【永禄五年(1562年)四月上旬/中旬】
【永禄五年(1562年)四月上旬】
進められていた準備が整い、北方への派遣船団が出発することになった。総大将は青梅将高で、南蛮船風外洋商船として開発した昴試作型の三隻構成での船団となっている。
新田の大中黒の旗を掲げた南蛮風の船というのは、立ち寄り先でどう捉えられるのだろうか。まあ、南蛮船の姿を実際に目撃した者は、奥州にはごく少ないと思われるが。
積み荷の手配と船団の組織は、川里屋の岬と芦原道真を中心とする内政要員が連携してまとめ上げてくれた。さすがに、通常の商船の手配とは勝手が違い、苦労したようだ。
鎧島から房総半島を回って勝浦に寄り、鹿島を経てから深谷……、元時代での東松島の長江月鑑斎と、久慈の久慈氏・九戸氏から九戸政実を訪ねて蝦夷地方面へと向かう予定となる。
元時代の函館辺りに蠣崎氏の拠点があるはずで、青森辺りでは浪岡北畠氏が勢力を維持しているだろう。そのどこかと友誼を結べればよいのだけれど。
武装としては、バリスタ、硫黄矢、鉄砲などを装備しており、その辺りの水軍、海賊衆にもそれほど後れは取らないと思われる。……そうあってほしい。この船団が全滅でもすれば、きつい痛手となってしまう。
船団を送り出した頃、大砲の試作が上がったので、試射を実施したいとの話が出てきた。暴発が怖いが、まあ、やってみるしかあるまい。
今回は小さめに留まっているが、青銅製でずんぐりした臼砲と、鋼鉄製の細長い加農砲の二方式で幾種類かずつが、用意された。
どちらも一体成型の前装式で、砲弾は丸い鉄製のいわゆる実体弾となっている。炸裂式の榴弾の検討は、まずは飛ばせるようになってからの話だろう。
気密性と強度の関係から、試射においては射手は着火して弾を込めたらすぐに逃げ出す方式とした。並べられた多様な大きさの臼砲、加農砲には既に火薬が仕込まれており、導火線に着火しつつ弾が込められる。
ガス漏れによる不発はあったが、幸いなことに砲身破裂は起こらなかった。飛んだ先は様々で、計測のための人数が駆け回っている。
「砲弾の方の加工が問題かしら」
「いえ、弾は護邦殿の話ですと、中空にして火薬を詰めたり、物を詰めたりと様々なようです。気密性を高める材質のものでくるむ方向で考えてはどうでしょう」
「火薬量と配置、爆発までの時間も一定化させないとね」
「ただ、それには砲の大きさをまず固定しないと」
開発局を束ねる笹葉と、根来から加入した芝辻照延が真剣な表情で言葉を交わしている。
「なあ、護邦。あの弾が飛んできて当たったら確かに人は死ぬじゃろうが、ちょっと大げさすぎにも思えるのじゃが」
蜜柑の感想はもっともである。今回のは、大砲と名付けるのは微妙で中砲とでも呼んだ方がいい大きさだった。
「砲はあの倍くらいの大きさで、弾も一抱えくらいのものになりそうなんだ。そのうえで、弾は着弾する頃に破裂して、破片を撒き散らしたり、といった感じでな」
「それは……、凶悪じゃな」
「まったくだ」
家中の反応は様々で、単に見世物として楽しんでいる向きもいれば、蜜柑同様に意義に疑念があるのか、首を傾げている者もいる。
そんな中で、興奮しているのは、澪の配下である弓巫女の一人、<砲術>スキル持ちの桔梗だった。
「これは、どうやって使いましょう。人が抱える形ですか? それとも固定しますか。あ、固定しないと、狙う先が一定しませんね。運ぶには、手押し車か、牛車か……」
「船にも載せられますな。角度を固定するか……、いや、角度を調整する台を幾つか作りますか」
こちらも興奮気味で食いついてきたのは、九鬼澄隆だった。将来的には海上砲戦も……、いや、城への艦砲射撃が先か。海からもそうだが、川を船で移動して、そこから砲撃というのも考えられる。
ステータス欄を覗いてみたが、九鬼の若き当主には、特に砲術関連のスキルは見当たらなかった。この場合は、好きこそものの上手なれということに、果たしてなるのだろうか。
大砲の試射には、幹部級と部隊長級を連れてきている。明らかな興味を示しているのは、上泉秀胤に、甲賀者の大河原重久、芥川晴則といったあたりだった。
今後は、興味を持った者を募って、さらなる開発、運用試験へとつなげていくとしよう。
海産物は厩橋でもすっかり定着し、大泉湊からも含めて各地に流通するようになってきていた。
居酒屋の翡翠屋も各城域に出店して、人気を博しているようだ。そして、ラーメン屋も急速に普及しつつあった。
海のものとしては、真珠の養殖において、試行錯誤しながらも成功事例が出てきていた。今のところ江戸湊周辺も上杉勢力圏のため、その辺りにも広げている。塩田造りチームが併せて担当してくれているため、アコヤ貝にとって居やすい環境ながらも外洋に行ってしまわないような養殖池を試してもみていた。
天然物の真珠が高値で取引されているらしいからには、養殖には力を入れていきたい。真珠採り名人の紹介で、真珠集めに通じた漁民を召し抱えたので、活躍を期待したいところだった。
【永禄五年(1562年)四月中旬】
対北条戦線は膠着状態に入り、軍神殿は里見との連携も視野に千葉氏の拠点である国府台城方面へと牽制に出ているようだ。
上杉が北条を滅ぼすと腹を固めてくれれば、我が新田は全力を挙げて協力するのだが……。やはり、その覚悟は見受けられない。
関東の安寧をだとか、信濃諸将への指図をといったお題目はあれど、やはり上杉輝虎は一義的には越後の国主なのだろう。そう宣言してくれれば、別の動きもあり得るのだが。
いずれにしても、新田としては軍備の増強に励むしかない。その一環として、桐生織と那波織に手分けしての旗幟や信号旗などの軍旗の製作を依頼した。
旗幟とは、この時代には縦長の旗を上と横の二辺で固定したもので、それ以前の流旗よりも旗印の視認性が上がっている。
大中黒、一つ引きとなると、長方形の白旗の中央に太い黒の部分を配置し、上から白黒白の状態となる。シンプルで目立つ、力強い旗だと言えるだろう。
将帥級の旗もこちらで用意する形となる。青梅氏は平将門を出した桓武平氏由来の九曜紋と呼ばれる、中央の丸をやや小さな八つの丸が囲む形で、明智氏は水色の桔梗紋だった。
平将門を裏切った寵姫が桔梗という名だったため、将門の墓に桔梗紋を近づけるななんて伝承もあるようだが、青梅将高と明智光秀はどちらもその話を知っていて苦笑していたくらいなので、問題はないだろう。
ひとまず本陣を示す新田一つ引きと、主将級の青梅将高、明智光秀の旗幟、そして新田勢であるのを示すために各部隊に配する一つ引きの流旗と、伝令的に使う信号旗まで用意したが、その先は今後の検討としよう。もちろん、各自で用意するのはかまわないけれど。
新田側から働きかけたわけではないのだけれど、伊賀、甲賀からの移住者は更に増え、戦闘要員ではない婦女子や老人も多くなってきた。それだけ、運命を共にしようとの機運が高まっているのだろう。
もちろん、伊賀や甲賀が放棄されたわけではなく、移住希望者がある程度まとまるごとにやってきているのだそうだ。
伊賀の代表者は藤林文泰、甲賀の代表者は高峰数信が務める形となっている。最初にやってきた老齢の忍者、伊賀の蝶四郎、甲賀の鳩蔵は後見役といったところだろうか。
そして、蝶四郎は百地清右衛門という名で、なんと、百地丹波の父親であると判明していた。鳩蔵の方は、叩き上げの尊敬された人物らしい。
厩橋近郊にある新田忍びの里とは別の場所にそれぞれの里を、との要望が出たので、どこがいいかと聞いてみたところ、伊賀が国峯城域、甲賀が安中城域のそれぞれ山沿いに里を築きたいとの話だった。
現時点で武田との前線であるのによいのか、との問い掛けは幾度も行ったのだが、むしろ、前線だからこそだ、と表明されてしまった。
新参の我らが信頼される機会になれば、と言われても、運命共同体だし、とっくに信頼しているがなあと応じるしかない。
高峰数信などは苦笑して、里まで攻め込まれたら武田に通じるかも知れませんぞ、などと際どい返しをしてきたが、そうならないような勝ち方をするしかない。と言うより、そこは生き残りの必須条件なのだった。
実働部隊の指揮は三日月に一本化されているが、新設される伊賀の里、甲賀の里の集落としての運営は、両者の故地での序列を踏まえた人選となるようだ。それは、ある意味では間違いのない選択なのだろう。
そうであるならと、伊賀者で新田の末裔らしい小沢智景と、穏やかな甲賀忍者の多岐光茂を表の忍者隊に配置する形で調整を済ませた。平時は盗賊退治、戦時は遊撃隊として、伊賀、甲賀とは別系統での登用となる。
蜜柑を筆頭にする橙上衣の女性剣士と、剣豪隊、陽忍の盗賊討伐隊は引き続き活躍中で、すっかり市井の人気者となっていた。








