第19話
約束の時間より三十分早く着いた。待ち合わせ場所は学校に行くために降りる見慣れた駅である。トイレで着てきたジャージから私服に着替えて鞄のなかに詰める。小さな肩掛けかばんと和傘を手に持ち、ジャージしか入っていない軽い大きな鞄を駅のロッカーに入れて三百円を放り込む。ガチャンと鍵が閉まるのと同時におやつ分の小銭が嘘の代償として落ちていった。
時計を見ると待ち合わせ十分前を指している。慌てて改札口へと走った。
「おまたせしました!」
すでに北条君と白川さんは立ち話をして待っていた。
「おはようございます」
二人とも笑って出迎えてくれた。まだ一日が始まったばかりだと言うのに私はどっと疲れていた。お母さんを騙すために起きてから緊張感が続いていたからである。部活に行くと見せかけるために色々試行錯誤していた。ボストンバッグには何かしら入っているかのように私服をふんわりいれて玄関に置く。和傘を持って出るところを目撃されては元も子もないので朝ごはんを準備している隙にこっそり外に出しておいた。玄関が閉まるのを確認してから和傘を抱きかかえ駅まで走った。万が一ここでばれても出かけてしまえば止める手立てはない。
「細井さんは切符買った?」
「はい、ここに」
鞄の外側についてる小さくて薄いポケットから切符を取り出して見せる。
「それじゃあホームあがろう。ちょうど電車来るみたいだし」
ホームにあがるとすでに電車は待機している。日曜日の朝、今から遊びに行くだろう人がちらほら見られるが、まだ早い時間帯ということもあって前方は開いてるボックス席がひとつ残っていた。進行方向と反対側に白川さんが座り、向かい合わせで北条君と私が並んで座る。図書室の緊張感がここに続いているようであった。
「それが言っていた和傘ね」
白川さんは窓際の壁に立てかけた傘に視線をやる。
「はい。生前の露子さんはこれを持っていましたか?」
「さあ。私は見たことがないわ」
首を傾げて思い出そうと目を閉じて考える。記憶をたどっても思い出せないようである。
「和傘をさしてたら目立つと思うのよね。あの雨宮先輩がさしてたなら、猶の事気付くと思うわ」
実際私がさしたときも和傘は周りの視線を一身に集める程目立っていた。特に真っ赤な傘は嫌でも視界に入るだろう。学校なら猶更目立つに違いない。
「先方の渡邊さんはどんなご様子でした?」
白川さんがどのように言ったのかはわからないが、会ってくれるとすぐに了承してくれたのは意外だった。
「和傘の話と雨宮先輩の話ですぐに通じたわ。そういえばあなたのことも知ってるようだったわ」
「え?」
「覚えがない?渡邊さんすごく懐かしそうに仰ってたわよ」
全く記憶になかった。自分が覚えてないことを相手が覚えているのは一方的に自分のことを知られている気持ち悪さを覚える。でも漸く露子さんに繋がる何かが掴めるのだと思うと皮膚の表面が興奮で粟立つ。
電車に乗って一時間、話したり、沈黙したり、学校とは違うぎこちない空気に揺られながら三人と幽霊一人の時間が過ぎた。
終着駅に到着するころには立ってる人の肩が触れ合うほど満員で、ドアが開くと同時にダムの堰をあけた水のように人がホームになだれた。はぐれないように二人の後を必死に追って改札口を出た。
白川さんは私たちに声をかけ、スマホと案内板を見比べながら足を進める。地元以上の人の多さと見慣れない景色に目が回る。人混みに潰されないように傘をぎゅっと抱いて、白川さんについていくのが精一杯だった。
南口を出てバス停に向かう。すでに長蛇の列になっている最後尾に立つ。次々に出立するバスを目で追いながら、乗車予定のバスを探す。
「あと五分もしないうちにくるみたい」
和傘渡邊の公式サイトには『駅からバスで十五分』と記されていたのを思い出す。それまでにない緊張感が胸をぎゅっと締め付けた。
白川さんが言う様にすぐにバスがやってきた。前方のドアが開くと同時に、順番に入っていく。土地柄的に人気の観光地ということもあって、丁度私達がバスに乗り込んだと同時に、次のバスをご利用くださいと運転士が告げる。奥に詰めてくださいとバス内のアナウンスに耳を傾ける乗客は、一歩二歩と狭い足取りでつめた。つり革の数よりも多い乗客は背中や肩以外を触れ合わないように体を縮こませて立っている。多少揺れても倒れないほどぎゅうぎゅうに詰め込んだバスは思い車体をずるりと滑らすように発車した。運転席の真後ろの板を支えるポールを北条君とわけあう様に持った。露子さんに限っては我関せずと幽体を気持ちよさそうに扉近くに浮かべている。不謹慎とはいえそれが羨ましくもあった。
停車駅のアナウンスが流れる度に停車ボタンが押される。降りていく人数と同じくらいの人数が前の扉から入ってきて、車内はずっと込み合っていた。せっかくの観光地の風景を楽しむ余裕はない。
和傘渡邊は停車場から歩いてすぐであった。南北に続く道路の両端に様々な店が並んでおり、人々は歩きながらきょろきょろと店を覗いている。殆どの人が観光客だとわかる。そんな人だかりに歩調を合わせても記載の徒歩五分より気持ち早くついた。
老舗と謳っているものの、店の佇まいは柔らかい色の木材と漆色の艶やかな壁が合わさり、今時っぽくスタイリッシュで新しい匂いがする。自動ドアが静かに開くとお香が鼻腔をそして体を纏う様に優しく包む。
店内は色も柄もとりどり和傘が一面に飾られている。壁には閉じた和傘が横向きにかけられていたり、床には開いて置かれていたり、更には天井から開いて吊るされていたりと、まるで店一面に花を咲かせるように鮮やかに彩る。先に入店している若い女性の客がきゃあきゃあと声をあげてスマホを傘に向けて撮影をしている。
「いらっしゃいませー」
奥から客と同じくらいの若い女性の従業員が甘ったるい余所行き声を投げかけた。確かな年齢はわからないが、見た目は白川さんとそう変わらないように見える。
「あの、渡邊さんと約束をしている白川です」
「ああ!若さんと。はい伺っていますー。奥へどうぞー」
レジの奥へと案内される。関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉を開けると手前の店舗の雰囲気ががらりと変わった。表の華やかさとは打って変わって、なんの変哲もない普通の作業部屋である。いうなれば学校の楽器の置いていない音楽室や科学道具が置いていない理科室のような部屋だ。照明も学校に吊るしてあるような普通のLEDライトがかけられて、壁にそって置かれた棚や床には道具や材料が所狭しと置いてある。
竹を扱いたり、紙を貼りつけたりと五人の職人がこちらを気にせず黙々と目の前の和傘に向き合っている。
「若さーん。お客さんですー」
ひとつ息をするのも憚れるくらい真剣な空気をふわふわの綿毛のような声で割る。
「はーいはい!ちょっと待ってて!」
首からかけられた手拭いをとり、手を拭きながら声の主がやってきた。がたいの良い男性は見上げる程背が高い。作務衣の袖から引き締まった腕が伸びている。
「ちょっと河西さん!上に案内してって言っただろう?」
「そうでしたっけー。すみません、若さんのお客さんだから奥だと思ってー」
叱られているにも関わらず河西と呼ばれた女性は悪びれずに謝った。
「すみません。こんな乱雑したところで…」
手拭いを手近な机に置き頭を下げる。
「どうぞ、こちらへ」
『若さん』は通って来た道を戻るようにと掌で指し示した。
若さんこと渡邊雅也さんを先頭に店舗を通って店舗の脇にある階段を上った。階下の華やかさとはまた違って過度な飾りつけはなく、しかし品を落とさない旅館の一室のような部屋に通された。天井には恐らく傘に使われる和紙で作られた照明が柔らかく室内を照らす。木材の低いテーブルに陶器の花器に花が添えられていた。
入口から見て奥側のソファーに、私を挟み三人並んで座る。おしりを乗せると深く沈むソファーは今までに感じたことがない感触である。恐らく高いものだと思った。
「遠いところお疲れ様です。混んでたでしょう?」
一番後ろについてきた若い男性がグラスに入った麦茶をテーブルに置く。作務衣を着ているので恐らく職人の一人だろう。「ごゆっくりなさってください」とお手本のようなお辞儀を見せて後にした。
「流石有名観光地ですね。賑わいも楽しいです」
白川さんは特に否定もせず、かつ土地を貶めることもなく返す。
「住んでると慣れてきますが、こちらに引越しした頃はバスに乗るたび人混みに酔ってしまうことも度々あって苦労しましたよ」
今の私と同じような顔をしていたのだと付け加えて笑った。
「それにしても随分お姉さんになったね。風花ちゃん。」
此処に来るまでどうにか思い出そうと頭をひねっていた。店のサイトにも職人の紹介がされていた中に渡邊さんの顔はあった。しかし一ミリも思い出せなかった。実際顔をみたら思い出すかもしれないと淡い期待もあっという間に打ち消されてしまった。覚えていないことが申し訳なくて人混みで酔った青白い顔が更に冷え込んでしまいそうである。
「すみません…覚えてなくて…」
消え入りそうな声で謝るしかなかった。
「いいんだよ。まだ四歳くらいだったもんな。でも元気そうでよかったよ」
在りし日の風景を思い出すように目を細めてほほ笑んだ。
「それ、見せてもらってもいいかな」
指を揃えた掌を上に向けて和傘を指した。私は両手で恭しく差し出すと、渡邊さんも同じように丁寧に受け取った。
渡邊さんは立ち上がってゆっくりと和傘を広げる。階下にあるような美しさはなかったが、私にとっては全く負けず劣らない逸品だと思う。
「懐かしいなぁ」
傘をくるくると回して状態を確認する。ごつごつとした指で優しくそして愛おしそうに触れていた。
「やっぱり酷いな」
「え?」
「まあ当たり前だな。これ、俺が十年前に少しだけ手掛けた傘なんだ。骨組みは職人が作ったものだけど、傘の紙は俺が貼ったんだ。胴紙なんかも寄れてるし折り目も雑だ」
何度も笑いながら酷いと連呼されるとなんだか少し不満になった。こんなに綺麗なのに。
「これは風花ちゃんが持っててくれたのか?」
「私じゃないんです。彼の、えっと家族のような方が…」
「雨宮さんの知り合いの方?」
「いえ。偶然拾ったそうなんです」
捨てられていた傘を拾った話をすると「だろうな…」と苦笑した。
「でも拾ってもらえてよかった。正直二度と触れることはないと思っていたから。せめて棺桶に入れてもらえたらよかったんだけど、それも確認できなくて…」
ゆっくり話す渡邊さんの顔は次第に険しくなる。薄らと目に涙の膜が張られゆらゆらと波打っていた。彼はそれを見られたくないように和傘で顔を隠した。私も見ないように視線を外して俯く。鼻を啜る音がした。
「見せてくれてありがとうな」
渡邊さんはまた余所行きの顔に戻っていた。
「紙もだいぶ弱ってるし、骨も何か所か折れそうだ。もう暫く使えるとは思うけど、長くないと思う」
「直せますか?」
「紙の張替えだけなら何とかなるけど、傘骨が折れると難しいんだ」
記憶のてがかりである傘が壊れて使えなくなる日が来ると思うと、まるでこの世から露子さんの痕跡が消えてしまうようで無償に悲しくなった。
「渡邊さんは露子さんと仲が良かったんですか?」
「そうだなぁ…学校一、唯一、仲が良かったと言えるよ」
ドクンと跳ねた心臓が痛かった。渡邊さんの表情を固くした苦笑い、露子さんが学校の前で見せた憎しみ、白川さんが露子さんのことを話したがらないこと、それらは生前の露子さんの学校生活が決して楽しいものではないのだと確信を得た。
渡邊さんは唇をぎゅっと結んでいたが、次第にぽつぽつと水滴が少しずつ落ちるように話し始めた。