紳士と少女
車を降りて、私は直ぐに大きく息を吸いこんだ。
狭い飛行機の座席に何十時間も座り続け、やっと着いたと思いきや車に乗り。まだ子供に分類されるであろう年の私には退屈すぎたのだ。
母曰く、十年ぶりに来たヴェネチアの町はすっかり変わっているらしい。隣にいる父も昔を懐かしんでいるのか、目を閉じ静かに頷いていた。当の私はそんなこと一つも覚えていない。十年前の私はまだ六歳ぐらいだったので覚えてるはずもないが。
いや、一つだけ覚えていることがある。私はその為だけにこのイタリア旅行に同行したのだ。
チラリと手に持った鞄を見る。パンパンに膨らんだそれには、旅行に必要なものの他にあるものが入ってた。それは……
「ぼさっとしてないで早くホテル行くわよ!」
「え、うん」
唐突に話しかけられ振り向いてみれば、両親が呆れた顔でこちらを見ていた。せっかちなのかそれともただ疲れているだけなのか知らないが、早くホテルに行きたいようだ。
私は鞄を強く握り直して、駆け足で両親の元へと向かった。
* * *
ぼんやりと霞む視界の中、まだ幼い頃の私にあの人が微笑みかける。日に透ける金髪がさらりと流れる様は、私を惹きつけるのに十分だった。
(……これは、夢だ)
そう自分に言い聞かせゆるゆると首を振る。それに合わせてあの人は霧のように空中に消えていった。が、それで終わりではなかった。
場面が切り替わり、十年前に訪れた古城の廊下へとかわる。宵に包まれたその場所は、人影はなくただ長い廊下が暗闇へと伸びているだけ。その中に、幼い私が今にも泣きそうな顔で立っていた。両親とはぐれ、どんなに呼んでも声が反響するだけで。
そんな私に声をかけてくれたのがあの人だった。
「どうか、したんですか?」
「……?」
「もしかして、迷子なんですか?」
「うん……」
「それはそれは……。こんな場所に一人で心細かったでしょう、もう大丈夫ですからね」
そう言って優雅に微笑むと、その人は私の手を握り廊下を歩き始めた。まるで壊れ物でも扱うようにそっと握られたそれは冷たいようで暖かくて、とても心地よかった。
「長年ここにいると、貴方みたいな迷子をよくみかけるんですよね」
困った様に笑うあの人の話を聞く限り、どうやらこの城に住んでいるようだった。観光名所となったこの城だが、今でも一族は滅びずここに住んでいて、公開されているのはほんの一部らしい。
「あ、見えてきましたよ」
指さされた方を見ると、そこはエントランスだった。どうやら、私が迷っていたあの廊下はエントランスのすぐ近くだったようだ。
そんな事にも気付かないなんて、と顔が少し熱くなる。
でも、あの人は気にせず私に笑いかけた。
「あちらにいるの、もしかしてご両親ですか?」
コクリ、と頷く。両親はまだ私に気づいていないらしい。
心配そうに右往左往する両親を尻目に、私はあの人のシャツの裾をギュッと掴んだ。
「あの、また会えますか?」
俯いていた上に小声でボソボソと喋った為、非常に聞き取りづらかっただろう。
それでも、あの人は私の大好きな笑顔を浮かべ、言った。
「――貴方、次第ですよ」
* * *
チチチ、という鳥の声で私は目を覚ました。寝起き特有のボーッとする思考に鞭を打つように頬を叩き、記憶をたどる。旅の疲れがでたのか、どうやら私はホテルについてすぐ眠ってしまったようだ。
ベッドのすぐ横に置いてある鞄へと手を伸ばす。
今日、また、あの古城に行く。その事を確かめるように、ゆっくりと私はそれを取り出す。
銀色にうっすらと光る、ナイフを。
この旅行が終わったら、またあの人には会えなくなる。もう一度会いにいくこともできるが、それが叶うまでの時間も惜しい。それに、あの人にはもう大切な人がいるかもしれない……
考えるだけ気が狂いそうだ。
この十年間、ずっとあの人だけを愛していた。
いつだったか、殺したいぐらいに好きになっていた。
今日、やっと望みが叶う!
「ふふ……」
自然と笑みがこぼれた。
親が起きるまで待てない。
私はテーブルの上に書き置きを残し、足取り軽く古城へと出向いた。
* * *
あの時と同じく、私は薄暗い廊下に一人で立っていた。
結局、一日古城を見て回ってもあの人に会う事はなかった。
ここにいれば会えるかも、なんてわずかな期待を胸に今この場にいるのだが、それもダメなようだ。かれこれ30分ほどここにいるが、あの人どころか人が全く通らない。
あと10分もすれば古城の公開時間も終わってしまう。でも、明日ここにくる余裕なんてない。
つまり、私の望みは結局叶わなかったのだ。
諦めて帰ろうと踵を返した時、壁の間から光が漏れていることに気がついた。
近づいてよく見れば、それは壁ではなく扉だった。しかし、まわりの壁と模様が全く同じな為、気づく人はあまりいないであろう。
そっと押せば、扉はキィ、と小さな音をたてて開いた。そして、私は息を飲んだ。
そこには、あの人の肖像画が飾ってあったのだ。
すぐさま走りより、その肖像画をまじまじと見た。
そこには、記憶の中と全く同じ顔で笑っているあの人が描かれていた。
間違いない、これは私が好きになったあの笑顔だ。
横のプレートにはこう書かれていた。
『リネス・メフィーカ 没XXXX年』
時が止まったような気がした。
だってそこにかかれていた年は、あの人と出会うよりも100年以上前で……
つまり、あれは……?
「お嬢ちゃん、そろそろ門閉じちゃうよ」
不意に声をかけられ肩がびくりと跳ねる。振り向けば、後ろに日本人の警備員が立っていた。ここの観光客は日本人が多いらしいからなんら疑問は抱かない。
肖像画を見つめたままでいると、ため息が聞こえた。
「ほら、早く出なさい」
「……だけ」
「ん?」
「あと…五分だけ」
再びため息が聞こえたあと、扉の閉まる音がした。
数秒立ってから、私は小さな鞄からナイフを取り出し自らの首元に当て
思いっきり、引き裂いた。
次の瞬間、強烈な痛みと眠気が襲ってきた。ガクリと力が抜け、その場に崩れ落ちる。首元からは夥しい量の血液があふれ出して流れていった。
薄れていく意識、霞んでいく視界。力の入らない体を叱咤して必死に肖像画へと手を伸ばす。
私の血を浴びても笑顔のままのあの人は、なんだかとても綺麗だった。
「私も……そっちに…………!」
そこで意識が途切れた。
* * *
カタリ、と人形の首が外れ落ちた。
それは昔であった日本人の少女をモデルに作ったもので、私の一番のお気に入りだ。
まだ小さいながらも、意志のしっかりした目は今でも覚えている。それに、あまり見かけたことがない綺麗な黒髪黒目も相まって印象深かった。
床にまで転げおちた首を拾い上げ、撫でながらつぶやく。
「どうして突然……?」
長年この隠れ部屋に住み着き、たまに城に出て迷子を案内したり、人形を作ってきたが首がとれた事なんて初めてだ。
そっと、首を元の人形が置いてあった棚に戻す。その時、びゅう、と風が吹いた。
「リネス、さん?」
「!?」
突然締め切った部屋に来た風にも驚いたが、それより聞こえてきた声に驚いた。
振り向けば、そこには少女が笑顔で立っていた。その少女がいつかの日本人と重なる。
明確な証拠はないが、私は確信した。この少女はあの時の少女だと。
しかし、どうやってここに?隠し部屋なのだから簡単に見つかる事はないだろうし、それに扉を開ける音もしなかった。
が、その疑問は少女をよく見れば分かった。
体が透けていたのだ。
「どうして、ここに?」
まさか、彼女が自分を覚えているはずがない。一緒にいた時間は30分もなかったのだから。
「あなたに、会いにきたんです」
だが、私の予想は簡単に外れた。
クスクスと笑いながら彼女が近づいてくる。
「この十年、私はあなたのことを忘れた事は一度もなかったんです」
「あの日、私はあなたに恋をしたから」
「ずっと、ずぅっと会いたくて、やっとまた来れたんです」
「でも、あの時のあなたがまさか幽霊だなんて……」
「それに対する私の答えは『自殺』でした。あなたのいない世界で生きるなら、死んであなたと過ごす方が私には幸せなんです」
す、と彼女の手が私の頬に触れる。
一番のお気に入りの少女が、私の事をずっと思っていてくれたなんて……
そして、私の為に自らの命を……
片方は嬉しいことだが、もう片方は恐ろしい。思わず顔が引き攣ると、少女は笑みを濃くして言った。
「やっと伝えられる……私はあなたのことが好きです。とても、とても……」
とうに枯れたと思っていた涙が、頬を伝った気がした。
なんで言葉通じてるのとかつっこまないでください……。
ちなみに、紳士さんのモデルは某音ゲーの幽霊紳士です。