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Re:Evolutions  作者: アキノヒナタ
Re:Evolutions
10/16

Re: / Phase.5

 僕の生い立ちは、正直にいって、ありきたりで平凡なものではない。仮にもしそうだとしたら、今も両親と三人で同じ家に住んでいただろうし、生活費の為にアルバイトをすることだって無かったはずだ。つまり、この現状は決して望んで得た環境では無かった。僕は世の中に存在するマイノリティーの内の一人。少しばかり不遇の人生を強いられてきたのだ。他人とは感じ方も考え方も違う。

 だけど、それでも今日まで周りと同じように生きてきた。過ぎる歳月の中で、時に無理解な者に対し苛立ち、時には報われない惨めな嫉妬心を抱くこともあった。行き場の無い孤独感は枝に引っかかった小さな風船のように、誰かに拾われることも、広い空へ飛んでいくこともないまま、いつしか小さくしぼんでいった。ずっとそこに引っかかったまま。どこかへ消え去ってくれることもなかった。

 いつからか忘れられないことは忘れた振りをして生きるように決めていた。そうすればきっと、いつか本当に忘れられるのかもしれない。そう自分に何度も言い聞かせて、僕は他人と同じように生きることを選んだ。

 彼女は――莉衣さんは違う。まるで僕らと同じカタチをした違う生き物。澄んだガラス玉のような青い目や、身長一七二センチの僕と変わらない背丈、視線を集めるほどに端正な顔立ちといった外見の話だけではない。彼女は普通の人とはどこかがズレている。これまでに交わした数少ないやり取りでも感じ取れるほどの大きなズレが、間違いなく彼女のどこかに存在している。価値観や道徳観といった人間の規範に繋がる根本的な思想が、僕らと彼女とでは異なっているのかもしれない。

 だからこそ、僕は自分の思いを口にする必要があった。彼女の意思を知るには、彼女自身に語ってもらう他ないからだ。

「どうして警察に行かないんですか?」

 莉衣さんは黙っていた。言えない事情があるのならそれを聞きたかった。仮にそれで納得できなかったとしても、彼女の考えることを少しだけでも知りたかった。

「僕は、そりゃ確かに部外者です。今日知り合ったばかりの他人です。けど、少しくらい何か教えてくれたって」

「行かないって訳じゃない」

「だったら……」

「これは警察に行ったからってどうにかできるような問題じゃないんだ。それに、そもそも私はそこまで行けない……。ごめん、訳解んないよね? でもこれ以上は話せない。ごめんね」

 そう言って莉衣さんは優しく僕の頭を撫でる。その表情は鬱屈としていた。

 何から何まで理解には至らない人だったが、それでも一つ確かに言えることは、この人は困っている。ただそれだけだった。でも、僕にはそれだけで十分だった。

 彼女の手が僕の頬に触れる。肩がびくりとしてしまうくらいに冷たくなっていた。そういえばさっき外から帰ってきたばかりだ。僕も彼女も小雨ですっかり冷えている。

「君には迷惑ばかりかけてしまったね……。もう、行くよ」

 そう言って彼女は背を向けた。このまま黙っていればそれが別れの切欠になる。きっと多くの人が何も言わずに彼女を見送ったはずだ。だけど僕にはそれが出来なかった。

 立ち去ろうとする彼女を僕は呼び止めた。

「今、何か作りますから。向こうで座って待っててください」

「…………」

 返事はなかった。ただ無言のまま彼女は立ち尽くした。そして僅かに考えを巡らせられる程度の数秒が過ぎると、彼女は部屋の奥へと戻っていった。

 少しだけ、ほんの少しだけど、莉衣さんが僕に歩み寄ってくれた気がした。

 残り物を中心に二人分の夕飯を作り、莉衣さんの待つテーブルの上にそれを広げた。並んでいるのはごく一般的な家庭料理。野菜炒めに味噌汁、あとは昨日買った惣菜のコロッケの残りがあるだけ。一人暮らしが長いのでたまには台所に立つけれど、僕の腕前は特別達者ではない。

「美味しい! すっごい美味しいよ、これ! なんていうの?」

 それでも莉衣さんの舌には合ったらしく、どれもこれも気に入ってもらえた。正直言って友人達の中にもここまで言ってくれる人は居ない。

 しかし、こうなるとどっちが莉衣さんの素の表情なのか見当付かないが、こっちが素顔なのだと僕は思いたかった。

 彼女のことをもっと知る為に僕は少し自分から話を広げてみることにした。

「僕は伊勢忠明って言います。友達からは大体『アキ』って呼ばれてて、高校二年で歳は十七、休みの日は叔父のお店でバイトしてるか、大抵家のことに追われてます」

「ほうほう」

「それで、あなたは?」

 うむ。と一言間を置いて莉衣さんの自己紹介が始まった。

「私は……うん、『莉衣』って呼ばれてる。正確には本名じゃないんだけど、皆そう呼んでるからそう呼んで? 歳は君より少し上で二十一。趣味は読書で嫌いな物は……まぁ、いいや。そんな感じ」

「本名じゃないって一体どういう?」

「こらこら、あんまり突っ込んじゃいかん。これでも言葉を選んでるんだから。君が、アキが色々聞きたいのは解るけど、アキのことを守る為にも私から言えることは限られているんだ。それだけはきちんと理解してほしい」

 そう言ってそれ以上莉衣さんは自分のことを語らなかった。

 それからしばし二人での時間を過ごした。テレビの内容や読んだ本の話、僕の学校での出来事や友人とのやりとり。他愛の無い話が尽きることなく続いていく。

 誰かと過ごす夕食は楽しくて、あっという間に過ぎてしまう。それは今日出会ったばかりの素性の知れぬ女性が相手だったとしても同じことだった。

 家に帰ってからもう二時間以上が経っていた。

「もう『九時』過ぎかぁ」

「ふふ、早いね」

 僕らは並んでキッチンに立っていた。やっとのことで重い腰を上げて二人で洗い物を片付けている最中だ。皿を洗う彼女の手付きは、家事嫌いの僕から見ても、ちょっと覚束ない印象で少し親近感を覚えていた。

 シンクの中が残り少なくなると莉衣さんは「あとは一人でするよ。美味しいご飯のお礼」と笑顔で僕を追い出してくれた。

 僕はその言葉に甘えることにして彼女を一人残してリビングに戻った。

 ――彼女が出来たらこんな感じかなー。

 なんてついつい顔がにやけてしまう。しかも相当の美人。確かに得体の知れない人だけど、もしそうなら自慢が止まらないだろう。

 体をベッドに落とすと全身に疲れが圧し掛かってきた。緊張の糸が切れたみたいだった。小雨の中を人影に怯えながら走り回って疲れない訳が無い。

 五分だけ。莉衣さんが戻ってくるまでだから。そう思いながら僕は横になった。


 目を覚まして直ぐに僕はその異変に気付いた。

 ――暖かい。

 部屋の中は真っ暗で僕はベッドの上できちんと布団に包まれている。

 ゆっくりと立ち上がり電気を点けて部屋の中を再度見回す。そこには誰の姿も無かった。

 壁掛けの時計は『午後十時三十二分』を指している。

「一時間以上も寝てたのか……」

 はっとして家中を探して回った。キッチンに脱衣所・浴室・トイレ、それにベランダも。クローゼットの中さえも探した。

 でも、どこにも莉衣さんの姿は無かった。

 肩を落としながらリビングに戻ると、ベッドの直ぐ脇に一枚の紙が落ちていることに気が付いた。

 紙を拾い上げると、そこには莉衣さんからのメッセージが綴られていた。

『アキへ

 色々ありがとう。ご飯すっごく美味しかったよ。こんな形での出会いじゃなかったら君と友達になってもっと沢山の時間を過ごしたかったな。そう思えるくらい今日の君は素敵で、とても楽しい一日だった。

 君に全てを伝えることは出来ないけれど、私なんかが君のように素敵な人と過ごすことは許されないことで、いつか君を大きく傷付けてしまうことはきっと避けられない。

 この何日間かは凄く辛い思いばかりで、人に迷惑を掛けてばかりで、誰にも頼らず一人でいることが正しいことだと思っていたし事実そうして過ごしてきた。もう何もかもを諦めてしまえば楽になるんだって思いながら

 ありがとう。アキの優しさに甘えてしまって、そしてアキの優しさを傷付けてしまって本当にごめんなさい。

 いつか君は私のことを忘れてしまうと思うけれど、その日まで私のことを覚えていてくれたらすごく嬉しいよ。こんなこと思うなんて嘘みたいだけど、たった数時間の出会いでも、私にとって特別な瞬間ばかりだった。

 ねえ、アキ。最後に出会えたのが君で良かったと心からそう思うよ。

 ありがとう さようなら  莉衣』

 一枚の紙を埋め尽くす手紙を読み終えて、僕は外へ飛び出した。部屋の鍵も閉めずに廊下を駆け抜け階段を飛ばしながら下りていく。『最後に出会えたのが君で良かった』。その言葉が心の中を支配していた。

「莉衣さん……!」

 雨が降っている。彼女の声はおろか姿さえ見つからない。それでも何度も彼女の名前を呟いた。その度に冷たい雨が僕の声を掻き消しては孤独な静寂を返すばかり。

 立ち止まって考える時間なんて無い。今の彼女を救えるのはきっと僕しか居ない。何の根拠も無くそう信じて、僕は夜の雨の中へ身を投じた。

 夜の闇は誰かの存在を簡単に消してしまう。ただ目に見えないだけではなくて、ここには僕しかいないと、いとも簡単にそう思わせてしまうからだ。

 もしかしたら莉衣さんも同じ思いをしているかもしれない。夜の孤独、そして雨の静寂は誰の心にも入り込んでくる。その黒い光の先には何も存在せずに、ただひたすらに落ちていくだけ。心の中に開いた小さな穴がまるで無限に広がっていくかのように見えてくる。その穴に足を踏み入れる前に誰かが手を差し伸べなければ、彼女は落ちていく。今よりも深いところまで。 きっと今度はもう戻ってこられない。

 走り続けて十分は経っただろうか。前髪を伝った雨が頬を落ちていく。首筋がひやりとした。予想以上に雨が降っている。時折顔を拭わなければ額を通った雨が目を塞ぐこともあった。

 莉衣さんが行きそうな場所なんて一つも知らないし想像も付かない。もしかしたら彼女が出て行って既に一時間以上経っているかもしれないし、もう追いつけないのかも。もう間に合わないのかもしれない。

 雨に濡れた衣服が体にまとわり始める。雨水を吸って重たくなったそれらが重しや枷のように僕の動きを鈍らせる。肌と擦れる度に冷たくて、とてもじゃないが気持ちの良いものではない。時折来る体の震えが消耗を如実に表していた。

 それでも足を動かし続けた。

 当ても無く莉衣さんを探し続けている内に自然と僕はそこへと向かっていた。

 目の前の角を曲がればもう着くそこは今日三度目となるあの交差点。今朝莉衣さんとぶつかった最初の出会いの場所だった。

 どうしてだろうか。僕は彼女がここに来る気がしていた。ここにいればもう一度彼女と出会える。そう思いながら交差点で目を凝らして、ここへ向かう歩道の人影をじっと探した。しかし何台もの車が目の前を通り過ぎていく中で誰一人として姿を現さなかった。

 来るわけなかったんだ。おそらくもう少しで『午後十一時』だ。日付が変わるまでは諦めるつもりは無い。いや日付が変わったのなら朝を待ってまた探せば良い。まずは違う場所だ。歩ける限り探し続けよう。

 そう決意した時だった。

「アキ……?」

 雨音に混じって彼女の声が聴こえた。僕は直ぐに振り返り、彼女の元へと走った。

「莉衣さん!」

 莉衣さんも僕と同じで傘を差していなかった。全身が上から下まですっかりびしょ濡れだ。長い髪が数本頬にぺたりとくっついている。

「アキ……どうして?」

 彼女は困惑していた。たった数時間前に知り合ったばかりの僕がこうして追いかけてくるなんて少しも考えていなかったはずだ。

 それは僕自身も同じだった。ただ彼女に対して諦めきれない何かを感じていたのは確かだった。多分それは心の奥のほうにあって、本当は知っているのに知らない振りしているだけの何かが。

 すっかり雨で体が冷えている。莉衣さんを見つけた安堵からか、僕は途端に咳を堪えきれなくなった。

「だ、大丈夫?」

「莉衣さん。帰りましょう。早まっちゃ駄目です! 何があったか僕は知らないですけど、でも駄目です。僕が許しません!」

 そう言って僕は手を差し出した。

「僕にだって何か出来るって、そう思うんです」

 莉衣さんは微笑むと僕の右手をそっとその両手で包んだ。

「アキは優しいね、ほんと。感動しちゃうよ。でもね駄目なんだ。アキと一緒にいたらアキのことを傷付けちゃうからさ」

「傷付きません、強いですから」

「……ありがとう」

「じゃ、じゃあ今日は――」

「でも終わらせなきゃいけないんだ。これ以上、私は誰かを傷付けることも、失うことも耐え切れないよ。ただ生きているだけで、私は多くを奪いすぎる。きっと君のことも……」

 涙は見えないのに僕は莉衣さんが泣いているような気がした。

「じゃあ、それじゃあ僕から奪ってください。僕を、沢山傷付けてください。きっと耐えてみせます。そしたら全部解決です、きっと」

 僕は笑った。そういえば莉衣さんの前でちゃんと笑ったのってこれが初めてかもしれない。

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