第18話
ベッドに横になりながらスマホとにらめっこしている。
「お行儀悪いわよ」
「うーん…」
露子さんの小言は空に漂い消えていく。
私は和傘渡邊の公式サイトのアクセスページを穴が開きそうなほどみつめた。
「やば」
「なにが」
露子さんは重量のない体でのしかかるようにして画面をのぞき込んできた。
「思ったより交通費が高い」
「お小遣い貰ってないの?」
「あるにはあるけど、ちょっと足りないな」
遠出になるとは思っていなかったので節約などしていない。丁度月がかわり六月のお小遣いは貰ったが往復するには少し足りない。
「前借するしかないな」
開けた窓から夕飯のいい匂いがする。今日はお肉…ハンバーグかな。お腹がなるタイミングと共に階下から私を呼ぶ声がした。スマホをベッドに放って部屋をでる。
「これ持って行って」
キッチンに入るや否や焼きたてのハンバーグと千切りのキャベツが乗った皿を渡された。テーブルにはすでにレタスやトマトが乱雑に乗ったサラダとカボチャスープがセットされている。「いただきます」と早口で唱えると共にスープに手を伸ばす。口の中でどろっとした食感が広がる。固形感はないが飲むというより食べるスープだ。
「お母さん」
「ん?」お母さんは一口が大きいハンバーグを咀嚼しながら顔をあげる。
「えっと、ちょっと、お願いが、あります」
「やだ、なに?」
細井家で使われる敬語は頼み事をする前提の時に使われる合図のようなものである。私が使う時は、大抵面倒事が多いのでお母さんはそれを聴いてたじろいだ。
「お小遣いを前借出来ないかな」
「どうしたの?なにか欲しいものでもあるの?」
「そうじゃなくて、えっと…遠征。陸上部で他校と交流会が週末にあるから交通費が足りなくて、その」
和傘のことを話題に出すのを躊躇って、突如思いついた嘘をそのまま口に出す。
「また急ねぇ。交通費いくらなの?」
「往復で四千円くらい」
お母さんは口に放り込んだプチトマトを噛みながら、隣の椅子に置いてある鞄をとって財布を取り出した。財布から一万円札を取り出し差し出した。お小遣いは普段二千円貰っているので万札に目を丸くする。
「向こうで足りなくなったら困るでしょう。持っていきなさい」
「え、お小遣いでいいよ。まだちょっと残ってるし」
「いいから。部活の遠征分くらいお小遣いとは別にあげるわよ」
早くとってとお札を持つ手を更に前に出す。財布の隙間が不安なのは確かである。「ありがとう」と呟いて受け取った。
小さな嘘をつくことは数えきれないくらいある。友達と話が盛り上がって門限が過ぎた時には「電車に乗り遅れた」と言った。夜中におなかが空いてこっそりカップラーメンを食べた時は証拠隠滅に何重にも袋にくるんでゴミ箱に捨てた。後日少なくなってることがばれたが知らないふりをした。嘘をつく瞬間は胸が痛くなる。嘘をついたことより嘘がばれてしまう恐怖が支配される。それでも短くて数分、長くても数日も経てばすっかり忘れて罪悪感なんて残らない。
しかし今受け取った一万円は、後ろめたさから蒸し暑い夏のように心をじめっとさせ不快感を覚えた。嘘が形になったようで一万円札がやけに重い。
まだ一口しか食べていないハンバーグはただの肉の塊にしか見えず味がしなかった。
約束の前日の夜は眠りにつくまでが長かった。白川さんには事情も話せず付き合わせること、嘘ついて手に入れた一万円、そして露子の隠された過去。後ろめたい気持ちが蓄積していた。
「まだ起きてるの」
横になっている私の枕元に降りてきた。
露子さんは眠らない。私が眠っている間は発光する体を隠すために部屋の外に出ている。長い夜をどのように過ごしているのだろうかと訊ねると「起きてるだけ」と言った。一人で過ごす夜は寂しいのだろうか。とは言っても一緒に起きて一晩中話相手をするわけにはいかない。近くにいるのに生身の人間と幽体はこういうところも相いれない。
「うん…眠れなくて」
眠れないと言う声は鼻にかかっている。目がさえ切っているわけではない。解決しきれないのに悩みばかりが募り心身は十分に重かった。
「聞いても良い?」
「ん?」
「記憶がないってどんな感じ?」
露子さんは振り向かずに「うーん」と首をひねった。ベッドから見える窓にかけられたレース仕立てのカーテンが風に揺れている。バイクや車のエンジン音だけが時折飛び込んでくる。
「困ることはなかったわ」
「そうなの?」
「気付いた時にはあの傘に魂が縛り付けられている感覚がして、そこから離れられないことがもどかしいけど、どうすることもできないから諦めていたわ。でもゲンが気付いて拾ってくれた。ゲンは邪見にしてるように言ってたけど、案外つきあいが良くて私のおしゃべりに嫌な顔なんて殆どしたことがないわ。他愛ないつまらない話ばかりなのにね。なんだかんだ言って優しいの。だからネガティブな気持ちになることなんてなかった」
朝に常連客がやってきて、昼はランチで賑わって、夕飯時には一日の報告をする坊やの話をゲンと一緒に耳を傾けて、静かな夜を過ぎるのを待つ。単調な日々は時間を溶かすだけ、でも死んだ露子さんには話相手がいるだけで少し色がつく。
「それなりに楽しい時間が惜しいくらいには満足してたのよね、幽霊で何もできなくても。だから記憶なんて必要ないって思ってた」
「今は違うの?」
「ええ。ずっとそれでいいって思ってた。でもあなたの名前を聞いた時、幽体になって初めて鳥肌がたつような感覚を覚えたの。そこで死ぬ前のことを知りたいって思ったわ。最初はほんの気まぐれだったのよ。きっと欲が沸いたのね。十分事足りていた日々だったのにひとつ思い出すと他のことも思い出したいって考えるようになった。だからあなたに逢ってみたいってゲンと坊やにお願いしたの」
「そんなことならサプライズなんてしかけないで、素直に相談してくれたらよかったのに。本当に悩んでたんだからね」
「まさかあなたが覚えていないなんて思わなかったんだもの。でも幽霊という私の存在を受け入れられたんだから結果オーライよ」
サプライズのおかげでは全くなかったが露子さんは自分の功績のように言った。まあいっか。
「でも考えていた以上の速さで事が進んでるのが今は少し怖いわ。もし全部思い出したら私はどうなるのかしら。成仏して消えてしまうのかしら」
「成仏、したい?」
露子さんは答えなかった。ただ寂しそうに笑っていた。
「さあ、もう寝なさい。明日早いわよ」
覚束ない手はまるで母親の真似事の様に私の頭をなでる。感覚はない。
「あったかい」
慰めの言葉ではなかった。ただそう思った。