泉
パリの雑踏から逃れるようにして、ジャック・モローはブルゴーニュの小さな村へ移り住んだ。
神経をすり減らす刑事の仕事を辞め、心を落ち着けるには、これ以上ない場所だった。
村の中心には小さな泉がある。
「ラ・フォンテーヌ」と呼ばれるその泉は、住民たちから聖なるものとして扱われていた。
「この水は、忘れたい記憶を流してくれるのです」
そう語ったのは、隣人の老女・マドレーヌだった。
「ただし、忘れたくないことまで流れてしまうから、ほどほどにね」
ジャックは笑って聞き流した。
ある夜、夢を見た。
霧深い森のなか、何者かが泉の水を掬っている。
水面に映るのは、誰かの顔。だが、それが誰かはわからなかった。
目覚めたとき、彼は異様なほどの喉の渇きを感じた。
水差しの水を飲み干し、それでも足りず、外へ出た。
夜の泉は静かで、月が鏡のように映っていた。
ジャックは無意識のうちにしゃがみこみ、泉の水をすくって飲んでいた。
冷たく、甘い。まるで子供のころに飲んだ雨水のようだった。
翌朝、彼は奇妙な違和感を覚えた。
何かを忘れている――確実に、誰かの顔が思い出せない。
日記をめくると、数週間前のページに、こう記されていた。
「彼女の手紙が届いた。もう一度話し合いたいと。
だが、俺はそれを燃やした」
彼女? 誰のことだ? ジャックには、最近まで誰とも関わっていなかったはずだ。
その日から彼は、泉のそばで奇妙なものを目撃するようになった。
誰もいないはずの泉のほとりに、女の影が立っている。
水に手を伸ばし、何かを探している。
マドレーヌに訊ねると、老女は顔をしかめた。
「あなたも見たのね。あの女は泉に置いていかれた記憶よ。
呼ばれた人にしか見えない。でも一度見たら、もう戻れない」
夜ごと夢に女が現れる。
白い服。濡れた髪。目元が暗く、口元が微笑んでいる。
「あなたは忘れた。でも、私はずっと覚えていた」
夢から覚めると、枕元には濡れた髪の束が落ちていた。
村の古文書を調べると、かつてこの泉では「記憶を浄化する儀式」が行われていたという。
忘れたい過去を水に沈めるのだ。
だが、中には沈めた記憶が人の形を成して戻ってくることがあるという記録もあった。
やがてジャックは思い出した。
──あの夜。パリのアパルトマン。
かつて付き合っていた女性、レティシアとの口論。
感情が爆発し、手を上げてしまった。
彼女は倒れ、動かなくなった。
彼は遺体をセーヌ川に流し、その事実ごと、泉の水に託して忘れたのだった。
だが泉は、それを許さなかった。
あの夜から、レティシアは泉に立ち続けていたのだ。
「忘れたことにしたのは、あなた。私を水に沈めたのも、あなた」
ある朝、ジャックの姿が村から消えた。
警察が捜索したが、遺体は見つからなかった。
ただ、泉の底から見つかったのは、彼の古いバッジと、濡れた日記だった。
最後のページにはこう書かれていた。
「記憶は水に溶けるものじゃない。
水はただ、それを沈めて静かに待っているだけだ」
泉の水は、今日も澄んでいる。
けれどその表面には、ときおり誰かの影が映りこむという。