Re: / Phase.6
「アキ。もしも世界が君のような人ばかりなら、もっと違う答えが私にもあったのかもしれない」
彼女の手が離れる。ほのかに残る掌の温もりを雨が直ぐに奪っていく。
「だけど、さよならはしなくちゃいけない。君は何れ私を忘れる。それで良いんだよ、それで」
彼女は微笑んだ。触れてしまえば壊れてしまうほどに脆く、繊細に。
「アキはこんなにも優しいのに……この世界は君のように優しくはない。人々は時に偽り自己の為に他人を利用する。綺麗に見えていた心は触れた途端に耐え難い異臭を撒き散らし、あっという間に腐ってしまう。でも本当は、きっと見えていないだけで始めからそうだったんだ。そして腐り果てた人間は二度と元には戻らない。私はアキがそうなるのを望まない。君にはいつまでも綺麗なままで居て欲しい」
僕は、莉衣さんのことを知らない。そして彼女が口を閉ざす以上、僕に知る術はない。それでも彼女にも何か背負ったものがあることは容易に想像ができた。しかし、それは大きな一つの重荷なのか、それとも幾つもが複雑に絡み合っているのか。窺い知ることが出来ないことのほうがずっと多いのも事実だった。
だが、そのどちらにしても莉衣さんは今その歩みを止めようとしている。それだけは確かだった。
「いつか世界が、アキのような人々が生きる為の、優しさに満ちた世界になればいいのに……。本当に君には心から感謝してる。私なんかの為にこんなとこまで来てくれてありがとう」
「い、いえ……僕は、ただ――」
ただ――何なのだろうか。僕がここまで彼女に固執した理由を……一体何と言えば良いのだろうか。胸につかえるその何かをひたすらに考えあぐねていた。
雨音だけが頭の中に満ちる。滴り落ちた雫が自分の影の中へと消えていった。
ふいに彼女の手が僕の頭に乗ったかと思うと、今度は髪がぐしゃぐしゃになるまで目一杯に僕の頭を撫で始めた。嫌な気持ちはしなかったけれど、あまり良い心地でも無かった。
ただ莉衣さんがそこに居るのだという実感だけが僕に残った。
「ねえ、アキ? もう遅いから帰りなよ。近くまでだったらさ、送ってあげるから」
僕の不安を知ってか知らずか、その語り口はとても優しかった。そして、だからこそ僕は彼女との別れを感じていた。――もう二度と会えなくなるのだ。と。
「ほら」と差し出された手に僕は縋った。これが最後なんだ。彼女を引き止める為に残されたチャンスはあと一回きりなんだって、勝手にそう思い込んで縋った。
僕がその手に触れるか否かというタイミングで莉衣さんは僕の手を掴んだ。今までにないほどに強く握られた左手は竦むように一瞬引こうとしたが、それすらも打ち消すほどに彼女は僕の手をしっかりと捕まえた。
「ほーら、きりきり歩けー」
僕とは対照的に莉衣さんは笑顔だった。まるでこれからデートにでも行くかのように、足取りも軽く、僕の手をしきりに引っ張っては歩くことを促した。
歩く度に一歩踏み出す度に靴の中で水溜りを踏むような感触が伝わってくる。今日は随分と雨の中を動き回ったものだ。こんなことは一体いつ以来だろう。
感傷に浸る僕の目の前で交差点の信号は点滅を終えた。雨の中で待つ赤信号はいつだって退屈で苦痛だった。でも今はそれが雨のせいだけじゃないってことくらい解っていた。
空白の時間が少しずつ積み重なる。何か言わなきゃ……。そう焦る気持ちばかりが先へと進んで上手い言い訳が出てきそうにない。
それでも僕には声を振り絞るしかなかった。
「傘、持っていってください」
「うん? どうしたの急に?」
「そして、いつか返しに来てください」
それは僕なりの精一杯だった。いつかもう一度会う為に約束を彼女としたい。それが一体いつになろうと構わない。例えどんな遠いに未来であっても構わなかった。
だけど――
「ごめん。もうこれだけ濡れちゃってるし、傘はもう必要ないよ」
「はい……」
僕の返事は莉衣さんに届いただろうか。雨音に掻き消されそうなほどに弱々しい声だった。僕も莉衣さんももう解っているんだ。この手が離れてしまえばそれで最期なんだって。
きっと普通の日常を送って、普通の人生を生きていたら――僕が彼女をこんなにも大切に思うことはなかったのだろう。だけど、そんな僕が彼女に出会ったのにはきっと意味があるんだって、なんとなくだけどそう考え始めている自分に僕は気付いていた。
もう後悔なんてしたくない。この七年間ずっとそうやって生きてきたんだ。今さら変えられない。気持ちは少しずつだけど確実に上を向き始めていた。
信号が変わる。未だ項垂れたままで彼女の後ろを付いていく。意味もなく横断歩道の白線を数えていた。
――一本、二本、三本。そして線はそこで止まった。
視線を上げた僕の目に飛び込んできたのは一人の男の姿。交差点の向かいに傘も差さずに男が一人立っている。夜の闇に雨のノイズ、視界は決して鮮明ではないがどうも若くは見えない。恐らく歳は三十代か四十代。背は高い、僕よりも高身長に見えた。中肉中背で背広姿。端から見ればただの残業終わりのサラリーマンだ。
だが二つ。僕には気になる点があった。
まず一つ目は男の持つ荷物。あれは鞄ではない。優に一メートルはある軽く歪曲した細い棒状の物体。ぶっちゃけて言うと僕には刀のように見えた。それが如何に現実的ではないと理解していても、そう見えたのだ。
そして二つ目。それは莉衣さんの反応だった。彼女の手からはっきりと伝わる震え。これは決して寒さから来るものなんかじゃない。現にさっきまで莉衣さんは震え一つ起こしていなかったし、彼女の横顔、その表情は僕と再会した時のあの発作のような狼狽え方に酷似している。目で見て解るほどに震えている彼女の口元は、きっとぶつかり合う上下の歯がガチガチと音を立てているだろう。それほどの激しさだ。
男が口を開く。
「随分と仲が良さそうだな、莉衣」
交差点内に男の声が響いた。
僕自身はというと驚くほど冷静だったと思う。多分隣に居る莉衣さんの過度な動揺を目にしたせいだろう。じっと男の言葉に耳を傾けていた。
「ほんの短い間だったが自由に世界を見て回れたわけだ。後悔ももうあるまい」
口調とは裏腹に男はとても心地の良い声をしていた。年齢を重ねた者特有のものなのか、落ち着きと知性に満ちた喋りは男の言葉に妙な安心感を与えていた。
「それ以上こっちに来るな安藤! それ以上近寄ることは許可しない!」
横断歩道の真ん中で莉衣さんが叫んだ。
「貴方の許可は必要ない」
安藤と呼ばれた男は切り捨てるようにそう言うと静かにこちらへ歩み始める。
それを見て莉衣さんは一歩下がった。繋いでいた手を離し、僕の視界を遮るように目の前に立ち塞がると、背中で僕のことを押した。
「行くんだ、アキ。これ以上は君の安全を保障できない」
それが僕を思っての行動なのは解っていた。だけど彼女を一人残して立ち去ることだけは僕の頭の中に無かった。どうにかして二人でここから逃げ出す術を考えなければ……。
そうやっている内にも男は近付いてくる。
「そちらの男性は? もしかしてもうお友達ができたのかな?」
「あなたには関係ないでしょう?」
「それを決めるのは私たちではない。あなたもよくご存知のはずでは?」
歩行者用の信号が赤く灯る。
「どうやら私が想像していた以上に貴方は学習しないようですね」
男がその長い荷物に手を伸ばした。街路灯と信号に照らされて漸くその姿が見える。それは紛れもなく鞘に納まった刀だった。鞘から抜き放たれた刀身に光が一瞬反射する。投げ捨てた鞘がカランと音を立てて地面を転がった。
こいつも普通じゃない。それは考えるまでもないことだったが、目の前の男の正体が何なのか、そんなこと今は差ほど重要ではなかった。真に考えるべきは明らかに敵意を持つこの男からどうやって莉衣さんを守るか。僕にとってはそれだけだった。
「安藤、お前の目的は私だろ? だったらそれをさっさとしまってもらおうか」
「本当に学ばない人だ」
街路灯の明かりが男の顔を照らし出す。
そこにあったのは想像よりもずっと普通の顔だった。特徴的なものもなければ特別に端整でもない。どこにでも居るような普通の人間。それ故その手に持った刀の存在が際立って異彩だった。
「貴方の形跡をいちいち消して回るこちらの立場にもなってください」男は刀を肩に担ぐとため息を吐いた。「安くないんですよ。こっちだって」
莉衣さんの肩越しにその視線が僕を睨む。この雨よりもずっと冷たい。人を蔑む見下した目だ。
このまま奴との距離が縮み続ければ状況は悪化するだけなのは解り切っている。現状を脱する為に僕は意を決して莉衣さんの手を掴んだ。
「なっ! 駄目だアキ!」
当然莉衣さんは腕を振って抵抗した。彼女はどうにか僕を逃がそうとしているのに、肝心の僕はそれに従おうとしないばかりか、彼女の思惑とは真逆の行為をしているのだ。
そんな莉衣さんを制して僕は彼女を背後へと誘導した。
「莉衣さんは逃げてください」
「それは君のほうだ。アキ、君はここに居てはいけない……!」
確かにそうかもしれなかった。僕は完全なる部外者であり本来居るはずのなかった人間。僕が逃げたって誰も咎めやしない。
だけど、ずっと感じていた諦めきれない何かが心の奥から熱を帯びて溢れ出してくる。緊張や不安や恐怖が心地良く思えるほどに、心はもっと大きな意義を持って僕の体を突き動かしているのだ。今さら揺らぐような決意は持ち合わせていなかった。
立ち止まることなく男は近付いてくる。既に僕らの間は白線五本分にまで縮まっていた。
「どうしてそこに立つ?」
「自分の為に」
「怖くないのか?」
「……怖いさ」
「なら退けば良い」
「確かに」僕は笑った。「でも、そっちのほうがもっと怖い」
「なるほど。君は斬る他ないようだ」
刃が煌いた瞬間、僕は身を引いた。踵を返し、しっかりと踏み込む。前のめりに傾く勢いのまま莉衣さんを抱き寄せた。
「駄目だ!」
僕を突き放そうと莉衣さんの右手が伸びてくる。その表情には不安が浮かんで見えた。
「嫌です!」
そう一喝して強引に彼女の手を取った。そしてそのまま僕は走り出した。一刻も早く莉衣さんをこの場から連れ去るにはもう今しかなかった。
「どうしてアキは私を助けようとする? 誰かに頼まれたわけでもなければ、君は私の家族でもない。ほんの数時間前に出会ったばかりじゃないか。それなのに……!」
「話はあとで聞きますから、今は逃げましょう!」
男も僕らを追いかけて走り出していた。が、あまり運動神経は良くないらしく、少しずつ距離が開いていく。ほんの小さなものだったが一息の安心感が生まれた。だが、こちらもいつまでも走り続けられない。まずはこのまま奴を振り切ってどこかに身を隠すことにしよう。それが一番のはずだ。
男の視界から隠れるように明るい通りから暗い路地へと逃げ込んだ。住宅地に近いこの道は細かく脇道が配置されていて地元の人間ですら慣れるまでは土地勘が掴めない場所だ。余所者であろうあの男が僕らを見つけることは容易ではない。
角を曲がり近くの家の塀の裏に僕らは身を潜めた。通りから姿が見えないようにと敷地の奥へと進んだが、もしもここが見つかると一つしか無い逃げ道を塞がれることになる。隠れるにはあまり良い場所では無い。だが僕も莉衣さんも既に肩で息をする程に体力を失っていた。雨で冷えた体はかなり消耗している。今しばらくはここで大人しく待つしかなかった。
雨音の中でそっと耳を澄ませる。ここは地元の住宅街だ。こんな遅い時間に付近を通る人はまず居ない。今それが居るとすればあの男のはずだ。
あの男は一体どれくらいで僕らに追いつき、そしてここを通り過ぎていくのか。はたまた全く違う道を通ってそのまま僕らを見失ってくれるだろうか。真っ暗な星空に僕は少しだけ祈っていた。
隠れてから数十秒が過ぎた頃、早いテンポで近付く足音が聴こえた。自然と緊張が走る。僕らは顔を見合わせて、じっと息を呑んだ。
その足音は僕らの直ぐそばで止まった。近付いてきた何者かが立ち止まったのだ。
生きた心地のしない数秒間。その間、僕は無意識に呼吸さえ止めていた。
再び足音が聴こえた。そして、それはまた足早にどこかへと消え去っていった。
――あいつは僕らを見つけられなかった。
遠のいていく気配に僕は胸を撫で下ろした。勿論これが束の間の休息だということは承知の上だ。
「行くんだ、アキ。今なら奴から逃げられるかもしれない」
莉衣さんにそう懇願された。勿論そこに他意が無いことくらい解っている。
「ええ、そうですね。でもその時は二人で行きましょう」
僕の気持ちに変わりは無い。彼女の思いを幾らか無視してしまってはいるが、そうするべきだと信じていた。
「どうして君はそう頑なに私を助けようとするんだ」莉衣さんの苛立ちが声から伝わる。もしくは僕に対する呆れだったかもしれない。「少しは私の言うことも聞け! それとも君は今更私に生きろとでも言うのか!」
そう言って莉衣さんは詰め寄る。彼女の伸びた爪が肩に少し食い込んで痛かった。
「生きていてほしいって思っちゃ駄目なんですか」
「私は、君が思うような人間ではないんだ……! これ以上生きる資格など本当はとっくに――」
莉衣さんは顔を背けると少し僕から距離を取った。繋いでいた手も離れていく。
「とっくに無いんだ」




