【永禄十五年(1572年)春】
【永禄十五年(1572年)四月】
雪の多い冬が過ぎ、春になった。日常は続いているが、情勢も緊迫してきている。
足利幕府は明らかに強化されているが、京を確保するつもりはないようだ。本願寺は、寺社勢力である自分たちが京を武力制圧している意味がわかっているのだろうか?
足利尊棟は反抗的な勢力に手勢を派遣し、片っ端から討伐しているそうだ。得た捕虜は、奴隷として売却しているという。正親町天皇の勅令は把握しているだろうから、意趣返しなのかもしれない。けれど、そこまでやるか……。
一向一揆勢から選抜したという直属部隊は精強であるようだ。俺と同様にステータスが見られるのだとしたら、ある意味で当然だろう。鉄砲も高度で、水軍もおそらく元時代知識による改良が施されていると思われる。
現状も、元時代での戦国SLGのプレイヤー同士の印象としても、手強いの一言である。敵対することになるのだろうか。動きからして、そう想定しておいた方がよいのは間違いなかった。
【永禄十五年(1572年)五月】
八丈島=香港船団のうちの一隻が、鎧島へと戻ってきた。情報を知らせようと、先行してくれたそうだ。
ポルトガルが色めき立っているので何事かと思って情報収集してみると、足利将軍家から九州北西部を割譲するから、同盟を組もうとの申し出があったのだそうだ。
さらに、よその商人からは、スペインが四国南部……、つまり土佐を獲得する模様だ、との情報も入ってきた。なんとも派手な話である。
小桃が探った範囲では、ポルトガルは日本での戦争になりかねないと、やや危惧しているようでもある。ただ、もらえるとなれば、スペインへの対抗上も黙ってはいられず、そのあたりを本国に打診中だそうだ。
一方のスペインは、マニラの総督が大いにやる気らしい。彼らの領土欲の強さはさすがである。
足利尊棟は、四国をあっさりと制圧したようだ。領土割譲は、攻め取れという話ではなく、平らげてから渡すつもりらしい。
そして、本拠を太宰府天満宮に定めたという。なにやら、足利尊氏とかぶって見えるが、現状の足利の当主は京を追われたわけではない。
キリシタン大名の大友、有馬、大村はあっさりと従ったようだ。……彼らが入信するのはもう少し後だった気もするが、その点も早まっているのか。
毛利、島津あたりがどう動くか、そこが鍵になりそうでもある。
【永禄十五年(1572年)六月】
このところ、京の情勢をにらみつつの内政対応で時間が取られていて、船旅はだいぶ久しぶりとなる。まずは直江津から佐渡へ、それから目的地へと向かう予定だった。
佐渡は本庄繁長が引き続き張り切っていて、開発が進展している。現状は新田との共同統治だが、金山銀山の開発会社さえ独立させれば、任せてしまってもいいのかもしれない。
向かう先は、隠岐となる。配流された貴人を救出するための急襲部隊が編成されていた。
「今上をお救いに行くなんて、わくわくします」
張り切っているのは、小舞木海彦である。上州の金山城域出身で、水軍スキル持ちの孤児だった人物は、すっかり水軍の一翼を担っている。
「ああ、相手の配備がわからなくてすまんが、どうにか成功させたい」
「はい。意義は理解してます。親玉の身柄を取るんですよね!」
「ああ……、まあ、そうだな」
理解としてはまったく間違っていないのだが、表現が……。
「海彦には、利根川水軍だった頃から、助けられてばかりだな。頼りにしている」
「お任せください。どれほどの犠牲を出しましても」
「なるべく、少なくしてくれよ」
「それはもちろん。ですが、しつこいですけど、意義は理解してます」
もちろん、海彦にしても部下を死なせたいはずもない。丸みのあった頬も引き締まり、すっかり精悍な顔つきとなっている。
……俺の顔つきはどうなっているのだろう? 精神年齢はあの頃のままのような気もするが。
天皇、皇子、それに生まれて程ない皇孫も、無事に救出することができた。意外なほどに防備は薄く……、いや、ほぼ皆無だった。守る気はなかったのだろうか。
主上の前で跪くと、手を取ってくれた。やはり、心細かったのだろうか。
「よく来てくれた」
「いえ、遅くなりました。また、防げずにすみません」
「ふっ……、上杉と組んで上洛してくれていればと思うが、言っても詮無きことよ。それで、どこへ向かうのだ」
「関東へお連れするつもりですが、まずは佐渡へ。そして越後へ」
「任せる」
かくして、お三方と供の者たちを連れて、船団は佐渡へと向かったのだった。
春日山城で上杉輝虎と対面した主上は、陸路で厩橋へとの俺の勧めを拒否して、海路で向かいたいと主張した。譲る気配はないので、仕方がない。
再び佐渡に立ち寄り、湊安東の土崎湊と、新田が引き続き確保している十三湊を経て、蝦夷地、北畠御所、久慈、深谷、鹿島神宮、香取神宮、勝浦、鎧島を巡る。そのたびに、今上ら海上巡幸の一行は盛大な歓迎を受けたのだった。
利根川遡上の早漕ぎ櫂船には歓声を上げておられたし、厩橋の様子にも好感を持ってもらえたようだ。その点は、素直にうれしかった。そして、出迎えた近衛前久卿とも久闊を叙しておられた。
「護邦殿、御所を作るならどこでおじゃろう。厩橋がよろしいか?」
まさかの展開に、いまだ青年公卿の範疇に入るだろう近衛の当主は張り切っているようだ。
「そうですなあ。江戸の西に、安定した台地がありまして。武蔵国分寺があったあたりなどいかがか」
用意しておいた粘土箱で示すと、前久は渋面を作った。
「この崖下でおじゃろうか。主上のお住まいが見下されるのは、うまくないのう」
指摘の通り、武蔵国分寺の跡地は国分寺崖線の下にある。
「では、その崖上辺りはいかがですかな。水路を引いて、開発しようとしておりました。崖下の湧き水を汲み上げることもできますし。見晴らしはよいかと」
「それはよいでおじゃるな」
ともあれ、実地を見てみようとの話になった。本決まりとなれば、宮大工勢が総動員される形となるだろう。