも走り出した莉衣さんの背中を見て、僕は安心した。
「囮になるつもりか」
安藤が刀を持ち上げた瞬間。それを僕は狙っていた。
どう考えても安藤は刀の扱いに慣れてはいない。走り回った後とはいえども、自分で振った刀の勢いにバランスを崩される男だ。考えて動けば活路はある。
左肩に構えた刀は真っ直ぐ、あるいは対角線上に斜めに振り下ろされる。ならば向かって右側、安藤から見た左手にはまず危険は無い。
刀が振り下ろされるよりも早く、僕は安藤に向かって走った。
そして、想定した通り、その切っ先が僕に触れることは無かった。
唯一の武器である刀は安藤を挟んで反対側にある。僕は全力で安藤に突っ込んだ。無謀とも思える攻撃だったが、よほどの予想外だったのか、またもバランスを失っていたのか、安藤はいとも簡単に地面に伏した。
逃げるなら今しかない。僕は急いで莉衣さんの後を追おうとしたが、
「クソガキがっ!」
安藤は地面を這うように水平に刀を振った。勢い任せの攻撃でも僕には効果覿面だった。
必死に避けようとその場で飛び上がったまでは良かったが、上手く着地できずに僕は膝を突いた。
――まずい!
振り返った僕が見たのは真っ直ぐに近付いてくる一本の線。そう認識した瞬間に僕の視界は黒く染まった。




