【永禄十二年(1569年)正月】
【永禄十二年(1569年)正月】
年末には近衛前久が都からやってきた。足利義昭の意向で朝廷を追放され、物見遊山の末に到達したようだ。
織田、武田、今川と立ち寄り、それなりの歓待を受けてきたらしい。足利義昭から忌避されたとしても、織田家がその意向を汲んで邪険にするはずもない。信長と関白殿は、元の史実でも仲が良かったはずだ。……本能寺の変は近衛前久が黒幕だった、なんて憶測もあったようだが、仮にそれが正解でも、光秀が新田の重臣として鎮座している現状からして、再現されるはずもない。
厩橋での前の関白……、自動的に太閤になるのではないのだと初めて知ったのだが、ともあれ、近衛前久卿はやや自棄気味の明るさを発揮していた。
そして、少し遅れて今川氏真が初めて厩橋までやってきたのは、前久卿の勧めもあったようだ。まあ、武田と今川の関係は安定しているようなので、正月に不在でも問題はないのかもしれない。
連れられてきた奥方の早川殿は、北条氏康の娘で、北条の当主となっている氏規の妹にして、藤田氏邦の姉でもある。
新田は、父と兄……、先代と先々代の仇ということになるが、それも戦国の倣いですからと気にした様子はなかった。
この正月には北条勢から藤田氏邦夫妻が来ており、早川殿と大福御前の義姉妹が仲よさげで微笑ましい。まあ、氏邦と大福御前は、ちょこちょこ顔を出して、内政の調整や菓子、料理の試作などに励んでいるようだ。
いちご大福はかつて俺が提案したのだが、いちごの替わりに砂糖で包んだぶどうやみかんを入れた新作が持ち込まれて、絶品だった。この時代は、果物の甘味が強くはないので、そういった工夫がより威力を発揮するようだ。
菓子職人は、新田の勢力圏各所に散らばって、彼らの手になる甘味は熱烈な支持を受けている。そこから、各地の銘菓が生まれる展開を期待したいところだった。
前関白と氏真が加わった連歌会は、また盛り上がったらしい。どうも、不穏な内容が含まれている気配もあるのだが、下手につつくと悪化しかねないので、放置することにした。
去年も柚子は剣豪勢に絡まれまくっていたが、今年ははっきりと天禀を示し始めたようだ。俺から見ると、機敏に竹刀を振るっているなあ、くらいの感覚なのだが、覚えのある者たちからの見え方は違うらしい。
そして、柑太郎が並んで稽古をしてしまうと、柚子の動きはより際立って見える。誕生日ベースでは一歳半ほどの年齢差があるし、そもそもこの年代では女子の方の発育が早い場合も多い。ただ……、それを踏まえてもなお、その違いは残酷にすら思える水準だった。
当人も、それを感じていたのだろう。柑太郎はついにむくれてしまって、剣の修練を中断したそうだ。蜜柑から、こういう時には男親が対応すべきだと求められて、話を聞いてみたのだが……、竹刀こそ元時代の中学校で振るったことはあったし、こちらでも多少は稽古を重ねたものの、俺の剣術の腕はまったくもって達人級ではない。
柚子姉ちゃんみたいにできないの、と泣き出しそうな柑太郎を抱きすくめ、俺も蜜柑みたいに剣は振るえないから気にするなと言ってみた。もちろん、人の生き方はそれぞれだなんて理屈で、自分を納得させられる年頃ではない。同い年の澪との娘、渚は最初から剣に関心を持っていないが、一度は目指してしまった以上は折り合いがすぐにはつかないだろう。
その日から俺は、様々な職場を連れ回って、剣だけが人の生きる道ではないのだと伝えてみたのだが……、柑太郎の表情が明るくなることはなかった。
年始恒例となった一連の奉納の中で、今年の評判を集めたのは弓巫女の新世代の派手な登場だった。いや、弓と並んで鉄砲も扱うとなると、単に弓巫女と表現してよいのかわからなくなる。
中でも、見事な射手としての力を示したのは、雀女だった。十四だというから、出会った頃の澪くらいの年頃となる。……あれからもう、十年になるのか。俺も、肉体年齢では二十四となる。元時代であのままだったら、どうなっていたのだろうか。
そして、雀女ら新進の弓巫女を育て上げた千早は、うれしげな笑みを浮かべていた。<弓術指南>持ちの彼女は初期弓巫女の一人だったが、早々に指導者に転じて多くの弓兵を育てている。ただ、弓巫女として送り出したのはごく少数だったのが、ついに抜群の才能を持った者が現れたのだそうだ。
澪も一目置いている、鉄砲併用の新世代弓巫女は、まずは鎧島=八丈島の商船隊の防衛任務に投入されるらしい。弓巫女は橙上衣の盗賊追捕隊と並ぶ新田の象徴的な存在だけに、引き続き大事にしていきたいものだ。
そして、鰻丼がなぜか正月に食べるものとして定着しつつあった。お節扱いではなく、正月の屋台料理の定番となっている。
夏限定で土用の丑の日に鰻を食べる習慣は、夏に売れ行きが落ちて困った鰻屋が、平賀源内に相談して販促として生まれたものだそうで、旬としては正月に食べる方がよりまっとうなのかもしれない。ただ、万葉集にも夏バテには鰻を、との主旨の歌があるそうなので、夏にもまたよいのだろう。今夏に仕掛けてみるのもありかもしれない。まあ、鰻丼を出す店はわりと人気で、時期に左右されずに繁盛しているようでもあった。