【永禄十三年(1570年)冬~初夏】
【永禄十三年(1570年)正月】
この年、年末の厩橋に今川氏真、北条氏規、松平家康が揃った。北条氏規と松平家康は、かつて駿府で人質的に暮らしていたことがあるため、なんだか同窓会的な雰囲気となっていた。
この三者が連携して新田を打倒しようとしたら……、まあ、北条、松平軍団には新田の常備兵も混在しているし、むずかしいか。常備兵の編入は、別に監視をさせるつもりもなかったのだが。
そして、この正月の神前仕合で、柚子がデビューを果たした。蜜柑、澪や子供らと一緒に見守っていると、運動会での家族観戦のようでもある。
対戦相手は、戻ってきていた雲林院松軒となった。剣聖殿や剣神殿だと、手加減されるのではないかと考えた柚子の指名である。まあ、剣神こと塚原卜伝には、蜜柑の妊娠を察した上で一撃を受け、「一之太刀」を伝授して勝負をうやむやにした前科がある。その時の腹の中にいた娘が相手となれば、そういう展開もありえなくはない。
そして、雲林院松軒を指定するあたり、柚子の眼力もなかなかである。剣神殿の一の弟子は、諸岡一羽とはまた別の意味のまじめさを備えている。放たれた本気での打ち込み二合を凌いだことで、歓声が上がった。
さすがにそこまでで敗れ、悔しげな表情を見せた我が娘は、勝ちを得るはずの二戦目でもまともに戦うようにと求め、総ての攻撃を避けられて息を切らし、ようやく降参した。動きを止めた相手に剣先を触れると、見物していた面々からは惜しみない拍手が送られたのだった。
摩利支天神社での芸事奉納に絡んで、ついに期間限定の仮設状態ながら、長期公演のための芝居小屋がオープンした。残念ながら、まだ一劇団で年間通じた公演を打てるほどの客の入りはないわけだが……。模倣する者達が出て来てくれることを期待して、きっちりした劇場を作ってしまうか。
本来なら、この時代の演劇の主流は猿楽で、元時代で言うところの能や狂言として確立していく過程で、近江や大和で盛んに行われていたらしい。対して、厩橋で受け容れられている演劇はもう少し素朴な感じで、わりと賑やかな感じだった。
二年前に蜜柑の盗賊追捕を題目にしていた一座が発展していて、多少の誇張がある程度の、結構大掛かりな劇になっている。前年に少し話をしたのは確かなのだが、俺の言動の影響だろうか。
ただ、演目が……。盗賊追捕なら、まだいいのだが、見坂村に始まる新田の初期の話を題材とされると、正直なところ気恥ずかしい。そして、内容からして内部に協力者がいるに違いないのだが、心当たりがありすぎるのだった。
【永禄十三年(1570年)六月】
樺太の北端西側、アムール川の河口の対岸辺りに、通商拠点が無事に設置されたそうだ。樺太アイヌは、大陸側の商人からだいぶ雑に扱われていて、そこを共同で改善していくとの話が進んでいるとも聞く。
北回りの交易も魅力的だが、特に蝦夷アイヌについては、彼らの産品中心の取り引きに持ち込めそうだ。樺太でも、ラッコの毛皮やセイウチの牙などの産品は既にあるものの、他にも名産品が見つかるとよいのだが。
昆布あたりが有力で、あとはニシンが大量に穫れる。ただ、足が早いので、そのまま食べては消費しきれないそうだ。史実では肥料として使われたそうだが、少なくとも数の子はいい産品になるだろう。
卵だけでなく魚肉の方も、練り製品などで利用できないか、検討を進めてもらうとしよう。それこそ、かまぼこなんてどうだろうか。樺太かまぼこを、蔵田五郎左衛門にプロデュースしてもらって、上方で流行らせる……、までは夢想が過ぎるにしても、手軽なタンパク源となってくれれば、とてもうれしい。
ニシンは、乱獲さえしなければ、永続的な資源となってくれるはずだった。
手工業についても、奨励していきたい。和人とはまた違う感覚での衣服や工芸品が作られてくれるとよいのだけれど。
今年の夏至連歌会は、仙台で開かれた。仙台は元時代では伊達政宗によって開かれた土地だったはずだが、ここでは新田が開発する形となった。
奥羽全般としては、まだ関東ほどには平穏な状態に持ち込めてはいない。出羽の越後寄りの地域は新田が直接統治しているわけではなく、小勢力が乱立している。彼らにいきなり戦さはするなと言っても、無理があるだろう。
史実の奥羽では、豊臣秀吉が出した惣無事令によって戦さが禁じられ、強大な力を背景にした再配置、いわゆる奥州仕置が行われる。それに反発して、南部氏から離反する形で抵抗したのが、九戸政実の乱となる。臣従したわけではないのに乱呼ばわりなのは、主家である南部が服従していたためだろうか。
まあ、九戸政実の爽やかな人柄を見ていると、人望が集まるのは無理もないように思える。当初は北畠・大浦・新田連合と南部との間で板挟みになって、苦しませてしまったようだが、南部信直による南部晴政、久慈・九戸の当主の殺害以降は、鬼神の働きを見せてくれている。鉄砲だけでなく、大砲、バリスタといった新兵器もあっさりと掌中に入れ、対伊達戦での葛西、大崎、小野寺との戦いでも活躍したが、せめて伊達と戦いたかったですなあ、と笑っていた。
この九戸政実も、本庄繁長にしても、史実で活躍の場に恵まれなかった知勇の将は、北に多い印象がある。京に滞在中の八柏道為の智謀も、新田の流儀とはだいぶ違ってとても参考になると軍師勢が喜んでいた。
そして、連歌絡みでは、遠藤基信も家中に加わってくれている。史実では、伊達家中の中野宗時の臣下だったのが、その謀反を伝えたことから重用されるようになったはずだ。この世界での彼は、主君が敗走した時に取り残されて降伏し、まずは内政面で力を発揮していた。
この人物には、内政方面だけでなく、軍師的な働きも期待できる。これまでの新田のその方面は、芦原道真、上泉秀綱、諸岡一羽、明智光秀、本多正信などで、専任者が少ない。経緯からして過度な敵対状態にはなかったため、すんなり馴染んでくれそうだ。
連歌会での活躍は……、そこについてはよくわからない。ここまで来ると、踏み込まないでおくのがよいのだろう。下手に新田や俺について詠まれた内容を把握してしまうと、色々と支障が起こりそうな気もするし。
近畿の情勢も動いている。史実との違いとしては、浅井長政が義兄である織田信長から離反せず、父親の浅井久政を蟄居に追い込んだのだそうだ。
この浅井長政も、元時代で織田との絡みばかりが注目され、選択を間違えた人物と語られがちとなる。だが、実際は野良田の戦いで倍ほどの六角軍を撃破している北近江の英雄である。織田信長の桶狭間の戦いと同年だったことから、時代を動かした二つの戦いと呼ばれる場合もあったようだ。
ただ、父親の浅井久政もそれでは収まらず、内紛状態に陥ったとのことだ。浅井長政は義兄である信長の援助も受けて、家中の掌握を果たしたという。そうなると、織田と同心する覚悟を固めたわけだ。
その流れで、織田と浅井の義兄弟当主は駒を並べる形で、朝倉に攻め寄せているとなれば、堅い関係となったのだろう。
この世界では信長と家康の同盟は解消された状態にある。浅井長政は家康に変わる織田家の盟友に、果たしてなるのだろうか。