第17話
お風呂上りにも拘わらず汗が滲む。窓をあけて夜風を入れるが蒸し暑くてたまらない。除湿をかけようかとリモコンをとる。しかしまだ六月も入ったばかりなのにエアコンを入れるのは罪悪感がわくのでリモコンをベッドの上に投げた。
(早いけど近いうちに扇風機でも出そうかな)
今すぐにでも欲しい気持ちを抑える。風呂上りに納戸から取ってくるのは重労働…とはいわないが面倒くさい。今日は夜風でやり過ごすことにした。
バスタオルを首にかけて流れる汗を拭いながら、机に向かって出された宿題や予習復習に励む。暇を持て余している露子さんがのぞき込んできた。
「学生は大変ね」
「そうだよー…大変大変」
生返事を返す。カリカリとシャーペンを走らせる音だけがする。教科書を見ながら、走り書きしたノートからテスト用に別のノートにまとめなおす。そんな私をじっと見てくる視線が気になった。
学校で見た露子さんの表情が気になる。シャーペンをノートの上に置いて露子さんの方へ向く。
「訊いても良い?」
「なあに?」
「露子さんの願いのうちひとつは思い出すことだよね?もし、もしもだよ。それが忘れたいほどの辛い記憶でもいいの?」
「それは…」
「今日学校に行った時、胸がざわざわするって言ってたよね。学校ってある意味閉鎖された社会だし、もしかしたらいい記憶じゃない可能性もあり得ると思うの。記憶を失ってる理由の一端がその嫌な記憶にあるのかもしれないよね」
学校の話題を口にするとあからさまに嫌な顔をした。
彼女を追い詰めたいわけではない。それでも彼女の願いである記憶を取り戻すことを叶えるのであれば、勇気を振り絞る必要もあるはずだ。身勝手な考えかもしれない。それでも彼女の背中を押すべきだと思った。
「今日、図書室の白川さんあなたが着てる制服を知っていたの。勿論露子さんのことを知ってるかどうかはわからないけど、試しに訊いてみても良い?もし嫌ならやめておくけど、手持ちの情報がない今、手あたり次第でも知っていそうな人に当たってみたいんだ」
露子さんはぎゅっと眉を寄せ俯いていた。校門で生徒を見送る時のように今にも泣きだしそうである。
「やっぱりやめておく?」
私はどきりとして体が硬直した。彼女は射貫くように睨みつけたからである。特に何も言及しなかったが、その目は確かに「行くわ」と言った。生前の露子さんの負けず嫌いの一面を垣間見た気がした。
図書室の前で露子さんが仁王立ちしている。足は少し宙を浮いているので仁王浮きだろうかとくだらないことを考えていた。朝のうちに白川さんに約束をとりつけ放課後相談に乗ってもらうことになった。なかなか予約がとれないと聞くので運が良い。
「そんなに緊張しなくても」
幽霊に感覚があるのかは知らないが、見るからに露子さんは幽体に力を入れている。目がぎらつき、討ち入りにでも行くような形相である。彼女の姿も声も聞こえない北条君も傍にいて「空気が重い」と言うほどである。
「そういうの感じる方なんだ?」
目に見えない存在だが、北条君は直感が鋭い方なのだと思って問う。
「そんなことないと思うけど。人生で幽霊も妖怪も見たことないし」
「でもいい勘してる」
「無駄話してないで入るわよ」
「はぁい。露子さんが急かしてるから行こう」
あなたを待っていたのよ、と悪態をつくのをやめて図書室のドアを押し開けた。見慣れた図書室のドアが今日に限ってはまるで礼拝堂に入るような厳かで神聖な気持ちになる。露子さんの緊張が伝わってきたのか、掌は汗が滲みだした。
受付に座っている図書委員会の先輩に会釈をして通り過ぎる。
「いらっしゃい二人とも。どうぞ入ってきて」
図書室の一番奥に受付のカウンターとは別に広めのカウンターがある。更にその奥が白川さんの相談室である。
白川さんは何かしらの仕事の手を止めてカウンター内に招き入れた。
床に二、三段積まれている段ボールが道を作って並べられている。辛うじて歩く隙間を作ったとでも言わんばかりだ。
「奥の椅子に座って」
パイプ椅子がぴったりくっついて二つ並んでいる。テーブルを挟んで、向かい合わせにもう一つパイプ椅子が置いてある。手前に白川さんが座って、奥に相談したい生徒が座るのだろう。
北条君が奥に隣に私が座り、そして更に隣、椅子が置いていない場所に露子さんが浮いていて並んだ。左の肩が触れるか触れないかの距離が鼓動を早くする。静けさに鳴る鼓動が聞こえてしまわないかと考えるだけで更に早くなりそうである。
テーブルには置時計とカレンダーが置いてある。カチッと音がしたのは、丁度お湯が沸いて電気ポットの電源が切れた音だった。ポットのなかでボコボコと音を立てている。注ぎ口から湯気を天井に向かって広がった。白川さんは紙コップに緑茶のティーバッグを入れ熱湯を注ぐ。電気ポットのすぐ傍にお徳用と書かれた袋が置いてあった。
「ちょっと飲みにくいと思うけど」
ティーバッグの紙でできた持ち手がひょろっと、紙コップからはみ出ている。「あちあち」と言いながらテーブルに置いた。手で持つのも、口をつけるのも躊躇うほどの湯気が顔をくすぐる。
「さてさて、今日はどうしたの?」
私は横目で北条君を見ると同様に、彼は私を戸惑いの眼差しで見た。
「白川さん、この間橋戸中学校の出身って言ってましたよね」
先に口を開いたのは北条君だった。どのように切り出せばいいか悩んでいた私はほっとする。
「ええ。そうよ。あなたが描いてたあの制服着てたのよ」まだ家にあるかなと笑った。童顔の白川さんなら今着ても似合ってしまいそうだ。
「雨宮露子さんって知りませんか?」
白川さんの双眸が見開いた。
「なぜ知っているの?」目は口程に物を言うとはよく言ったものだ。口にはしなかったが、私にはそう聞こえた気がした。
「驚いた。久しぶりに雨宮先輩の名前聞いたわ」
「知ってるんですね!」
「知ってるなんて言えないわ。話したことなんて一度もないもの」
嫌に冷静に話す白川さんは、いつものほんわかとした雰囲気は一切感じられない。ひんやりした空気が狭い部屋を占めている。
「でも私が在籍していた頃の人は皆知ってるわ。でもどうして?どうして彼女のことをあなたたちが知ってるの?ご親戚の方?」
「い、いいえ…」
「どういう関係なの?」
なんと言えばいいのかわからず声が出なかった。白川さんが露子さんと私たちの関係を尋ねる理由がわからなかった。しかしすぐに察する。故人とはいえ他人のことをべらべら話すことは、白川さんは絶対にしないだろう。相談に乗るだけあって、秘密はきちんと守ってくれる。そういうところが信頼されているのだ。
「和傘を」
私は俯いて冷え切った空気に耐えるばかりだった。そんな情けない私に気付いてくれたのか北条君が沈黙を破る。
「彼女の和傘を訳があってうちで預かってるんです。古くて状態が悪くなってるんですが、紙が弱ってるので直してからご家族様に返したいんです」
北条君の嘘は優しい。誰かを傷つける嘘じゃない、彼がつく嘘は本人の普段の行いか、本来の人の良さからか、どこか免罪符の力があるような気がする。
「ご家族様、ね。雨宮先輩のご家族を知ってる?いいえ、知らないわね」
しかし当時を知っている白川さんにその嘘は通じない。白川さんの声のスピードが落ちる。
「詳しくは言わないけど、いいご家庭ではなかった。今になって彼女の形見を欲しがるとは思えないのよ」
「プライベートなこともご存じなんですね。話したことがないと仰ってたのに」
北条君はまっすぐ白川さんを見据えた。心臓が飛び出しそうな緊張感に苛まれている私とは違って恐ろしいほど冷静でいる。
「有名人だったからね。さっきも言ったけど彼女を知らない人はいないわ。」
露子さんを横目で見る。確かにこんな美少女がいれば目も引くだろう。数日一緒に過ごしていても、目が合うと時が止まったような感覚すら覚える。白川さんの話ぶりからすると、それがいい意味ではなかったのだと察する。
「悪いことは言わないわ。雨宮先輩のご家族さんに関わらないで」
今までにないくらい真面目な顔で言った。白川さんがそれほど何を心配しているのかわからなかったが、本気であることはわかる。それでも私たちは首を縦に振ることはなかった。
「和傘のこと。本当に雨宮先輩のもので間違いないの?」
「はい。それは、はい、間違いないです」
「それなら多分、雨宮先輩の同級生の家で作られたものだと思う」
これでは手を引かないと察した白川さんは諦めさせる手立てを考えているようだ。
「以前はあの町に和傘を作ってる小さな会社があったわ。今はどこか別の場所に引っ越したって聞いてるけど…」
深さも幅もある大きなトートバッグに手を突っ込んでガサゴソと探っている。「あったあった」とスマホを取り出して指を滑らした。
「今はS県にあるみたい。これ」
白川さんはスマホの画面を私たちに向けて見せた。店の名前である『和傘渡邊』の文字が左上に書かれ、中央には色とりどりの和傘の写真がずらっと並んでいた。露子さんも画面をじっと眺めている。
「和傘の修繕くらいなら行ってみてもいいかも。でも行くなら条件があるわ」
「条件?」
「私も同行させて頂戴」
「でもどうして?」
「S県まで二人で行くなんて反対よ。私は教師ではないけど、学校の関係者である以上、保護責任の義務があるもの」
尤もらしい理由を言われる。北条君にどうすればいいかアイコンタクトをとる。彼も同じ気持ちでいるようにこちらを見ては困った顔をしていた。
「断っても駄目よ。何がなんでも着いていくから。一応和傘に興味を持った生徒の社会見学って名目ね」
「わかりました。お願いします。」
ここまで言われると断る言い訳も思い浮かばない。立ち上がってお辞儀をする。次の休みである日曜日に約束を取り付けてられるか連絡してみると白川さんは言った。お互いの連絡先を交換して図書室を後にした。