【永禄十五年(1572年)夏~秋】
【永禄十五年(1572年)七月】
武蔵国分寺の崖上……、元時代での武蔵国分寺公園の辺りが仮御所と決まった。場所把握が細かいのは、元時代での俺の地元だったからでもある。
ただ、地名を国分寺とするわけにはいかない。本来なら、公家らの知恵者が額を寄せ合って相談して決めるのだろうが、関東には近衛前久と窮乏して関東へ逃れてきた下位公卿しかいない。それでも色々と案は出たようだが、最終的には帝から呼び出しがかかった。
「ちと訊ねるが、見坂村は今、どうなっておるかの?」
「見坂村……ですか。廃村になったと聞いておりますが」
「なら、よかろう。ここもまた、坂の見える立地である。見坂御所と名付けたいのだが、かまわんか」
「けれど……、撫で斬りに遭った村の名ですが」
「新田が興るきっかけとなった村なのであろう? 相応しいと前久も申しておる。その村と同様に、多くの者達が命を落としてきている。せめて寄り添いたい」
「はっ」
応じた俺の目頭には、熱いものが生じていた。
見坂仮御所に、近隣の諸将が集まった。首座は関東管領の軍神殿に任せようとしたのだが、官位の関係でそうはいかなかった。
下された勅命は、京の奪還と足利尊棟の追討だった。本願寺はいいのだろうか? まあ、そこは成り行きで、ということになるのかもしれない。
さすがにこうなってしまうと、諸将の接待役を放棄するわけにはいかない。関東からは千葉氏と佐野氏が、越後からは上杉と半独立勢力となった本庄繁長が、奥州からは北畠、大浦、久慈、九戸、長江らが。新田の客将、臣従勢からは、松平、北条が。そして、武田と今川も参加していた。
武田義信とは、今回が初対面となる。信玄とも面識はないのだが、武田の若き当主は朗らかな人物であるようだ。久々の対面となるはずの飫富昌景、春日虎綱とも楽しげに会話をしていた。
それ以外は、なんだかんだで顔馴染みである。お茶と菓子でもてなしつつ、今後について話し合った。
織田信忠との連携が成立すれば、東方勢が連携して西進することが可能となる。織田家が領内を通過させてくれるかどうかは、今後の折衝となる。軍勢を海路でとなると、なかなかの難事業となってしまう。
東国諸将が戦さ支度を本格化させた頃、上方から不穏な情報がもたらされた。信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺の門跡にして、天台座主である覚恕が、還俗して天皇として即位したという。
この人物は今上……、正親町天皇の異母兄なのだそうだ。となると、確かに順当……なのか?
当然のように将軍宣下が行われ、足利尊棟は室町幕府の第十六代将軍となった。その尊棟は、引き続き大宰府を拠点に西国統治を行い、京は本願寺に任せているようだ。
かくして、天皇が並立する状態となってしまった。南北朝ならぬ東西朝といったところだろうか。
そして、本願寺勢が近江へ攻め込み、伊勢では長島一向一揆に大和を越えてきた畠山勢が合流した。越前に入った加賀一向一揆は楠木勢が抑えているが、やはり信長の死の影響は大きいようで、押し込まれている印象が強い。
織田に崩れられると、色々とややこしくなる。支援を受け容れてくれるといいのだけれど。
【永禄十五年(1572年)十月】
織田と東方勢の連携交渉が整い、事実上の東国連合が成立した。
伊勢には、織田方の楠木勢と新田から雲林院松軒率いる軍団に、九戸、北条が。
美濃から近江には、織田の本隊と武田、新田の神後宗治軍団、それに本庄繁長の手勢が。
北陸方面からは、上杉と新田本隊に、松平ら、大浦、北畠らが攻め上ると決した。
翌年を期して、東西対決が行われることになるだろう。