【永禄十三年(1570年)夏~冬】
【永禄十三年(1570年)七月】
引き続き、近畿で動きが激しくなっている。六月に入ると、甲賀に逃げ込んでいた六角勢が南近江に入って、織田、浅井連合軍に撃退されたそうだ。
その他の情報も踏まえて考えると、六角の動きはよその勢力と連動していたのかもしれない。六月の中旬には池田勝正が家臣の荒木村重と弟の池田知正の裏切りに遭い、三好三人衆が摂津へと招き入れられた。
大和の松永久秀、三好義継は、正面切って反織田信長、反足利義昭を表明したわけではないが、動員をかけているからにはそういうことなのだろう、とは陸遜の分析だった。
そして、ひとまず屈服して上洛の約束をしていた朝倉が、再び兵を挙げた。摂津、大和、越前の三正面作戦という形になる。京の警護をしている者達が心配だが、撤退させられる状況でもなかった。
【永禄十三年(1570年)八月】
織田、浅井勢が摂津、大和、越前の三正面作戦を強いられる中で、京にも変事が起こった。比叡山門徒宗が神輿を押し立てて強訴に及んだのである。
かつて白河天皇によって、賀茂川の水、双六の賽と並んで、ままならないものの一つに挙げられた山法師……、比叡山延暦寺の僧兵は、この時代にも威力を保っているらしい。
強訴の対象は、足利義昭と朝廷の双方だったそうだ。新田の警護は、その二者の間では当然のように朝廷を重視する。
足利義昭は、出家していた間は興福寺で過ごしていた。この興福寺は、南都北嶺として北の延暦寺と並び称される僧兵集団である。いや、たぶん、宗教的な意義もあるのだろうけれど、現状では武力的側面が最初に記されるのが自然な状態となっている。
現在は将軍位に就いてはいるが、かつては宗教勢力の一員だっただけに、話せば分かると義昭は思ったのかもしれない。武家よりは話が通じるはずだ、とも考えたか。
だが、説得に出た足利義昭はあっさりと捕らわれの身となった。武家の頂点に立つ人物を従える形となった門徒宗は、そのまま朝廷に迫る。
楠木信陸が対応に苦慮する中、青梅将高が総指揮を取る新田の警護隊は、平然と反撃に移ったそうだ。かつて、高利貸しをしていた寺を討ち滅ぼした記憶が新田勢に残っているのか……、正月に厩橋で上演された演目でも扱われていたので、その話が伝わって追体験された状態なのかもしれない。
先頭に立ったのは、今回も弓巫女の面々だった。先頭には新鋭的存在である雀女の姿があったそうだ。かつての安照寺での討滅の折りには火矢が使われたが、今回は爆裂矢である。
……足利義昭の身に危害が及ぶかも、とは考えなかったのだろうか? 考えなかったんだろうな。
弓巫女の一撃を契機に正面から攻め掛かられたことで、比叡山門徒宗は崩れて去ったそうだ。
ただ、足利義昭はそのまま、淡海のほとりにある比叡山の門前町、坂本に連れ去られたという。幕臣たちは、意外と落ち着いているらしいが、それでよいのだろうか? それとも、山法師は彼らにとってもまた、ままならぬものなのだろうか。
【永禄十三年(1570年)九月】
坂本に連れて行かれた足利義昭は、反信長の決起を諸将に呼びかけた。さらには、新田勢に京都退去を命じた上で、追討令も発出した。
延暦寺の影響力の下で出されたものだとは思われるが、文書自体は正式なものだったという。それならばと、京の青梅将高からは撤退準備の意見具申が来ていた。了承して、ただし、撤退実施は事態が落ち着いてからとしておいた。
武蔵国のモブ豪族家の出身である将高は、すっかりナンバー2的存在となっている。明智光秀も果たしている役割は大きいが、だいぶ年長であるために意味合いは違ってきている。俺の身になにかあった際の後継者含みとなれば、将高と、次いで真田昌幸となろうか。現時点であれば、諸岡一羽や神後宗治も候補に入ってくるかもしれない。
延暦寺による強訴からの将軍拉致は、史実とずれていることもあって大事件として捉えていたのだが、京ではさほど騒ぎとはなっていないらしい。まあ、応仁の乱も含め、戦国の様々な争いを目の当たりにしてきたわけで、慣れっこになってしまっているのだろう。
そして、足利義昭も軽い気持ちで書いているようだが……。まあ、元時代での信長との絡みからしても、流されやすく、調子に乗りやすそうな気配は推察された。実際は有能な将軍だったとする学者さんもいたけれど、あまり大人物に見えないのは確かなのだった。
【永禄十三年(1570年)十月】
そして、京から本願寺が対信長戦に加わったとの一報が入った。さらに、伊勢の長島一向一揆、加賀、越中の一向一揆も活性化したそうだ。
史実とはタイミングがずれているが、信長の宿敵として猛威を奮った存在だけに、やはり関わってきたわけだ。そして、形こそ違えど、やはり信長包囲網が築かれた形となった。
時機のずれは、近衛前久卿が厩橋にいるのも影響しているだろうか。史実では、京を追放された関白が、本願寺顕如を頼った時機があり、その際に息子の教如を猶子とするのだった。その流れで、包囲網についてのなんらかの使嗾があったのかもしれない。
この時代の本願寺の参戦を受けて、越前攻めを優先していた織田勢は、京に取って返したそうだ。それを察した楠木勢が出陣して、三好三人衆を撃破し、包囲網の一角は崩された形となった。信長の接近を察した延暦寺の僧兵が動揺し、足利義昭は脱出を果たした。
織田信長、足利義昭、楠木信陸が揃う中で、京での新田勢の責任者である青梅将高は退去を表明し、強硬に押し切ったそうだ。足利義昭に向けて、綸言汗の如しと申します、と言い放ったらしい。頼もしい。
【永禄十三年(1570年)十二月】
「きつい対応をさせてしまったな」
「本当に。人使いが荒すぎます」
「悪かったって。こんな展開になるとは思わなかったんだってば」
「わたしは、当初から悪い予感を抱いていました」
文句を言いながらも、青梅将高の表情には笑みが含まれている。どうも、同年代というのもあってか、互いに遠慮がない。本来なら、主従の分を越えた関係性に文句の一つも言いそうな明智光秀なども、特に異議を唱えることはなかった。
「で、比叡山はどんなだったんだ」
俺が問うたのは、将高らが京を出立する直前に行われた織田勢による延暦寺の焼き討ちについてである。時期も経緯もだいぶ違うが、これも必然ということなのか。
「なかなかの惨状でした。遊女や、その子らまで……。まあ、本来なら、そういった者達が寺にいる方がおかしいのでしょうが」
元の世界では、光秀も焼き討ちに参加していたはずだが、この世界ではこちらで嘆息する側となっていた。それによって、惨状にどのような影響が出たのだろう。
「京の反応はどうだった?」
「それに先立つ、朝廷への強訴が反感を買っていたようで、いい気味だとする反応を多く耳にしました。ただ、やりすぎだとの声ももちろんありました」
「否定一色ではなかったのか……」
「ええ。将軍の弱腰振りに向けられた非難の声が大きくてですね」
まあ、朝廷が対応に苦慮するのはともかく、武家の棟梁が叡山門徒に捕らわれるのは、やはり醜態だったのだろう。
「それで、京の警護全般としてはどうだった?」
「既に光秀様がだいぶ整えてくださっていたのですが、なおも荒れ方はひどかったですな。あれが新田領内なら、色々とやりようがあったのですが」
町の荒れ具合や貧民の暮らしぶりはかなり厳しい状態で、炊き出しや色々な助力をしてもどうにも追いつかなかったそうだ。
それでも、一時期よりは良化したようで、多様な相手との関係性も築けたらしい。さすがは<人たらし>スキル持ちである。
「で、公家の娘に気に入った相手とかはいなかったのか?」
ぶほっとお茶を吹き出しそうになった将高は、あわてて袖を口元にやっている。
「なにをお戯れを……」
ちらりと視線が芦原道真に向けられたからには、やはりなにかあるのだろう。そして、実際に公家の娘に言い寄られでもしたのだろうか。道真の頬が少しひきつっているようにも見える。
ただ、俺の感覚であまりつっついて仲がこじれても困る。話を京での食事情に転ずると、場に存在した微妙な緊張感が溶け去っていった。