【永禄十四年(1571年)夏~初秋】
【永禄十四年(1571年)八月】
織田信長を討った勢力が判明した。足利義昭から家督を譲られ、幕府を暫定的に率いている人物の名は、足利尊棟というそうだ。
足利の通字は、源氏から引き継ぐ「義」の字で、「尊」は初代将軍の尊氏を連想させる。尊氏の「尊」は北条高時の「高」の偏諱を受けて、後に字を変えた形だった。
そして……、尊棟を音読みすると、ソントウとなる。元時代の秋葉原でのオンラインゲーム大会で戦うはずだったのは、震電こと俺に、陸遜、双樹、そして、もうひとりがソントウだった
足利尊棟は、本能寺で信長を討っておきながら、直衛軍を率いて三好三人衆の根拠地である四国に攻めかかったそうだ。足利将軍を殺害した者達は許さないということなのか。
さらには、足利幕府を再構築すると宣言しており、槙島昭光、三淵藤英、細川藤孝ら奉行衆を従え、さらには甲斐武田から放逐された武田信玄までが参加しているそうだ。従軍する直衛戦力は、一向衆から選抜された者達らしい。
足利将軍家には、武田信虎も出仕していたはずなので、共に息子に追放された父子が共闘する形になるのだろうか。
三好三人衆といっても、既に三好長逸、三好宗渭は故人となっており、土豪出身の岩成友通が盟主となれるはずもない。
そして、本願寺水軍は村上水軍と共闘していて、瀬戸内の制海権は掌握済みのようだ。
京は完全に本願寺が制圧した模様である。元々が大大名並みの動員力のある勢力だけに、本気になればいつでも、という状態だったのかもしれない。
【永禄十四年(1571年)九月】
三好勢の主力に一撃を喰らわした幕府軍……と呼ぶべきかどうかは判断に迷うが、阿波と摂津、河内を制圧した足利尊棟の軍勢が上洛を果たした。本願寺とは同心状態なのだろうか。
信長を失った織田家は、混乱状態に陥ったようだ。元服して信忠となった奇妙丸が継位の本線だが、北畠、神戸に養子入りした弟たちもいるし、彼らにとって叔父となる織田信興を推す声もあるようだ。
その間隙を狙ったのか、加賀の一向一揆が越前に雪崩込み、後継争いの関係で主将が不在だった柴田勢が一掃されてしまったそうだ。この柴田勝家が織田信興を推す最有力者だったので、発言力の低下は免れないところだろう。
浅井長政と共同して北近江を防衛しつつ、伊勢は楠木信陸が制圧しつつある。長島一向一揆の元時代でのやりようは把握していたらしいので、対応できた部分が大きいのかも。
そして、どうも若手武将らで結束が固まっているようだ。この時点では、木下秀吉は目立ってはいても、抜きん出た存在ではないと思われる。楠木信陸と木下秀吉、前田利家、佐々成政らが連携すれば、中堅をどれだけ巻き込めるか次第で、話は変わってくるかもしれない。さらには、信忠の傅役としての池田恒興も鍵を握る存在となるだろう。
そして、まさかの情報が入ってきた。天皇が……、今上が隠岐へ配流されると決まったという。思わず、いつの時代の話だよ、と聞き返してしまった。
理由は、足利尊棟への将軍宣下を拒否したためだそうだ。まあ、それだけではないのかもしれない。
そして……、毛利元就が死去したとの報せももたらされた。西国の英雄は、史実と同年に命を落としたわけか。