【永禄五年(1562年)二月上旬/中旬】
【永禄五年(1562年)二月上旬】
古河で一息入れた軍神殿は、有無を言わせぬ勢いで東方へと進出した。香取海の北岸・西岸地域にひしめく諸将は、一度は彼に従って北条攻めに参加したため、北条方についたのを裏切りだと捉えているのだろう。
上杉輝虎という人物は、いったん傘下に入った人物の離反を激しく憎むところがあるようだ。一方で、改心して戻りたいと言われれば、さほど不利益を与えずに赦す傾向も見られた。それは、関東の諸将に対してだけではなく、越後でもそうだった。史実では北条高広は二度にわたって帰参したし、乱を起こした本庄繁長も家中に留まっている。
進軍先の小山高朝、小田氏治、結城晴朝らは相次いで恭順の姿勢を示し、従属状態が復活したのだった。小山高朝は既に隠居していたようだが、今回で完全に小山秀綱に代替りとなるようだ。
まあ、関東管領就任式で騒ぎを起こし、小荷駄を焼くという明確な敵対行動をした成田長泰すら、史実では家の存続は許されたわけなので、あっさりと滅ぼしてしまう俺の在りようが異常なのだろう。ただ、この地の風習に染まることが正しいとも思えないのだった。
軍神殿の軍勢に同行したことで、香取海を初めて目にすることが出来た。元時代の霞ヶ浦が巨大化したようなこの内海は、坂東の東部で大きな存在感を放っている。
史実では、徳川家康が江戸にやってきてから始められた、いわゆる利根川東遷事業などの影響で、埋まっていったとされている。
江戸湾に注いでいた利根川が東に向けられ、農地確保向けの干拓が盛んに行われた上、浅間山の天明年間の大噴火による降灰の影響もあったのだろう。
既に史実と変容しつつあるこの世界では、さてどうなるのだろう。今のところは、穏やかな風景を楽しみたいものだ。
……まあ、そうは言っても、他の土地と同様に古代から血なまぐさい争乱の現場になってはいたわけだが。
【永禄五年(1562年)二月中旬】
南方への進出には、その辺りを地元とする岩付太田勢に加えて、新田氏、佐野氏に、小山、小田、結城勢も少数ながら加わった。最後の三者は、嫌々ながらという態度を隠し切れていない。
現時点で、また北条に寝返る覚悟を固めているというよりは、その場その場で有利な選択をしているに過ぎないのだと思われる。そして、それにしても、南方への従軍は彼らにとって旨味のない行動なのだろう。
小田家から派遣されたのは、小田原攻めの際に少しだけ言葉を交わしたことのある菅谷政貞だった。理性的な人物のようなので、その点はよかった。
一方で、佐竹、宇都宮からは軍勢は送り込まれていない。まあ、史実の佐竹は、概ねは上杉方だったとは言え、実際は自分たちの都合に合うかどうかで判断していたようにも見えるので、おそらく思惑があるのだろう。ここしばらくは、北の白河結城氏の圧迫に精を出しているらしい。
南下軍の目標となるのは、いずれも武蔵国の江戸城、世田谷城、滝山城、勝沼城とされた。元時代だと、皇居、世田谷区、八王子市、青梅市の辺りとなる。
まず江戸城が陥落し、江戸太田氏から岩付太田氏の手に移った。江戸太田勢は、小田原方面へと落ち延びていった。
鎧島城は新田が引き続き保持しているので、親上杉勢力内で陸海の連携が取れるようになる。一方で、太田資正は江戸湊も勢力圏に収めたがった。軍神殿からは、河田長親経由で問題ないかとの問い合わせが来たが、好きにさせてかまわないと応じた。太田氏によって関税的な津料が高く設定されれば、鎧島での取引が増えるという流れになるかもしれない。
世田谷城、滝山城、勝沼城は、上杉勢が中心となって攻略が行われた。新田勢は待機していてかまわないとの話だったので、鎧島でのんびり過ごさせてもらうことにした。もちろん、塩田の改良、造船について、真珠養殖絡みなど、対応すべき事柄は山積みだったが。
用土重連が近習つながりで聞き込んできたところによると、新田を前面に出したくないという、太田資正の意向が反映された動きらしい。
こちらとしては、損害が少なくなるので大歓迎である。結果として、江戸城と世田谷城は岩付太田氏が確保し、滝山城には斎藤朝信が入り、勝沼城も上杉が得た。これで、八王子まで加えた山手線、京王線ラインが上杉方の手中に収められた形となる。
対する北条勢は、小机城、津久井城の、八王子が抜けた横浜線ラインで対抗している。
今回の攻勢で北条が滅ぶのだとしたら、世田谷城と江戸城のどちらかは新田が欲しいところだった。ただ、この段階でも、俺はやや懐疑的にならざるを得ない。
軍神殿は、傘下に入った勢力の離反を憎むが、帰参すれば無条件に近い形で許容する場合が多い。それに加えて、敵勢力を攻め滅ぼすことはほとんどなく、降伏してくれば受け容れる傾向も見られる。
北条が現時点で降参的な和議を求めてくれば……。あるいは、小田原周辺まで押し込んでからであっても、あっさりと応諾しそうに思える。
そもそも、得た城のほとんどを協力勢力に与えているところからも、本気で関東を制圧する気があるのか、疑問が残るのである。滝山城、勝沼城も、岩付太田からの申し入れがなければ、新田が得ていたかもしれない。
北条と和議を結び、軍神殿が越後に戻れば……。当然ながら、北条は勢力の回復を目指すだろう。いい悪いではなく、そういう時代でもある。さらには、武田家がこのまま黙っているかどうか。
そう考えると、単純に版図を広げればいいというわけでもなくなるのだった。
塩田の改良については、笹葉から新機軸が打ち出されていた。
水路を作り違えて海水が滴ってしまう状態が生じたのが発端だった。落ちた先に塩が固まっていたというのである。
どうも、風によって水分が飛んだのではないか、との発想から、水滴が落ちるような流路を設置したり、布を伝わせて風を送ったりと色々と試した結果、竹の小枝を竹箒状にして吊るし、その上から海水を滴らせるという手法に発展したのだという。
「形からすると、古代の藻塩みたいだな。あれも確か、海藻を枝に立て掛けて、上から柄杓で海水をかけてから焼いたらしいから。なんでそんなやり方なのかわからなかったんだが、乾燥を早める効果があったのか……」
「そういう知識があるんだったら、早く言ってよ」
不満顔の笹葉に背中をつねられた。なかなかの強さで。
「いや、でも、藻塩よりもまったく高度だろ、これ」
「既存の塩田はそのままで、仕上げのところにやってみてるんだけど、てきめんに量は増えてるよ」
女性発明家は、誇らしげで柔らかな視線を新方式の装置に向けていた。
やはりこの人物は頼りになるのだが、後に続く人材が育っていないのが、やや気になるところではあった。弟子的な存在は、作業は得意なのだが、発想力に欠けるらしい。
まあ、こういった能力の持ち主は、そうそうは現れないものかもしれない。今後の登場に期待するとしよう。








