【永禄十二年(1569年)五月】その一
【永禄十二年(1569年)五月】
上洛するのは、三年ぶり二回目となる。いや、元時代の家族旅行での一度を合わせると都合三度目か。
到着すると、まずは足利義昭に拝謁することになった。その際の形式ではひと悶着あったらしい。武家としては、征夷大将軍の方が鎮守府将軍よりも上位であろう。室町幕府内部の役職かどうかの違いはあるが、古河公方と同格と言えなくもない。かつての北畠顕家は、位階とのバランスから鎮守府大将軍とされていたようだ。
官位としてだと、この時点の義昭は従四位下、参議、左近衛権中将、俺は従二位、権中納言なので、こちらに軍配が上がることになる。
交渉にあたったのは、明智光秀、最上義光、二階堂盛義だが、実際は近衛前久卿からの遠隔入れ知恵が功を奏したようだ。
結局は、義昭は床几、こちらは床にあぐらで平伏せず、という形で落着した模様だ。席の配置で征夷大将軍の権威を認めれば、まずは満足なのだろう。
光秀に指図された通りの口上で、義昭の将軍就任に対する祝意を表明する。こちらが下手に出たことで、義昭は上機嫌である。
細川藤孝、三淵藤英とは、事前に無難なあいさつまでにしておこうとの合意が交わされたそうだ。それによって、無理難題を持ちかけられるのを防ごうということなのだろう。既定路線から脱線してきたのは、征夷大将軍の方だった。
こちらを見据えてくる相手はやや小太りで、警戒心が強そうでありながら弛緩も同居する、やや謎めいた表情を浮かべていた。
「我らの頭越しに鎮守府将軍に任官されたと聞いておる。幕府の下につくのであろうな」
「まずは京を復興して、西国を安定させていただければ」
「それは、余の仕事ではない」
「……とおっしゃいますと?」
「京は信長に、西国は各地の国主に治めさせている。将軍はその上に君臨するものじゃ」
……まあ、鎌倉以来、征夷大将軍という存在はそういうものだったのだろう。大名と国人衆、土豪衆の関係性のようなものだ。いや、将軍が直接率いる兵力はごく少ないのだから、守護大名よりも安定性は低いとも言える。
それでうまく回らない時代の方が間違っているだけで、幕府はそうあるべきなのだ。本来の武家の世ならば。
各地の大名は、戦国の世に生き残るために集権化を進め、戦国大名への道を歩んだ。目の前に座る室町幕府の十五代将軍は、「戦国将軍」とはならず、旧来の将軍概念のままなのだろう。
「なれば、我らは東国を治めましょう」
「それだけでは駄目だ。京の安定のために人数を出せ」
この指示も、おそらくは義昭の独断なのだろう。周囲の侍臣からは、戸惑った空気が放出されている。
京の統治に新田が関与するとなれば、公式に幕府の秩序の中にいる大名的存在だと認められたことになる。義昭は上下にこだわっているのだろうが、実際にはこの指示は、新田の関東、奥州での覇権を追認したに等しい。
「では、信長殿と相談させていただければ」
「うむ」
室町幕府の十五代将軍が、なぜ満足そうなのかは正直わからない。もしかすると、朝廷と直結している武装公卿と考えて、緊張していたのだろうか。俺の現状には、新田義貞と北畠顕家が重なって見えているのかもしれない。
退出する際には、明智光秀から寿命が縮みましたぞと囁かれた。本来なら、あちら側に侍しているはずの人物なのだが、それを言ったところで意味はない。
まあ、史実での光秀は、これから会う信長と両属状態だったのが、どんどんと織田家臣としての活動に比重が置かれていったわけで、複雑な立場だったとも言える。その点、現状のこの人物の立ち位置は明快だった。
織田信長との会見には、陸遜……、楠木信陸が同席する形となった。こちらでは始めから円卓と椅子が用意されていて、上下のこだわりのなさが読み取れる。南蛮物らしいが、堺から持ち込んだのだろうか。織田家は既に今井宗久を取り込んで堺の支配に取り掛かっているそうだ。
雄大な体格というわけでもないが、迫力はある。軍神殿と神前仕合で対峙した際の圧迫感とはまた違う種類のもののようだ。
引き締まった顔の中で、強い視線を放つ双眸が一際目立っている。教科書的肖像画とも、戦国ゲーム的な絵柄ともまた違う、凛々しい顔立ちである。
「護邦殿は、信陸とは旧知の間柄だそうだな」
「ええ、不思議な縁がありましてな。上州に赴く前に、他所の国に滞在していたことがあり、その頃に交流があったのです」
「ほう」
嘘はついていないが、真実を口にしているわけでもない。ともあれ、話は実務的な方向に転がった。
まずは、懸案を片付けてしまった方がいいだろう。義昭からの指示を伝えて、相談モードに入る。
「……というわけでしてな。協力可能なところは、させていただく」
「畿内に兵を出される気か?」
「いや、そうなれば、将軍家だけでなく、三好や朝倉らもより刺激しましょう。京の治安維持についてお手伝いするのはいかがか」
「橙上衣とやら呼ばれる、女剣士らか。それも一興じゃ」
話が早い。ただ、そうなると陽忍を連れてくることも必要だが、伊賀、甲賀の忍者を大量に雇い入れるのが早そうだ。かつての上洛時に築いた関係は、生きているのだろうか。報酬はどうしても受け取ってもらえなかったと聞いているが。
京に常駐するとなれば、様々な情報を集められるわけだ。関東にいると、どうしても西国の情勢には疎くなるので、好影響もありそうだ。堺でも情報収集はしていたが、質的に異なってきそうである。
そして、治安維持を担当する状態なら、畿内で邪魔者扱いされている永楽通宝を、さらには鐚銭を公然と回収する機会ともなる。
嫌われている通貨であれば、小粒金や銀との交換で山のように確保できそうだ。鋳潰して冶金にかけて、銅や他の金属を分けてしまえば、それだけでも利益が出そうである。
永楽通宝については、東の新田領で通用している話は伝わっているだろうから、やがて価値が復活するかもしれない。そのあたりは、堺の商人らの舵取り次第だろうか。
近畿圏での永楽通宝を始めとする明銭の不人気ぶりは、想像通りなら、南蛮交易で大量に入手した明銭を、一気に市場に流しためであろう。そう考えれば、堺の商人衆は明銭の通貨価値を崩壊させた犯人でもある。まあ、東国と畿内は現段階では別の経済圏となりつつあるので、問題はあまりないが。
そして、信長からは、彼の目から見た南蛮人について話を聞かせてもらった。この頃には、ルイス・フロイスと会っているはずだ。
地球儀、葡萄酒、遠眼鏡など、南蛮人との交流を描いた中ではベタなものが話題に出てきた。信長は新田の葡萄酒には触れたことがなかったらしく、珍重すべきものとして紹介された。
ご相伴に預かったのだが……、年代物なのか、酒精が強いのか、一杯で汗をかいてしまった。味見程度に触れている新田の葡萄酒よりは、酸味が強いようでもある。
第六天魔王という通称はもっと後の時期の、武田信玄との手紙のやり取りにおける戯れ言のようなものらしく、この時代に天魔とされているのは、比叡山延暦寺と激しく対立した足利義教……、籤引き将軍とも呼ばれる足利第六代将軍である。
義教は、延暦寺側から天魔と呼ばれていたので、それになぞらえたものと思われる。初代? の天魔は守護の赤松氏に討たれた人物でもあり、強権的な体制を築いた最後の足利将軍でもある。似ているところも多いのかも。
まあ、それを言い出すと、かつて寺社を焼き討ちしたことのある俺もまた、天魔呼ばわりされる素養がありそうだ。
ちなみに天魔とは、本来は欲界の最上位にある第六天に住む天人で、四天王なんかよりも上の存在のはずだが、仏教者を惑わす存在として、罵倒語扱いとなっているらしい。まあ、仏教を擁護、推進するつもりはないので、そう見做されてもどうということもない。
織田信長は、元時代では、冷酷で残虐な人物だったり、徹底的な合理主義に基づく改革者としてや、癇癪持ちで部下に厳しく、意見は取り入れないだとか、慎重、神経質、庶民への気安さ、神仏を恐れぬ点が強調されたり、創作などでは女人として扱われる場合もあるなど、目立つ存在なだけに様々に描かれていた。
ルイス・フロイスの著述が元になっている話としては、最終的に信長は自身を神と同一視しだした時期があったらしく、当然ながらキリスト教者であるフロイスは、その頃にはだいぶ否定的になったとも聞く。
声はやや高く、部下への当たりもきつそうだが、楠木信陸などは内心はともかくうまく受け流しているようでもある。俺への対応も、強く出るでも、機嫌を取るわけでもなく、まっとうな対応に思える。そう考えると、信長包囲網や続く戦乱の中で変わっていったのだろうか。
史実での軍神殿……、上杉謙信も、苦労の中で人格が変貌していった気配が感じられる。周辺各国に彼の考える秩序をもたらそうと出兵を繰り返したものの、遠征先で自軍の根拠地を確保するのをよしとしなかったため、介入効果が限定的となり、引き上げると元に戻ってしまう賽の河原的な展開に陥った。また、北条、武田との二正面作戦を余儀なくされた上に出羽や越中にも手を伸ばされ、さらには同族の長尾藤景を謀殺し、本庄繁長らに背かれ、厩橋の北条高広は武田と北条に圧迫されて降伏し……。
そんな状況で、まともな人格を保てる方がおかしいのかもしれない。俺にしても、幸いなことに戦国SLG知識とステータス把握能力のおかげで、ここまで順調すぎるほど順調に来ているが、国峯城だけを守って武田と上杉の間で四苦八苦、といった展開で知己や領民に人死にが多く出るような流れだったら、今の精神状態ではいられなかっただろう。
なんにしても織田信長は、上司にはせず、敵対もしなければ、まともな人物として付き合えそうであった。その関係性を維持していきたいものである。
京都警護は、陸遜の部隊とも連携する形で、同行した家臣団を中心に実施することになった。
全体の統括は明智光秀を八柏道為が補佐し、幕府、朝廷、織田側との調整などには最上義光、二階堂盛義らが加わり、盗賊追捕面では陽忍を三日月と多岐光茂が、剣豪隊を諸岡一羽、結城義親が率いる形となった。
澪が束ねる弓巫女も、警護に参加する形と決まった。主力としてではなく、神仏の加護があると示すためとなる。この時代はまだ、仏罰、神罰などが強く意識される時代となっている。自衛のために利用させてもらうとしよう。
そして、同時に炊き出しも計画している。奥州での凶作はさほどひどくはなかったものの、食料の備蓄は無尽蔵というわけではない。そこで、じゃがいもやさつまいも……、丸芋と甘芋も使った汁物を基本に、貧民層を対象に実施していくことにした。
一方で、蕎麦切り、うどん切り、菓子などの屋台も出し、そちらは有料としている。蕎麦、うどんは関東では一杯一文だが、輸送するにも現地調達にも費用がかかるので、こちらでは十文……、だいたい千円相当という価格設定である。それでも大人気となったのだから、そこそこに余裕がある層も多いのだろう。