【永禄十二年(1569年)六月】
【永禄十二年(1569年)六月】
市中警備はスタートさせているが、修整を頼み込んだ件もある。織田家より出ていた撰銭令の内容に、手を加えてもらったのだった。
撰銭令とは、市中に流れている宋銭、明銭、鐚銭などを選り好みせず、どれも同じ一文として扱え、というのが本来の形となる。だが、さすがに明銭のだぶつきに加え、鐚銭の中でもシマ銭と呼ばれる何語か不明の文字が書かれたものや、また、完全に摩耗したものなどを、同じに扱うのはむずかしいだろう。
幕府や他家で出された撰銭令は、そのあたりの逃げ道を幾つか設けたものが多かったのだが、今回は単純さ、わかりやすさを優先した厳密な本来方式となっている。結果として、取締りに苦労する状態となっているようだ。
新田側からのその説明を是とした信長は、あっさりと交換比率を定めた。宋銭の美品がもっとも価値が高く、永楽通宝はその半値ほどとなる。そうであるならと、新田は特に気にせず永楽通宝を回収し、必要に応じて関東へ送ることにした。
一方で、鐚銭、シマ銭の類は永楽通宝の五分の一、十分の一といった交換比率なので、冶金の材料として積極的に集める形となった。
新田永楽は関東から持ち込めば幾らでもあるので、今回の交換比率はなかなかにおいしい状態だった。
本国では、奥羽の統治、開発に注力している。新田家が活動を開始してから十年が経過しており、初期の集合教育、孤児からの登用組も二十代前半となって背骨的な存在にまで成長していた。さらなる若手を従えた彼らが、各地で活躍を期待されているのだった。
そして、奥羽の各地にも孤児院が設置され、同時に領内からの志願兵、内政要員も募集されている。そこからの▽印持ちの勧誘のために、俺は北方を巡ることにしていた。
米の品種改良が進んでいないこともあって、奥羽は米を作るにはやや寒冷に過ぎるかもしれない。史実でも、江戸期に冷害による飢饉が幾度か発生している。小氷河期だったとの話もあるようだが、そこは実感としてはよくわからない。
ただ、江戸初期の寛永の大飢饉は、江戸幕府による諸大名に対する普請の強制で、武家が苦しみ、そのために農民が収奪されて、余力がなかったためとも言われている。さらには、米だけが基軸納税物となっていたため、他の作物の栽培が禁止、制限される動きもあったようだ。
現状の新田の統治では、むしろ米にこだわらず、小麦に加え、蕎麦、丸芋、甘芋などの救荒作物、甜菜、果樹などの商品になる作物を作るように、さらには水産加工品を手掛けられるならそちらも、と誘導している。また、養豚、養鶏も推奨中だった。
特に水産加工品は、明への商品となるので買取価格も高い。一方で、特に奥州の太平洋側では、海沿いの低地に集落ができないように気を配る必要もあった。
それもあって、比較的津波の危険度が低い、日本海側の汽水湖である羽州の八郎潟、十三湖で、帆立、牡蠣の養殖に、真珠についての適地も見繕っているところとなっている。太平洋岸で海辺の採集を得意とする者達には、そちらへの移住の誘いもかけていた。
馬産もまた、有力な産業になりそうである。特に明では、史実で滅亡の直接の原因となる女真族らの騎馬民族対応のために持続的に必要で、需要が大きいのだった。
元々の南部馬も優秀な血筋だが、初期に俺の相棒として活躍してくれた「静寂」号と、その息子の「衝撃」号と掛け合わせた血脈は、従来比ながら雄大な馬体の産駒を出し続けていた。我慢強さと従順さも、概ね引き継いでくれている。
国内では、去勢をするケースはほとんどなく、軍用馬として使役した後に種牡馬入りさせ、また繁殖牝馬として供用することも可能である。
そのため、有望な「衝撃」号の産駒を、各地の牧に配置している。一方で、一戸、三戸、九戸、八戸といった馬産地の秘蔵の血脈を種馬にして、「衝撃」号と血が混じらないように、そちらも生産を続けていた。近親交配が重なると、体質が弱くなるためである。血が濃すぎないように、それでも影響力を高めてとなると、匙加減が難しい。「配合」スキル持ちに頼りながらも、二世代ほど経たら、種馬を次の産地に移していく想定でいた。
血脈の海外への流出については……、広まるなら広まっていいと思っていたのだけれど、明でも他の地域でも、扱いの関係から去勢済みの牡馬が求められており、その心配は皆無だった。
銀と硫黄に加えて、水産加工品と馬が明に対する有望な輸出品となっているが、さらに売り物を作っていきたい。それを踏まえて、奥羽の各地に工芸品や武具などの工房街を設置することにした。厩橋から職人を派遣し、指導していく形になる。ここに食事処や商店を併設し、上下水道を整備するのもいつものパターンとなる。
それぞれの風土に合わせて品目を選んでいき、競い合うのが理想的な展開となる。これらの産品が、蝦夷地から北へも売れるようなら、それもまたいい状態となるのだった。
鉱山の探索、開発も進んでいるが、何しろ広いのでまだ網羅はできていない。東北の鉱山については、陸遜も明るくはなかった。地道に探索していくとしよう。
治水事業については、関東での経験、反省点も活かして進めようとしている。特に太平洋岸では、津波被害についても考える必要があるし、川津波対策も考えなくては。
ただ、幸いなことに奥州の太平洋沿岸には、さほど大きな既存の町はない。ここからの開発となるので、治水をしつつ、高さのある地盤の固そうなところに町づくりをしていく方向で進めている。さらに言えば、そこから湊に通えるような距離感が理想となる。
川も流域を広くして掘削し、堤防を築く形としようか。ただ、直線にすると津波が奥まで届いてしまいそうでもあるか……。まあ、まずは確実に安全な高地から開発していくとしよう。
そして、今年は夏至の奥羽連歌会が再開する運びとなったそうだ。場所は不来方と新たに作る仙台で交互に行われる予定で、今回は不来方での開催となる。不来方は、史実では盛岡と改称されるのだが、こちらの名前の響きもいいので、迷うところとなる。
不来方と仙台はひとまず新田直轄で、他に福島、米沢、会津、郡山なども重点的に開発が進められていた。
連歌会については……、今回もノータッチで、岩松守純らに任せるとしよう。
奥羽での鉱山探索がさほど進んでいない理由の一つに、佐渡金山の開発を優先させているから、というのもありそうだ。
金鉱山と聞いていたが、同じくらいに銀も出るそうで、現状ではとても助かる状態となる。また、北への商船隊の寄港地として、また水軍根拠地としても非常にいい立地となっている。
本庄繁長は新田と組んでの開発にノリノリで、軍師役の僧侶、傑山雲勝と交代で統治にあたっているようだ。湊安東を頼って水軍の構築にも手を染めているそうだから、これはもう本気である。
金銀の利益を回せば、水軍を本格的に整備してもなお余力はあるだろう。佐渡に寄った際にいたのは傑山雲勝だったので、あまり金回りが良いのを見せつけて、反感を招かないよう警告したら、その観点からも早期に越後で鉱山を見つけるように求められた。もっともな話なのだが、奥羽の探査が……。まあ、仕方ないか。
移住者と元々の住民の関係性がやや心配だったが、本庄と新田で気質が違うために、なんとなく三者で調整していく機運は生まれているようだ。
ナホトカの古河公方勢に対してだけでなく、日本海の玄関になりうる立地だけに、発展させていきたいところである。