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終末世界で「好き」と言っていいですか?

作者: 細指連理
掲載日:2026/08/10

『ゾンビ・アポカリプス』の世界──


無限増殖するゾンビに、世界は終焉の時を迎えていた。そんな中、少女は僅かな生存者と共に校舎に籠城する。だが、所詮彼女も弱い存在でしかなかった。


《登場人物》

『臼井』:主人公の女子高生。『池澤』:イケメンの男子高校生。

『勝木』:身勝手な女子高生。『千堂』:ワイルドな男子高校生。

それはよくある話で──


イケメン同級生の『池澤』くんを好きになった。


理由は優しくて顔が良いから。中性的な顔つきは、何をしていたって絵になった。女子の中にいても不自然さはなく、むしろ男子の中では綺麗すぎて浮いてしまうくらい。それが私の主観ではなく客観的な事実だという証拠は、他校から女子生徒がわざわざ見に来るほど──、と言えば根拠になるだろうか。


彼を好きになるキッカケはあった。


ただ実のところ、これまであまり意識もしていなかった。女子にチヤホヤとされるのを見て、また何かしているなぁと。その程度で。それこそ、そこに綺麗な絵が飾ってあるだとか、画面の向こうで芸能人が笑っているだとか。そういう感覚と同じで。だから、正直に言えば、そんな彼を好きになるとは到底思いもしなかった。


なぜなら、自分は陰の者。


教室の隅っこで小さくなっているタイプで、居ても居なくても大して変わらない。人より優れているものもないし、鏡を見る度に劣等感に苛まれる。所詮彼とは身分が違う──、なんて思ってしまうのだ。だから、私に出来るのは僅かに彼を覗き見ることぐらいで。目の端に映る彼の姿だけが唯一の慰めだった。


そうして今も、夕方の陽の光の中の彼を見ていた。


(ああ、やっぱりカッコイイなぁ……)


だが、今、私の目に映る彼は、目の端に映る朧げな影などではない。


はっきりくっきりと真正面にその姿をすべて捉えていたのだ。綺麗な横顔に夕陽が陰影を落とし、高い鼻と薄い唇が光を帯びる。その光景は、まるで一枚の絵画のようで。私はつい、そんな彼にボーッと見とれてしまっていたのだ。


「大丈夫、臼井さん?」


驚くことに、そんな彼が私に手を差し伸べてきたのだ。その仕草すらも、何かしらの美術的な作品のように思えてしまうほどだった。


「うん、あ、ありがとう。池澤くん」


陰キャの自分など、決して言葉も交わせないと思っていたのに──


(あっ)


不用意に彼の手に触れてしまい、思わずハッとしてしまう。


遠くで見ていた時は白くしなやかで、随分と華奢に見えていたのに。いざ触れてみると案外がっしりと大きく、なめらかな肌であっても十分に男性の手だと分かる。そんな手でグッと握り返され、私は強い力で引き起こされて立ち上がった。その上、彼は私の制服のスカートについた埃を、パッパッと掌で払ってくれた。なんという至れり尽くせりだろうか。


「怪我はない?」

「うん、大丈夫……」


気にかけてくれる声。


そんな何気ない言葉すら心地良い。彼の声には何か魔法でもかけられているのか、低く優しい音にも拘わらず、私の心臓は鼓動が早まってしまう。


そこは学校の廊下──


彼は尻餅をついた私を起こしただけ。


ただそれだけなのに、まるで他のすべてが止まってしまったように、私と彼の刻だけがゆっくりと進む錯覚に陥る。そして、彼の手のぬくもりだけがじわりと伝わってくるのだ。


(ああ、こんな瞬間が来るなんて! 彼が私を見ている! 今がずっと続けばいいのに! ああ、好き! もう死んでもいいって思えるくらい、好きっ!)



──だが、そんな二人の刹那を切り裂くような声が響く。


「おい、なにやってるっ!? 早く逃げろって!」


それは必死な声だった。


「まずいぞっ! アイツら入ってくる! こ、これ以上は──」


クラスメイトの粗野な男子『千堂』くん。その彼ががなるように叫んでいた。そして、すぐさまガシャンと廊下の窓ガラスが割れてしまった。ガラスは廊下の中へと放射状に散乱する。


「ウボォォォォォォォォォォォォォォ」


不快な唸り声。


それは招かざる客。何十匹ものそれが学校の外から廊下へと殺到していたのだ。見た目はヒト──、だが、あきらかにヒトではないもの。その顔にはすでに生気は無く、顔も手もドロリと溶けて崩れている。四肢が欠損していても血が噴き出す様子もない。恐らく、とっくに乾いてしまっているのだろう。纏う衣服も薄汚れてズタボロだった。


そして、何よりその異臭。


その鼻も曲がってしまいそうな悪臭のせいで、それらが近くにいればすぐに分かる。着たきりの衣服も臭うのだろうが、なによりその腐り落ちた身体から臭っているのはあきらかだった。


「さぁ、臼井さん。こっちだよ」

「うん!」


私は池澤くんに手を引かれて駆け出した。


彼の声はこんな時でも優しかった。だが、それでも余裕はないのだろう。私の手を引きながらも歩幅にまでは気が回せない。おかげで、私は転ばないようについていくのに必死だった。


他にも数人の生徒が逃げ惑う中、千堂くんがまた叫んだ。


「二階のバリケード奥まで退避するぞっ!」


それは周囲への呼びかけだった。辺りに居た生徒は、迷うことなく彼の言う通りにバリケードまで退避していく。


「急げっ! まだまだアイツらが──、ゾンビが来るぞっ!」


そう、それらは『ゾンビ』と呼ばれるもの──


いわゆる『動く死体』であり、それらはなぜか生者目掛けて襲ってくるのだ。どうしてそんなものが発生したのかは分からない。分かることと言えば、突如群れをなして学校へ襲来したこと。そして、世界はゾンビの群れに為す術も無く、すでに蹂躙されてしまったということだった。





「ハァハァ──」


私は肩を上下させていた。


必死で呼吸を整えようとするも、すぐには落ち着くことが出来ない。それでも誰一人欠けることなく、全員がバリケード内へ逃げ延びることが出来たのは本当に幸運だった。


他の人たちも同様に息を切らしているのが見える。あの千堂くんにしても、だらりと床で仰向けになっているほどだ。たしか彼は運動部のはずだが、切迫した状況で必要以上に消耗していたのかもしれない。


現在、ここは安全な区域──


一階への階段にあるバリケードが、今のところゾンビの侵入をなんとか防いでくれている。机や椅子を積んだだけの急造のものだが、今のところ問題はない。もしもゾンビに知能があれば簡単に突破されるのだろうが、奴らに出来るのは唸り声をあげることだけだった。


生存者はここにいる僅か十数名。


実は様々な要因が重なって、私たちはここで籠城を余儀なくされてしまっていたのだ。しかも、全員が同じクラスのクラスメイトという状況。たとえば、陽キャの千堂くんなら全員見知った仲なのだろう。だが、私にとっては殆ど喋ったことのない人たちばかりだった。


「誰か噛まれた奴はいねぇか⁉」


千堂くんはそう言って見渡してから、ふぅとようやく胸を撫で下ろす。


「食料、早めに上に移しておいて正解だったな。一階はもうダメだ。あれじゃ使い物になんねぇぞ。そもそも学校ってのは、無駄な開口部が多過ぎなんだよ……」

「痛っ!」

「あ?」


私はもう少し慎重になるべきだった。


不意の膝の痛みに、つい声を発してしまったのだ。分かっていれば、我慢も出来たのだろう。だが、この時は一瞬の気の緩みのせいか、不用意に声が出てしまった。


「おい! オマエ、まさかその怪我、噛まれたのかっ⁉」

「いや、あの、これは──」


千堂くんの目──、それは『同級生』を見る視線ではない。


完全に違うものが映っている。要するに今すぐ廃除しなくていけない、ウイルスに感染したゾンビ予備軍──、彼にとって私はもう『ヒト』ではなかったのだ。


「おい、今すぐコイツを──」

「痛いっ! やめてっ!」


彼は無理やりに私の手を引っ張った。このままバリケードの外へ連れていくつもりだ。もしくは、屋上から突き落とすつもりだろうか。


──だが、その時。あの優しい声がその手を遮った。


「その手を放せ。乱暴はやめてくれ」


私を庇ってくれたのは、池澤くんだった。


「この傷は違う。転んでついたものだよ。ボクが傍で見ていたから間違いない」

「関係ない! 傷口から奴らのウイルスが侵入しているかもしれないだろうが!」

「待てって。今までの感染状況から見て、感染は噛まれたり引っ掻かれたりした時じゃないか? つまり、唾液や体液に触れなければ問題ないはずだ」

「そんなのわかんねぇだろ! テメェはいつからゾンビ学者になったんだ! 絶対空気に漂って──」

「いや。もしも空気感染するのなら、ボクらだってとっくにアウトだよ。なにも傷口に限った話じゃない。口や鼻からだって吸収されてしまうんじゃないか?」


空気感染──


それだけはしない、そのはずなのだ。


二人の口論は周囲の生徒らも見守っていた。だが、空気感染するとなれば、ここにいる全員がすでに感染していることになる。それが事実かどうかは分からない。だが、その事実だけは決して認めるわけにいかなかった。


「池澤、そいつのせいで何かあったら、お前のせいだからな。責任取れよな」

「ああ、その時は責任取るさ。隔離するなり、突き落とすなり好きにしてくれ。で、もういいか?」

「チッ!」


千堂くんは舌打ちをして去っていったが、他の生徒だって決して他人事ではない。皆、精神的に不安定で、いつこうして取り乱してしまうか分からないのだ。


「ありがとう、池澤くん」

「臼井さん、悪く思わないでね。千堂、アイツ、普段はあんな感じじゃないんだけどな。こんな状況だ。アイツもピリピリしているんだろう。──それより手当しようか。それ、そのままにしない方がいい」


そう、これはフィクションではよくあるシチュエーション──


いわゆる『ゾンビ・アポカリプス』。


街中に溢れたゾンビが人々を襲って爆発的にその数を増やしていく。そんな映画のような災厄が本当に起こってしまった。果たしてこれが自然発生なのか、それとも某研究所から漏洩したウイルスなのか。もしくは、人類以外の何者かによる作為的な何かであったり、隕石に含まれた原始的な何かなのか。


──と、原因は何かしらあるのだろう。だが、実のところ、私たちにとってそんなことはどうでも良くて。こうした切迫した状況下では、どう生き残るかという直近の問題の方がよほど大事だった。たとえば特効薬のようなものがあったとしても、どうせすぐにどうこうできるものでもないのだから。


結局、崩壊する文明を目の当たりにしながら、ただ逃げ惑うしかなかったのだ。





「さぁ、手当は終わり。これで化膿しないとは思うんだけど」


擦りむいた右の膝小僧は、思いの外大きな傷だった。


スカート姿では素足がむき出しで、転べば当然こういう怪我をする。特に場が混乱し、校内には物が雑多に散乱していると、転んだだけでそれなりにダメージを受けてしまうのだ。そもそも転んだのだって、誰かがそこに置きっぱなしにしたモップのせいなのだから。


「ありがとう、池澤くん。や、優しいんだね……」

「いや。ボクはこんなことぐらいしか出来ないから」


優しい。


心までなんとイケメンなことか。おかげで、ぼーっと熱に浮かされたように見つめてしまう。だが、彼の視線に気が付き、ハッと慌てて目線を逸らした。


「さて。ボクは少し周囲を見てくるよ。キミはこの教室で休んでいて。とりあえず、この二階は今のところ安全なはずだから」

「うん……、気をつけてね」


部屋を出ていく彼の背を見ながら、私はすでに後悔していた。


実は、怪我は歩行に支障が出るほどではない。ただ何というか私は『華奢な女の子』を無意識に演じてしまっていたようで。つい言う通りに休むという選択をしてしまった。本当は付いていきたかったのに。


「ハァ……」


この時、私は既にゾンビウイルスとは全く別のものに侵されていた。


それは要するに、片思いや恋愛脳という不治の病だ。ゾンビだとか、そいった些末なことはすでにどうでもよくて。目の前の彼の素敵さにただただ圧倒されてしまっていたのだ。


(そういえば、どうして好きになったんだっけ。あれって……)


そんな風にフワフワとした定まらない思考に漂っていると──


「ブス井ぃ~?」

「ひっ⁉」

「なぁ、ブス井ぃ? オマエ、オマエよぉ? なんか馴れ馴れしくね?」


そこに居たのは三人の女子──


クラスのいわゆる一軍女子たちだ。私の苗字である『臼井』をもじって『ブス井』と呼ぶのは、クラスでもこの三人だけだった。そして、この言いがかりも、その不機嫌な顔を見ればすぐに何のことかは理解できた。


「聞こえてんのかぁ? ああ? ブス井ぃ?」

「えっと、か、勝木さん。わ、私、けっ、怪我して、──痛っ⁉」


蹴りが飛んできた。


しかも、あろうことか先ほど彼が手当してくれた右膝に、だ。一体どういう神経をしていたら、怪我した場所に蹴りを入れるという暴挙に及ぶことが出来るのだろうか。要するに彼女らは頭がおかしいのだ。特にこのグループの中心人物である彼女──、『勝木』という女子は私のことをいつも目の敵にしていた。


「それ。池澤くんがしてくれたんだろ? ほら、取れよ。いますぐ!」

「えっ、な、なんで……?」

「なんでって。そんなことも分かんねぇの? これだから馬鹿はよぉ。ああ、嫌だ嫌だ」

「わ、私、怪我して……」

「うるせぇな! 早く取れって言ってんだろがっ!」

「いや! やめてっ!」


彼がこの場にいないことをいいことに、女どもは三人で寄ってたかって私を押さえつけた。そして、私の膝の包帯をはぎ取ってしまい、血の滲んだガーゼもポトリと落ちた。その上、勝木はその包帯は上履きで踏みつけにする。


「こんなものっ!」

「やめてよ! どうしてそんなことするの⁉」

「はぁ? どうしてって? 池澤くんはウチの彼氏だからに決まってんだろ!」

「え?」

「そう、ウチね、嫉妬深いんだわ。自分の彼氏が他の──、しかもよりによってブス井だなんて。ああ、キモイキモイ。ウチの彼氏に色目使ってんじゃねぇぞ! ブス井のくせによぉ!」

「そんなの、彼に直接言ったら──、ぎゃっ⁉」


また蹴りが飛んできた。


しかも、押さえつけられているせいで、まったく避けられなかった。顔面を踏みつけるようにぐしゃりと入ったそれは、表面が柔らかいゴムではあっても、十分に痛みを伴うものだった。


「あっ……」


鼻の下から何かが落ちる感覚──


ぽたり……、ぽたり……、と。スカートに真っ赤なシミを作っていく。ひとつ落ちる度にそれは致命的な模様となり、止めどなく一張羅のスカートを汚していった。


「うわっ! 汚ねぇ! コイツ、鼻血出しやがった!」

「うわっ、きっしょ!」


女どもは好き勝手にそう言って、ようやく私を押さえつけていた手を離した。


「分かったか、ブス井ぃ? ウチの彼氏にもう近付くなよ? なぁ聞いてんのかブス井ぃ? オマエ、ブスのくせによぉ、キモいんだよ、馬ぁ鹿!」


私は、咄嗟に両手で鼻を押さえた。


だが、鼻血はボタボタと落ちるばかりで一向に止まる気配もない。その間もスカートには血は落ち続けている。


(くだらない! なんで⁉ なんで、こんな目に遭わなくちゃいけないの⁉ 彼氏!? 彼女!? そんなの知らない! そんなの言ってくれなきゃ分かんないじゃん! っていうか、包帯巻いてもらっただけで、なんで蹴られなきゃいけないの!?)


スカートだけではなく、シャツだってもう血塗れだった。


(もぉ、やだぁ……、やだぁ……)


親が買ってくれた制服だった。


成長するかもしれないからと、少し大きめのサイズを買ったのに。ここまで汚れてしまったら、きっとクリーニングでだって元には戻せない。尤もこんな世界ではクリーニング屋だって廃業しているだろうが。


「なんとか言えよ! このブス!」


こんな世界だ。親だってもうとっくに──


(ママが……、ママが買ってくれたのに……)


くやしくて涙が出た。それでも、歯を食いしばって涙が出ないように堪える。だが、力めば力むほどに、自分の情けなさに、どんどん涙が溢れてきてしまう。


もう自分ではどうにも出来ない。


「うわっ、コイツ。泣いてんじゃん、きっしょ!」


──だが、その時。


ガラッと扉が開く音がした。


「あれ? 勝木さん?」

「あっ、池澤くぅん!」

「ん? 臼井さん? なに、どうかしたの?」


入ってきたのは池澤くんだった。


だが、彼の登場は私にとって救いではなく、惨めさを更に上塗りするだけで。彼がこの嫌な女の彼氏というのなら、自分はただ滑稽なピエロでしかない。


私は、反射的に彼のいる方とは逆の扉へと走っていった。


「臼井さんっ!」


池澤くんが呼んでも、私は振り返りもせずに廊下へ出てそのまま逃げた。


(こんな顔見られたくない……)


鼻血が止まらない。


必死で鼻を押さえていたが、指の隙間からいくらでも零れ落ちていく。廊下も汚してしまっているかもしれない。けれど、そんなことを気にする余裕も無かった。私はただただ彼から逃げたかったのだ。


さっきまで──


あんなに幸せな気持ちだったのに。


あんなに夢のようだったのに。


「う……、うう……」


泣いたら負けだ。


──そう思っているのに。分かっているのに。涙が止められない。


少し離れた場所にある女子トイレへと駆け込んだ。そして、洗面台の上に血を落とす。蛇口をひねると水が出てきた。まだ綺麗な水だった。それが私の惨めな血を穴の中へと吸い込んでいった。


だが、血は止まらない。ポタッポタッといつまでも零れ落ちる。


「ひっ……、きひっ……、ひっ、うぇ……、うぇぇぇぇぇ……」


もう止められなかった。血と一緒にポタポタと熱い雫も落ちていく。


「帰りだい……、家に、帰りだい……、帰りだいよぉ……、ママ……、ママぁ……」


ママとは仲が良かった──


まるで姉妹のようだ、なんて言われるくらいに。嬉しそうなママを見て、ハァと溜め息を吐きながらも姉妹ごっこに付き合う。面倒だけど、心の底ではそんなに嫌ではなかったのも事実だ。


ただもう──、この世には居ないだろう。


なんとなく、そう思ってしまっていた。信じることは希望であるが、同時にそれは身を滅ぼす呪いにもなる。だから、私は早々に希望を捨て、生きるためにそれ以外は切り捨てていた。所詮弱い自分には誰も助けられないのだから。


精々私に出来ることと言えば──


「うっ……、うう……、ひっく……」


下を向いて、雫を落とすことだけだった。





なぜ、彼のことを好きになったのか──


あまり大したことではなかったような。それこそ日常のふとした何気ない言葉で。


あの時、勝木を含むクラスのカースト上位の男女に何かを言われたのは覚えている。ただ『何か』と曖昧なのは、そもそも私はその会話に参加すらしていなかったせいだ。


「ねぇ、そうだよねぇ? 臼井ってトロそうだし」


その時の私は意味も分からず、「へへっ」とヘラヘラと愛想笑いをするしかなく。なんとも間抜けな顔でただ誤魔化したのだ。勝木が投げかけたその言葉は、明らかに私を貶める内容だったというのに、だ。


だが、その時、それに対して池澤くんが口を開いた。


「臼井さんに失礼じゃないかな。それに臼井さんって、運動そんなに苦手じゃないよね?」

「え? あ、ああ、うん……」


私は何のことかは分からないままにそう答えた。


話の内容は結局分からないのだが、とにかく彼が何らかのフォローをしてくれたことは理解できていた。しかも、池澤くんは近くにはいたものの、その時はそのグループの会話には参加していなかったのだ。つまり、わざわざフォローのために割って入ってくれたのだ。


それからだった──、なんとなく彼を意識するようになったのは。


それまでは『決して自分とは交わることのない顔の良い人』程度の感覚だったのだが。気が付けば目で追ってしまっていたことを自覚し、ようやく私は彼にそういう気持ちを持っていることを知った。


──私は、トイレからの帰りにそんなことを思い出していた。


トイレットペーパーを鼻に詰めて血は止まったものの、シャツもスカートも血塗れだった。制服の替えなんてあるわけがなく、運悪く体育の無い日にこの騒動が起きたためにジャージも無い。ゾンビ騒ぎで皆薄汚れた格好をしているとはいえ、ここまで汚れている格好は自分だけだろう。


(ああ、嫌だ……、なんてひどい格好……)


廊下の大鏡に自分のみっともない姿が映ると、すべてを放り出して逃げ出したくなった。だが、一体どこへ逃げればいいというのか。バリケードの外はゾンビだらけだというのに。


「あっ、いた」


その時、声がした。


それは、今一番聞きたくない声──、あの魔法でもかかっているような、低く優しい音。振り返ると、そこには彼が立っていた。


「池澤くん……」

「臼井さん、探したよ。急に走っていっちゃうから──、って、うわっ! なに、どうしたのそれ⁉」


こんな惨めな姿を、一番見られたくない人に見られてしまった。慌てる彼の声を聴いて、もう枯れるほど泣いたというのに、また目頭がジワリと熱くなってしまう。


「えっと……、これはその……、違っ……」

「大丈夫? どこか怪我したの?」

「あ、いや、鼻血で……」

「鼻血? えっと、それはどうしたら──」

「ああ、もう止まったから」

「そ、そうか。あっ、そうだ。着替え、ある?」

「無い……」


素直に答えた。


正直に言えば、彼が来てくれたことは嬉しかった。しかも、自分を探してくれていたというのだ。本来であれば、飛び上がる程に喜んでしまうような話だ。


いっそのこと、嫌いになってしまいたかった。


アンタの彼女にやられたんだよ、と怒鳴りつけてやりたい。だが、見られたくないという気持ちと、嬉しいという気持ちだけで埋め尽くされ、私の心はなんだかぐちゃぐちゃになってしまっていた。


「ボクのジャージ、貸してあげるよ」

「え」

「サイズ大きいと思うけど、腰ひもあるから大丈夫かな。長いのは捲ればいいし。とにかく、着替えた方が良いと思う」

「でも、そんなことしたら、また彼女が怒るよ……?」


池澤くんは、思いもしないような素っ頓狂な声を出す。


「へ? か、彼女?」

「池澤くんと一緒だと、あの人がまた──」

「あの人? えっ、なに、どういうこと……? 誰のことを言っているの?」





「どういうことなんだ、勝木さん」


池澤くんは私を連れて教室へと戻った。


そして、そこにいた勝木のグループへと声をかけたのだ。その声は、いつもの低く優しい音ではない。微かに怒気を孕んだ、明らかに苛立った音だった。


「ボクがいつ、キミの彼氏になったって?」


勝木は問い詰められ、明らかに不機嫌そうな表情を浮かべた。猫被りはもう諦めたのか、本当の顔が現れ始める──、あの厚顔無恥で厭味ったらしい顔が。


「チッ、ブス井ぃ……? アンタさぁ、告げ口したんだぁ? この卑怯者」

「卑怯者はキミの方だろ? ありもしないことで難癖付けて。その上、彼女にこんな暴力まで振るって。どうかしているよ」

「いいじゃん。付き合うのだって時間の問題だったんだし。ウチと池澤くん、美男美女でバランス良いし。池澤くんだって本当はウチのこと好きっしょ?」

「どうしてそうなるんだ。はっきりは言ってなかったけど、以前からキミのことは苦手だったよ。あまりにも幼稚過ぎるんだ、キミは」

「はっ? はぁ? よ、幼稚ぃ⁉ 何言って──」

「平気で人を馬鹿にするし、思い通りにならないとすぐに癇癪を起す。臼井さんへの呼び方もそうだよ。失礼過ぎる。相手がどう感じるとか、そういうことにまるで考えが至らない。まさに幼稚じゃないか」

「なっ!? ブ、ブス井はブス井でしょ! 見たまんまじゃん! ウチが構ってやってんだから、有難く思ってるよなぁ、ブス井ぃ? なぁ⁉」


急に話を振られたものの、私は声を発することが出来なかった。


怖い──、と思ってしまったのだ。


彼女はたしかに美形だ。目鼻立ちのはっきりした顔で、するりと鼻筋だって綺麗なラインだ。二重の目も、薄い唇も、すっきりとした顎のラインも、小顔も、モデルのようなスタイルだって。何一つ私は勝てないだろう。


だが、今の彼女の顔はあまりにも醜悪だった。


内側の醜いドロドロとした悪意が、皮膚の内側から滲み出してきたような。怖気が走るような、そういう顔だったのだ。そして、そう感じていたのは私だけではなかった。池澤くんも同じように、猫被りの内側にある彼女の本質を見抜いていた。


「だから、その呼び方をやめろと言っているんだ。だからだよ、以前キミに付き合ってもいい、なんて言われたけど断ったのは。やんわりとだったけど、もっとはっきり言うべきだったかな」

「はぁ? なっ、何言っての? 馬っ鹿じゃない⁉ ウチ、全然付き合ってなんて言ってないけど⁉ ちょっと顔がいいからって自意識過剰なんじゃない⁉ キモッ! アンタ、キモ過ぎっ!」


二人は完全に口論を始めてしまっていた。


だが、その口調はあまりにも対照的だ。理性的で諭すような池澤くんに対して、勝木の方は感情的で正に癇癪を起していてほぼ暴言だった。


「おい、何をしてんだ!?」


その時、ガラッと扉が開いて男子が入ってきた。


見回りを終えて帰ってきた千堂くんだった。その場にいた全員をぐるりと見た後、ハァと深い溜息を吐いた。


「おいおい。何か揉めてんのか? 廊下まで聞こえてたぞ。どうせ戦うなら、せめてゾンビと戦ってくれや」

「千堂くん! コイツがっ! 池澤が、ウチに乱暴しようとしたのっ!」

「は?」


勝木は明らかな嘘を吐いた。


だが、千堂くんは決してそれを鵜呑みにはしなかった。再びハァと溜め息を吐いて、どうしたものかという風に腕を組んで口をつぐんでしまった。池澤くんも、千堂くんのその様子から弁解の必要もないことを理解する。そして、千堂くんと同じようにハァと深い溜息を吐いた。


「千堂、悪いな。なんか」

「いや。面倒事は御免だが、さてどうするか──」

「なに二人でコソコソやってんのさ! だから、池澤がウチに──」

「勝木。オマエね、そういう嘘は良くねぇよ。全く……、自分の好きにならないからって。マジでどうしようもねぇな、オマエ。ゾンビだなんだと、このクッソ忙しい時によぉ。勘弁してくれ」

「ア、アンタまでそういうこと言うわけ⁉ もういい!」

「あっ、おい! 逃げ──」

「放っておいて!」

「違う、逃げんなって言ってんだ!」

「死ねっ! アンタらなんか、みんな死んじゃえばいいんだっ!」


勝木はそう吐き捨てると、バンッと力任せに扉を閉めて教室を出て行ってしまう。取り巻きの女子二人も、どうしたら良いのか不安げな顔を見合わせていた。


「ああもう、何なんだアイツはよぉ。めんどくせぇぇぇ」

「悪いな、千堂。追いかけた方がいいかな」

「池澤、オマエはお人好しなんだよ。放っとけ放っとけ。つかアイツ、自分が裸の王様なの、マジで気付いてなかったんだな。まぁ、これは池澤がはっきり言わねぇからだな」

「なんでボクのせいになるんだ」

「勝木は面食いだからよ。俺なんかと違って、池澤の前じゃあからさまに態度変えてたからな。──って、おい。臼井、オマエなんでそんな血塗れなんだ? まさかゾンビ──」

「違うって。勝木さんがやったみたいなんだよ」

「勝木が? あ、ああ……、そりゃあ災難だったな……」

「臼井さん、ちょっと待ってて。今、ボクのジャージ、出してくるから」

「うん、ありがとう……、でも、体育無かったのにジャージあるんだね」

「前日に持って帰るの忘れてたんだよね……、ははっ」


そうしてトイレから着替えて戻ると、池澤くんはにっこりと笑顔を見せてくれた。


「良かった。サイズ、大丈夫そうだね」

「う、うん……、へへっ……」


お尻がちょっと──、なんて言い出せず、私は照れ笑いで誤魔化した。


なにせ何気なく動くだけで襟元や袖口から、彼の残り香が漂ってくるのだ。まるで匂いが全身に纏わりついているようで、なんとも気恥ずかしい。おかげで、彼の顔はまともに見られなかった。



──そんな時だ。


その場にいた全員が廊下側へ振り向いた。


「なんか今、悲鳴みたいの聞こえなかったか?」

「あ、ああ」


遠くから「きゃあ」と悲鳴が聞こえてきた気がしたのだ。全員がそれを認識した以上、気のせいということはないだろう。この状況では何が起こるかは分からないため、とりあえず全員で声がした方向へと確かめにいくことになる。


だが、そこには予想だにしない光景が広がっていた。


「なっ⁉ なんだこりゃ!?」


そう絶句したのは千堂くんだが、彼だけでなくその場の全員が我が目を疑った。


「ウボォォォォォォ」


バリケードの向こう側にいるはずのゾンビ──、それらが、いつの間にかバリケードを越えて二階にまで上がってきてしまっていたのだ。


幸い、知能は無いに等しく、間に椅子などをかざすだけで十分に防げてしまう。すでに数匹がその場にいた生徒らに襲い掛かっていたが、椅子や机やらでなんとかギリギリ抵抗できていた。相手は腐った死体である以上、力もそれほどではないのだが──


「わっ⁉ コイツ、強い奴だっ! 気をつけろ!」


ひとりの男子生徒が相手をしていたそのゾンビ──


異様に力の強い個体だった。実は、今迄も時折そんなのが混ざっていた。恐らく特殊個体というよりも、腐敗や損傷具合がまだ軽微なものなのだろう。実に厄介な相手だった。それこそ筋力のリミッターが外れ、肉体の損傷も厭わずに常軌を逸したパワーを発揮してくる。


「わっ、わわっ!? コイツ、やばいって!」


その個体によって椅子の金属フレームが捻じ曲げられ、木製の座面がパンと音を立てて割れた。男子生徒は盾代わりの椅子を失い、アワアワと代替えの物を探す。


「任せろっ! おうりゃぁ!」


千堂くんがモップで殴りつけると、強個体のゾンビの肩口がぐしゃりと崩れた。おかげで、バランスを崩してその場に仰向けに倒れていく。だが、その際、モップは掴まれて取られてしまった。


「みんな、ここはもうダメだ! 退避しろっ!」


千堂くんはすぐに思考を切り替え、廊下に響くように大声を張り上げた。


「三階っ、三階だっ! 三階のバリケード奥まで退避するしかねぇ!」


その声を聞いた全員が一斉に逃げ始めた。ゾンビの足は遅いので、冷静になれば逃げられなくはない。


「さぁ、臼井さんも」

「うん」


私も池澤くんと一緒に避難を開始する。だが──


「いやぁ! た、助けてぇ!」

「え?」


それは階段とは逆方向だった。


廊下の途中──、そこに、とある女子生徒がゾンビに襲われているのが見えた。池澤くんはその女子生徒に向かって叫んだ。


「勝木さん!」


そう、それはあの勝木だったのだ。


池澤くんと言い合いをした後にどこかへ消えた彼女も、どうやらこの騒動に巻き込まれてしまったらしい。しかも、彼女の周りにはすでに四匹のゾンビが集まっている。その動きは非常にノロいとはいえ、少しひっかかれるだけで感染する可能性があった。まさに絶体絶命という状況だ。


「くそっ……、まずいぞ。臼井さんは先に行ってて。助けないと」

「え? だ、だめだよ! 行っちゃだめ!」

「うぉぉぉ!」


池澤くんは私の制止を聞かず、ゾンビに向かって駆け出していた。途中で転がっていた机を抱え、ゾンビの一匹をドンッと勢いよく跳ね飛ばした。


「さぁ、早く! 勝木さん!」


池澤くんは、懸命に彼女を助けようと手を差し伸べた。


──だが、彼女は予想外の反応をする。


「やっ! さ、触らないで! 私のことなんて、なんとも思っていないんでしょ⁉」

「なっ! 何を言っているんだ! 今、そんなこと言っている場合じゃないだろ!」

「うるさい! どっか行け!」

「こんなことしてる場合じゃ──」

「このぉ──、触んなって言ってんのっ!」

「え……?」


池澤くんは一瞬固まってしまった。


「は? えっ?」


それは、あまりにも理解不能だったから。


あろうことか、彼女は助けにきた池澤くんの身体を撥ね退けるようにドンッと後ろへ押したのだ。さすがの彼も、この状況下でそんなことをされるとは思ってもみなかったのだろう。トンとあっけなく尻餅をつくように体勢を崩してしまった。


「わっ⁉」


その結果、運の悪いことに、ゾンビと共に倒れてしまった。そして──


「うぐぅ⁉」


ゾンビの薄汚れた牙が彼の腕に食らいつく。


「うぎっ……、こ、このぉ! 離せっ!」


ただ必死に抵抗したおかげか、ゾンビの首がボロッと取れた。


「わぁぁぁぁ!」

「う、臼井さん⁉」

「池澤くん! こっち!」


私は池澤くんのピンチを察知し、ほうきを持って突進していた。必死に振り回して、非力ながらもなんとか彼の退路を確保しようと試みる。


だが──


「何やってんだ、バカッ! 早く助けろよ、グズッ!」

「……は?」


私は勝木のその言葉に耳を疑った。


しかも、彼女はあろうことか、さっさと逃げてしまっていたのだ。私どころか池澤くんすらも助けようともせず、我先にと。その間、一切振り返ることもなく。


「ちょっ、貴女──」


怒鳴りつけてやりたかった。だが、今はそれどころではない。池澤くんを助けなくてはいけないのだ。


「えい! えい!」


私のほうきの一撃は、ゾンビを少しも後退させてはいない。ただ私の方に気を取られて、池澤くんの方が多少フリーになっていた。


「臼井さん、ありがとう。さぁ、早く逃げよう」

「う、うん。池澤くん、大丈夫……?」

「くっ……、どうかな……」


池澤くんは、腕にくっついたままのゾンビの首をなんとかひねって外す。


「痛っ──」


彼のその腕には完全に歯形が刻印されてしまっていた。そして、じわりと血が染み出していた。


「池澤くん……、それ……」

「ごめん、しくじった……」


それでも、なんとか三階へと逃げ切ることはできた。


幸い、他に噛まれた生徒はいないようだった。だが、池澤くんは噛まれてしまった。ただ、それを指摘する気にはなれなかった。そもそも元凶はあの女だ。よりによって助けてくれようとした相手を突き飛ばし、ゾンビにぶつけてしまうなんて。池澤くんが噛まれたのは、完全に勝木のせいなのだ。


「ウチ見たんだから! アイツ、噛まれたって!」


それは勝木だった。


「早くっ! なんとかしてよ! アイツ、もうゾンビなんだって!」


池澤くんを指さし、噛まれたとすぐさまバラしたのだ。


たしかにゾンビ化する可能性が高いのはその通りだが、その原因を作ったのは彼女自身に他ならない。しかも、彼女がやらかしたのはこれだけではなかった──


千堂くんが勝木に詰め寄った。


「おい、待て! 二階のバリケードぶっ壊したのオマエか⁉ なんでそんなことした!?」


どうやら千堂くんは他の生徒から、ゾンビ侵入の原因を聞いたらしい。さすがに千堂くんも今回ばかりは我慢の限界を振り切ったらしい。勝木の胸倉を掴んで力任せに引っ張った。


「ぎゃっ⁉ 女子にそんなことしていいと思ってんの⁉」

「うっせぇ! この馬鹿女がっ! 何したか分かってんのかテメェ!」

「うるさい! そんなこと、今はどうでもいいでしょ! アイツ! 池澤噛まれたんだってば! いいの⁉ このままじゃ、ここもダメになるよ!? もうこの上は、屋上しかないんだからね!?」

「そんなことって──、屋上云々もそうだが、問題は食料の殆どがまだ二階にあるってことなんだよ。くそっ! なんてことをしてくれたんだ、オマエ!」

「ア、アンタたちが悪いんじゃない! 私のことばっかりのけ者にして! だから、学校から出てってやろうって思っただけじゃん!」


キンキンと甲高いヒステリー声で捲し立てる勝木。


「なら、勝手に出ていけよ! 俺らを巻き込むんじゃねぇ! クソッ、マジで何なんだオマエ……」


千堂くんは勝木の胸倉を離し、本気で頭を抱え込んだ。


実はこの時、彼はすでにリーダーとして頭角を現していた。だから、責任感もあるのだろう。彼の頭の中では、備蓄していた食料の配分なども考えていたのかもしれない。だが、それがほぼすべて無意味なものとなったのだ。その落胆は相当なものだった。


それでも勝木の方は、自分勝手にただ喚き続けた。


「そんなことより! 早く、アイツどうにかしてよ! ──ぎゃっ⁉」


パンッ──、と音が響いた。


私はもう耐えられなかった。気が付けば、もう完全に、もう衝動的に、彼女の頬に思い切り平手打ちしていたのだ。


「どういう神経しているの!?」

「なっ⁉ オマエぇ! ブスのくせに! ──ぎひっ⁉」

「何度だって殴ってやる! 池澤くんは貴女を助けようとしたんだよ!? それなのに! 貴女が押したから! だから、池澤くんは──、あんな、あんな──、なんで! なんでなの!? 貴女、よくそんなことが言えるよね⁉ 頭おかしいんじゃないの⁉」


私はもう歯止めが効かなかった。


全部この女のせいなのだ。制服を汚されたのも、彼が噛まれてしまったのも。この自意識過剰な女が余計なことをしなければ、ここまで壊滅的な状況になっていない。考えれば考えるほど、はらわたが煮えくり返って仕方がなかった。


──だが、そんな私の手を、池澤くんはそっと優しい手で掴んで止めた。


「臼井さん。いいよ、もう。いいんだ」

「けど──」

「いいんだ」


池澤くんは、すでに何かを悟ったように優しい目をしていた。おかげで、私はもう何も言えなくなってしまった。


「なぁ、千堂」

「なんだ?」

「三階って準備室がついた教室があったろう。ちょっと狭い部屋の」

「ああ、そういやあったかな。どこだったか」

「そこにボクを閉じ込めてくれないか? 古い学校だ。ここの引き戸は外側から施錠すると、たしか内側からも開けられなかったよな」

「たしかな。少し前に閉じ込められたとかって揉めてたもんな」

「鍵は職員室から持ち出した一式の中にあるだろ? だから閉じ込めてくれないかな。さすがに、──ははっ、ゾンビの群れに飛び込む勇気も、屋上から飛び降りる勇気もなくてさ」

「オマエ……」

「しばらく経てば、ゾンビ化するかどうか分かるはずだよ。運良くゾンビ化しなければ出してくれ。けど、もしもゾンビ化したならそのまま放置しくれればいい。どのみち、遅かれ早かれここは出ていく予定なんだろ? 食料、二階の分があったとしても、ずっと篭れるわけじゃないしな」

「そうだな。まぁその時期は早まりそうだけどな」

「だから頼むよ、千堂。隔離で手を打ってくれないか」

「……分かった。それでいい」

「あとのことは頼むな」

「ああ。任せろ」


二人の中で、共通の結論に至ったのだろう。二人はそれから何も言わずに、同じ方向へと歩き出した。そして、私もそんな二人の後に続く。もう何も出来ないと理解しているが、それでも付き添わずにはいられなかったのだ。


「フンッ、さっさと行けっての」


ボソッとそんな声が聞こえた。


勝木はどこまで自分勝手な女だった。私の中で彼女への怒りが一瞬で沸騰するように沸き上がり、再び殴りつけたくなってしまった。だが、それをグッと堪える。これが、彼との最後の時間となるかもしれないのだ。そんなくだらないことに消費したくはなかった。



──移動先は、音楽室に隣接する音楽準備室だ。


狭い部屋だが、廊下側の引き戸に加えて音楽室側にも開き戸が備わっている。ただここには楽器や楽譜スタンドが所狭しと置かれていて、自由になるスペースが殆ど無かった。


「よっと」


池澤くんと千堂くん、そして私で、何かに使えそうだと思うものを隣の音楽室へと移動させた。そうすると、そこにはもう使わないであろう楽器だけが残され、一人で過ごすなら十分なスペースが確保できた。


「じゃあ、悪いけどここで、な」

「ああ、ありがとう」

「飯は──」

「いいよ、要らない。症状が出るまで三日くらいか。それくらいは耐えられる。ゾンビ化したら無駄になっちゃうしな」

「そうか、残り少ないから助かるよ」


千堂くんは部屋から出る時、ふと立ち止まってうーんと唸り出した。


「あー、あのよ。池澤よぉ」

「いいって」

「へ?」

「無理して上手いこと言おうとしなくていいよ」

「チッ、そんなんじゃねぇよ、馬鹿。──それじゃあな、池澤」

「ああ。じゃあな、千堂」


そこには、私と彼だけが残されてしまった。


「ふふっ、薄情なもんだね、ホント」

「え?」

「ゾンビ化すると知ったら、誰も寄ってこなくなった。まぁ、それもそうか」


私は何も言えなかった。


「ごめん。キミに愚痴ることじゃないな。せっかく来てくれたのに」

「池澤くん、あのね。私も残ろうか? このままここに──」


彼と見つめ合った。


今までだって何度も目が合う瞬間はあった。だが、今ほど何かが交わったような感覚は体験したことはなかった。少なくとも彼にはもう私の気持ちは伝わってしまっただろう。


「──ありがとう。本当にありがとう。もっと……」

「え?」

「もっと早くキミのこと知れていたら──、違う未来もあったのかな」

「た、池澤くん。残るよ。決めた、うん。私、ここに──」

「だめだよ。それはだめだ。臼井さんは──、生きて」

「けど」

「あの時さ──、さっきさ、助けてくれたよね。ほうきでこうやって──、ははっ、嬉しかったよ。ありがとう」

「池澤くん、やだよ。やだよぉ……」

「俺は大丈──、大丈夫ではないか、ははっ」

「ダメだよ、こんなの……」

「これが一番マシな方法なんだ。たぶん、最後を選べないよりずっと──」


彼はそう言って、ポンポンと頭を撫でてくれた。


嫌だと言いたかった。死なないでと言いたかった。だが、現状では彼のやり方以外にどうしていいか分からなかった。


「へぇ、ここってこんな感じだったんだね」

「え?」

「私、準備室ってちゃんと見たことなかったから。あっ、窓のところにこんな庇があったんだ」

「え? あ、本当だ。外から侵入出来ちゃいそうだけど、楽器って盗まれたりしないのかな」

「そんなに高い物はないと思うけど。貸出用のは中古品だし、部員の楽器は基本自腹購入だしね」

「そうなの? 臼井さんって吹奏楽部じゃなかったよね?」

「あ、うん。興味はあったけど、楽器代けっこうかかるかもって聞いてたから」

「そっか。楽器高いもんね」


二人の間に微妙な空気が流れた。


私は早く出て行かなければいけないのに、出ていきたくないというジレンマ。これが今生の別れになると思うと、立ち上がることが出来なかったのだ。だが──


「おい、もうそろそろいいか? いい加減鍵閉めるぞ」


気を利かせて待っていてくれた千堂くん──、さすがに長居し過ぎた私に外から声をかけてくれた。


「音楽室側と廊下側、両方に鍵かけちまうな。悪く思うなよ。いいよな?」

「ああ、問題ない。ほら、臼井さん、廊下へ」

「う、うん……」

「じゃあね。あ、もしもゾンビ化しなかったら、そのときは──、いやなんでもないや」

「う、ううん。大丈夫だよ、きっと」

「そ、そうだね。そうだな……」


千堂くんは音楽室へと通じる開き戸に鍵をかける。そして、私が廊下へ出たのを確認してから、廊下側の引き戸の方にも鍵をかけた。


「え、待って。そこまで──」

「大丈夫だとは思うが、扉が壊れたら大変だしな」


廊下側の引き戸には、折れたモップを使ってつっかえ棒にする。さらには机を積み上げてバリケードを作った。


「なぁ、臼井。良からぬことを考えるなよ?」

「え? 良からぬこと?」

「オマエ、アイツのこと──、けど、これはアイツが決めたことなんだからよ」

「うん……」



──それから一昼夜が過ぎる。


準備室の前には千堂くん自らが立っており、到底中へ入るなんてことも出来そうになかった。


実はゾンビ化の詳しいプロセスはまだよく分かっていない。ただ大体の発症時期は把握していた。個人差はあるが、傷を負ってから完全にゾンビ化するまで約三日を要する。だから、池澤くんが三日後にゾンビ化していなければ──


だが、それは絶望的な話だ。なぜなら今まで噛まれたり引っ掻かれた者は、例外なく全員がゾンビ化していたからだ。少なくとも、私の回りで傷を負って助かった人間はひとりもいなかった。





「ハァ──、ハァ──」


池澤は月明りを見ていた。


床にだらりと寝そべって、カーテンの隙間から見えるそれを眺めていたのだ。その月明りだけが、彼の気を紛らわせてくれていた。


悪寒がひどかった。


身体が熱く、頭が朦朧とする。熱が際限なく上がっていくのが分かる。全身が沸騰してしまいそうだった。今まさにウイルスと戦っているのかもしれない。ただそれも時間の問題だ。あと数時間もすれば、意志も持たない動く屍となるだろう。


──だが、その時、微かに音が聞こえた。


それはギッ、ギッ、と何かが軋むような。しかも、音がどんどん近付いてくる。


(もう、三階もゾンビに制圧されてしまったのか……?)


発熱してからというもの、朦朧とし過ぎて時間の感覚が無くなっていた。もしかすると、自身が思うよりも時間は経っていて、すでに三日間を過ぎていたのだとしたら──


とっくに学校は放棄されているはずだ。


──だとすれば、自分の中に今残っているこの思考や意志は一体何なのだろうか。たとえば、ゾンビ化して身体の自由が効かなくなっても、意志というものは残り続けるとしたら──、ヒトを食う時もそれをずっと見続けなくてはいけないのか。


(原因なんて知ることも出来ないが、なんてひどいウイルスなんだ。ゾンビになっても苦しみ続けるなんて)


彼は自身の死を前にして絶望していた。


(ボクの人生は無駄だったのだろうか──、そうだ。この先どうせ生き残ったとしても、人類は滅亡するに違いない。みんな腐って、何もかも無くなってしまうんだ……)


だが、ふと気付く。


そのギッ、ギッ、という音は廊下側からではないことに。どうやら音楽室側からでもない。そう──、その音は窓の外から聞こえていたのだ。そして、準備室の前まで来ると止まった。


(なんだ……? 何が……)


その『何か』がガラッと窓を開けて入ってきた。


「う……、誰、だ……?」


彼は重い身体を起こして、カーテンの向こうから現れたものに問い掛ける。そこには──


「こんばんわ、池澤くん」

「え……? う、臼井さん……?」

「お腹、空いていない? 缶詰持ってきたんだ」

「なんで……?」





結局、私は彼のいる準備室へと来てしまっていた。


「池澤くん、まだ起き上がれる?」

「なんで……? 臼井さん……」


窓から入り、池澤くんの前にちょこんと座る。


「実は、ここを出る前にね。こんなこともあろうかと、窓のカギは開けておいたんだよね。へへっ」


月明りの下、私はやってきたのだ。まるで夜這いでもするように。


「い、いや、こ、ここ、三階なんだけど……?」

「庇を伝ってきたんだよ。池澤くんが言ってた通り、外から入れちゃったね。ふふっ」

「庇って……、そりゃ物理的には可能かもしれないけど……、三階だよ? 怖くなかったの?」

「うん、怖かった。落ちたらどうしようって。ふふふっ、けど、私軽いし。はぁ、良かった。うまくいって」

「なんで……、なんでキミは来てしまったんだ……」

「だから、池澤くんがお腹空かしているかと思って」


私は、背負っていたリュックから缶詰を取り出した。鯖缶とブリ大根の、たったの二つ。こんなものでも、備蓄の少ない現状ではそれなりのご馳走だった。


「私、最後の晩餐はハンバーグが良かったんだけどなぁ。けど、残念。ハンバーグの缶詰は無かったよ。あっ、池澤くんはおさかな大丈夫だった? アレルギーがあるような話は聞いてなかったから、普通に持ってきちゃったけど。二つとも、おさかなだから──」


私は、言葉を発する際、意識して明るくハキハキとテンション高めを心掛けた。出来るだけいつものように。いや、いつもよりもずっと元気よく。


彼の状態は一目瞭然だった。


──確実に発症している。もう喋ることすらしんどいに違いない。だからこそ、この最後の時を出来るだけ安らかに過ごさせてあげたかった。


「なんで!」


だが、彼は残った力を振り絞るように声を荒げてしまう。それは、今までに見たことのない、取り乱した姿だった。


「なんで……、来ちゃったんだよ……、ボクはもう……、ボクは……」

「うん、そうだね。ゾンビになっちゃうみたいだね。たぶんそうだと思った」

「ならどうして──」

「そんなの決まってるよ」


私は、彼の目をじっと見つめた──


そして、ずっと言いたかった言葉をようやく口にする。


「好きだよ。死んでもいいって思えるくらい、……好き」


彼は何も返事をしなかった。だが、私の目をただじっと見つめて、それから何度もうんうんと頷いた。そして──


笑った。


そして、彼は整った顔をくしゃくしゃに崩して──


「う……、うう……」


ただじっと、私の手を握ってうずくまった。





「ねぇ、ちょっと! 何のつもりっ⁉ 痛いって!」

「なんのつもりだぁ?」


勝木と千堂だった。


勝木は、千堂に腕を掴まれ引き摺られていた。彼女は逃れようとみっともなく暴れるが、体格も腕力も彼女に敵うものは何一つない。なにせ千堂は元々運動部に所属していた男だ。千堂からしてみれば、勝木の抵抗など子供を相手にしているようなものだった。


「ぎゃっ⁉」


彼女は教室の中央へと突き飛ばされて尻餅をつく。


「ふざけんなっ! 痛いっての!」

「ふざけんなってのはこっちのセリフだ」


千堂はハァと深く息を吐いた。


「勝木。オマエまた、バリケードに余計なことしようとしていたろ。頭おかしいんじゃねぇか? 大体、二階が使えなくなったの、一体誰のせいだと思ってやがる」

「言いがかりなんだけどぉ⁉ ここに居られるのだって、あと一週間もないんでしょ⁉ だからウチ、みんなのために二階の食料を何とかしようと──」

「それが余計だって言ってんだ! オマエはどうせ自分のことしか考えていないんだろうが。二階の食料庫に辿り着けても、大方オマエは独り占めでもすんだろ?」

「は、はぁ!? ア、アンタだってウチのこと、ここに閉じ込めて食料独り占めする気なんだろ!?」

「オマエと一緒にすんなや。もう残された食料だって少ないし、三階までダメになったら屋上しかないんだぞ」

「なんでもかんでもウチのせい!? なんで⁉ この前ゾンビになった奴いたじゃん!」

「あ? 池澤のことか?」

「元はと言えばアイツが全部悪いの! ウチのこと馬鹿にするから!」

「何言ってんだ、オマエ。あれはオマエが──」

「あ! そうだ! ブス井は⁉ 最近見ないけど、アイツどうしたの⁉ ははっ、死んじゃった? 池澤くーん! くんくーん! って泣いて死んじゃった!? ぷはっ! ブスはゾンビとやってろよ」

「オマエ、クズだな。マジ救いようねぇ。とにかく、オマエはそこで反省していろ。まったく」

「つか、こんなことしてただで済むと思ってんの!? ウチ、女なんだけど⁉」

「ん? どういう意味だ?」

「叫んでやる! わぁぁぁぁ! やめてぇぇぇぇ! 千堂がぁぁぁ! 千堂がウチの胸をぉぉぉ!」

「ハァ……、全く懲りねぇな、オマエ。勝手にしろや、クソ女が」


千堂は彼女の悪あがきに付き合わず、教室の外へ出てガチャリと鍵を閉めた。そして、念のために引き戸へ突っ張り棒代わりの折ったモップを設置する。


「おい! ふざけんなっ!」


ガタンッと勝木が扉を叩いた。


「開けろ! 開けろよぉ! この、くそっ! ふざけんなっ! クソ千堂ぉぉぉぉ! わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! 誰か助けてぇぇぇぇ! 千堂に襲われるぅぅぅぅぅ──、いやぁぁぁぁぁ!」


扉の向こうで勝木が好き勝手に叫んでいた。


しかも、わざわざ扉の隙間へ口を密着させて、だ。恐らくは、他の誰かに聞かせるためなのだろう。わーとか、きゃーとか。ありったけの甲高い声で、勝木はみっともなく喚き散らした。


だが、千堂はただ立っていただけだった。


鍵を開けてやるでもなく、かといって反論するわけでもなく。そして、不機嫌そうに睨みつけるでもなく。ただただ檻の中の珍獣でも見るかのように、呆然と立っていたのだ。


実は、彼の目にはその珍獣の姿は映っていなかった。


ずっと遠く、はるか遠くの別のものでも見るように。淋しげで、どこか優しい顔で、ほんの少し前にあった出来事へと思いを馳せていたのだ。


「これで良かったんだよな? ──なぁ、臼井」



──それは、少し前のこと。


池澤を音楽準備室へ閉じ込めてからすぐのことだった。


「まずいな。食料全然足りねぇぞ。これじゃあどう切り詰めても二週間ってとこだ」


千堂は、気が付けばリーダーのようなポジションになってしまっていた。残り少ない食料の割り当てなども、リーダーとして平等に割り当てなくてはいけないのだ。まるでそんなつもりも無かったのだが、今更委任できそうな人物もいなかった。


どうやっても食料が足らない──、いずれは学校を破棄するか、外へ食料調達しに行かなくてはならないだろう。池澤が放棄した分が浮いたとしても、それほど楽にはならなかった。


「二階の食料庫の分があればまだ──、くそっ!」


その時、隣にいた女子生徒が缶詰を二つだけ手に取った。


「ねぇ、千堂くん。私、これだけでいいや」

「え? どういう意味だ、臼井?」

「私はこれ以外要らないから、その分、みんなで分けてってこと」

「分けてって──、まさかオマエ死ぬ気か?」

「どの道、食料は足りなくなるから、頑張ってここから脱出する必要はあると思うけど。それでも私の分があれば、多少はマシになるよね?」

「それはそうだが、オマエはそれでいいのか? 本当に──」

「いいの。その代わり、お願いがあるんだ」

「お願い?」

「うん」


千堂はなんとなく察していた。


ここに至るまでも、そういう顔をしたやつはいた。達観したというか、諦めたというか。もしくは、覚悟してしまったというか。彼女のはそういう目だ。臼井は池澤の後を追う気なのだろう。もしくは、あり得るとすれば心中だろうか。


平常時なら止めるべきだろうし、迷わずに止めていただろう。だが、今は異常事態だ。人類はこのまま終わる可能性だってあるのだ。だったら、望み通りにさせてやるのも悪くはないのかもしれない。


「俺は何すりゃいいんだ?」

「えっとね、音楽室と準備室の間のカギ、開けておいてほしいんだ」

「開けておいてって」

「それでね、音楽室に──」



──そして、現在。


ガタンッと後方から音がして、勝木は咄嗟に振り返った。


「なに……? 何の音……?」


だが、教室には他に誰もいない。窓だって開いていないし、そんな音を発するようなものはどこにもないはず──


「扉……? え? 何の? 誰かいるの……?」


勝木はその扉へ向かって駆け寄った。


「ね、ねぇ! 誰かいるの⁉ ちょっとウチ、閉じ込められてさ! 助けてよ! 千堂がさぁ──」


そこは狭い部屋だった。明らかに教室ではなく、何か倉庫のような場所だ。カーテンが半開きになっていて、日の光が中途半端に刺し込んでおり、部屋全体が薄暗かった。


「へ?」


勝木はそこに人影を見つけた。だが──


「なんで……、なんで……、アンタが……」

「ウォォォ……」


そこに立っていたのは、ひとりの男子生徒。そして──


「なんで……、オマエまでここに居んだよぉ……」


隣にいたのはジャージ姿の女子生徒だった。


「やだっ……、やだぁ……」

「ウォォォォォォォ!」

「ふざけんなっ……、ふざけんなっ! 近付くなや、ブスがっ!」

「ウボォォォォォォォォォ!」

「くそぉぉぉ! 千堂ぉぉぉぉ! ふざけんなよぉぉぉぉぉぉ!」


音楽準備室の中で、ガタンッガタンッと音か鳴った。


「ぎゃぁぁぁぁ! やだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


振り返らず、千堂はその場を後にする。




『あの人だけは絶対に許さない』




そう言った時の、ジャージ姿の少女の目──


千堂はそれを今も忘れられないでいた。

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