【永禄十四年(1571年)冬~初夏】
【永禄十四年(1571年)正月】
年末年始で多くの勢力の当主、有力者らが集まると、足利義昭の反信長活動の件が話題になった。決起を求める手紙が多くの領主のところに届いているのだった。
織田の反撃は続いており、三好三人衆は摂津から追い払われ、六角氏は甲賀に再び逃げ込むも、ほぼ崩壊状態であるようだ。
本願寺は大坂本願寺……、元時代で言うところの石山本願寺となる拠点を構えて、反信長の姿勢を明らかにしている。大和では、三好義継、松永久秀が健在だった。
そして、信長は越前の朝倉氏を攻める準備を進めているようだ。軍神殿としては、朝倉氏との関係は良好だったため、やや複雑そうではあるが、間に越中、加賀があるために手出しをするつもりはないようだ。越中でも一向一揆が活発化しているとのことで、その対応に手を取られてたまらぬ、と苦い顔だった。
比叡山延暦寺に対するのと比べれば、本願寺との戦さは特に抵抗はないようだ。一向一揆は各地で猛威を奮っており、多くの勢力が手を焼いているので、戦っても特に違和感がないためか。むしろ、狂信者として徹底的に討伐されている気配すらある。この時代の宗教観はよくわからない。
ただ、現状での信長の本願寺対応は、攻囲までに留まっているようだ。史実のような奇襲的な参戦でなかったのも、影響しているのかもしれない。
【永禄十四年(1571年)四月】
信長は越前攻略に向かった。一方で、京に駐在していた楠木信陸は、森長可に後事を託して伊勢攻略に回ったようだ。
これまでの伊勢は、織田による侵攻を受け、北畠やその他の伊勢の名家が信長の血族を送り込まれた形でひとまず安定していた。だが、長島一向一揆の活性化によって、状況は一変したのだった。
その勢いには、陸遜も手を焼いているらしい。まあ、正直なところ、俺も一向一揆の相手はしたくない。この点については、出現したのが関東で本当によかった。
坂東に本願寺勢力がほとんどいないのは、おそらく遠くて貧しい土地だったからなのだろう。逆に畿内で北陸や東海ほどの圧倒的な威力でないのは、住民の宗教への距離感からか。
その本願寺、大和勢を除いて、近畿の反信長勢力がほぼ鎮圧されてしまったため、足利義昭が遠方への策動を本格化させているのだろう。東国の状況は、新田から織田方へとそれとなく伝えておいた。
【永禄十四年(1571年)五月】
手紙攻勢の件で、信長が足利義昭を詰問したらしい。まあ、そうなるか。
ただ、その反応は激しいもので、義昭自身が反信長で挙兵をしたのだった。なにやら展開が激しい気がする。
この世界には、突貫工事で築かれた二条城……、いや、二条御所は存在していない。義昭が籠もったのは、幕臣・槇島昭光の居城である槇島城だった。
京周辺にも、香取海と同様にやがて姿を消してしまうはずの湖沼が存在する。槇島城は、その一つである巨椋池に浮かぶ島にある水城である。
ただ……、結局のところ、この頃の足利将軍とは、独自の武力はほとんど持たない、推戴されていた権威の名残に過ぎないのだろう。それを自覚して動けば、まだやりようはありそうだったのに。
結果として、至極あっさりと攻略され、降伏した義昭は放逐される形となったようだ。淡路島方面へ逃れたと言うから、三好三人衆を頼るつもりなんだろうか。
史実で追放された際には鞆に向かって、幕臣もある程度ついていき、鞆幕府とも呼ばれる状態が生じたはずだが、二年ほど展開が早まっている。そのためか、本格的な大坂本願寺攻めが始まっておらず、毛利が参画していない影響が大きそうだ。
【永禄十四年(1571年)六月】
足利義昭が淡路島で家督を譲った、との話が伝わってきた。息子はまだいないはずなので、一族の者に対してだろうか。いまいちよくわからない。
史実での足利義昭は、京を追われた後も鞆で将軍として活動していたのだが、歴史的にはその流れはほぼ黙殺されていた。一方で、息子や一族の別系統の者への継位を目指さず、自分の代で室町幕府に完全に幕を下ろす形となった。
その義昭が、この段階で家督相続というのは、ずれ過ぎなようにも思えるが……。
織田家は、越前の朝倉義景、河内、大和の三好義継、松永久秀を破って、畿内をほぼ制圧した状態となった。摂津から播磨方面にも進出しているそうだが、義昭放逐が早まったことがどう影響するだろうか。
現状の織田勢は、大坂本願寺、それに越中、伊勢長島の一向一揆勢と睨み合う形となっている。信長包囲網がいったん解消された形となるので、一気に討滅してしまう可能性も考えられた。
次回以降、区切りの都合で短めの回が多くなります。