【永禄十一年(1568年)十月/十一月】
【永禄十一年(1568年)十月】
信長の上洛戦の様子が届いた。六角が蹴散らされ、足利義昭が上洛を果たしたのは九月のことだったそうだ。
それまで京を確保していた三好三人衆は、あっさりと退く形となった。将軍宣下を受けていた足利義栄は、病を理由にまだ上洛していなかったので、三好勢と一緒に去っていったのだろうか。
また、各地からの報告によれば、今年の雪はさほどひどくなかったのだが、夏はやや冷害気味だったようだ。特に奥州で作物の出来が微妙とのことだったので、大量の食料を供給していくと決めている。新田が来た秋は飢え死にしそうだったなんて記憶が残ってしまったら、なにをどうやってもうまく統治できるはずもない。
厩橋の食文化はさらに花開き、ピザ屋やクレープ屋、アイスクリーム屋などに加えて、焼肉専門店がオープンしていた。
牛肉も扱われてはいるが、入手性が低いため、供されるのは豚肉や鶏肉が中心となっている。さらには海鮮も扱っているので、鉄板焼と分類した方がよいのかもしれない。その発想からお好み焼きを提案したら、そちらも人気となった。
影響を受けて、従来はデザート系専門だったクレープ屋が、ソーセージやハム、チーズなどを使用したがっつりめ系をすぐさま導入したのはさすがだった。
ピザ屋も、片手で食べられるピザ巻きを投入したとのことで、なかなかの商魂である。さらには、味噌味のピザなんかも出てきている。
刺し身をトマトソースで食べるなど、元時代では考えづらい食文化も出現していて、今後も楽しみである。
生活面では、入浴の習慣がだいぶ普及してきている。各家庭への導入はなかなかむずかしいので、公営の浴場を整備する形が取られていた。料金は一文で、かけそば、かけうどんと同じ設定だった。
金銭的余裕がない流民には、無料チケットを支給して入浴を促しているし、子供はそもそも無料である。入れない者がいるとしたら、仕事をしていない大人とかだろうか。まあ、そこは介入する必要もないのだろう。
一方で、独自に風呂を導入するのも、もちろん歓迎である。商家や工事現場のほか、岡場所などにも設置されているようだ。
必ずしも、毎日欠かさず入ることもないが、習慣づけてもらえれば、衛生面での向上が期待できる。また、単純に悪臭の原因が減らせるとの事情もあるのだった。
一文は元時代での百円相当とされているが、この時代でも小銭程度の感覚だった。それ以下の貨幣は、本来なら鐚銭がその役割を果たしていたのかもしれないが、新田では鐚銭を含めた私鋳銭が回収されて改鋳の材料に回されている。
結果として、一文が最低価格という状態で落ちついていた。
【永禄十一年(1568年)十一月】
十四代将軍の足利義栄は、理由は不明だが死去したそうで、義昭の将軍就任に支障はなくなった。
将軍宣下は十月に行われたのだが、その流れが知己に影響を与えた。関白の近衛前久が追放されたというのである。
足利義栄は、三好三人衆に擁立された将軍候補だった。その三好三人衆によって殺害された先代の将軍、足利義輝は、近衛前久にとっては同年の従兄で、姉が嫁いでいたので義兄でもある、という間柄である。
義輝、義昭の兄弟が属する義澄系は、彼らの父親の代から近衛家と緊密な関係性にあった。
前久卿と義輝とは、夜通し酒を酌み交わすくらいの親しい存在だったそうなので、三好三人衆はその仇であるはずなのだが……、それでも彼らが推す足利義栄の将軍就任に助力したらしい。義輝の正室……、自らの姉が保護されたからというのもあるようだが、畿内を押さえる三好の力を重く捉えたのかもしれない。義昭は幼少期から仏門に入っていたため、さほどの交流がなかったとの事情もありそうだ。
ただ、義昭の側からすれば、本来なら味方であるはずの近衛家の当主が、義稙系の足利義栄の将軍就任に異を唱えなかったのは、裏切りに近い行為と見えただろう。関白職を辞するだけでは済まずに追放となったのは、無理もないのかもしれない。
一方で、いわゆる近衛流摂家と九条流摂家の勢力争いも影響していたかもしれない。近衛家は代替わりしたばかりなので、朝廷内での巻き返し的な動きがあってもおかしくない。
実際、後任の関白には、年輩公卿で九条流に属する二条晴良が就任したそうだ。二度目の就任になるので、還任と表現するらしい。まあ、現状で大きく関わることはないだろう。そう願いたい。
今年最後の八丈島=マカオ船団が帰還した。いや、もはや八丈島=香港船団と改称すべきか。
というのも、商館兼食事処の香港への移転はあっさりと完了したそうなのだ。香港島には事前情報通りに明の水軍の根拠地が置かれているのだが、そこの将が新田の食事に魅せられて、やや強引に誘致した状態らしい。それで、こんなにも早期の移転が実現したのか。まあ、食欲には抗えないよな。
香港島への移転は大きな変化だが、今回の特殊状況としては、インドネシア方面からの奴隷の流入があったそうだ。やや判然としないのだが、ジャワ島辺りで大きめな戦争があったらしく、捕虜から戦時奴隷になった者たちが大量に流入したものと思われる。需要もほとんどなく、扱いが悪化していくと思われたために、安値でまとめて買い入れてきたとのことだ。良い判断である。
ただ、滅ぼされた国と、攻め込んだ側の双方の住民が奴隷化されていたらしく、さすがに別口で扱うのがよさそうという話になった。
買い取ったうちの、帰るところ、身を寄せる当てのある者達は、明やバンテンの商船も含めて手配をして、既に送り届けている。日本に連れてきたのは、帰るところがない人々だった。
滅ぼされてしまった国出身の者たちには、厩橋の一角に自治的な集落を作ってもらうことになった。敵対国出身者には、館林に同様の場所を用意した。仮設長屋や厠などの整備はこちらで済ませている。
厩橋の定住者はイスラム教徒だそうで、モスクを立てたいとの要望が入り、もちろん許諾を出した。一方の館林定住組は精霊信仰の人たちで、それはそれで神社的な感覚に馴染むかもしれない。
どちらも、氏族として閉じて暮らしていけるほどの人数はいないため、やがて地域社会に溶け込んでいくのだろうか。まあ、この時代までの日本には、元々がそうやって様々な人達が入ってきていたのだろうけれど。
そして、イスラム教徒やアニミズムの氏族だけでなく、別の人々との縁もあった。リーフデに次いで二番目に加入した船は、ネーデルラントで発足した改宗ユダヤ人の商会の持ち船だったそうだ。
ただ、改宗は異端審問の魔の手を逃れるための方便だったらしく、ゴアに設置された異端審問所に追われるように、インドから東アジアへと来たそうだ。ゴアへの異端審問所の設置は、イエズス会の創立メンバーの一人、日本にキリスト教を伝えたとされるフランシスコ・ザビエルが進言したものだという。
インドから逃げ出した改宗ユダヤ人たちにとって、東アジアも安息の地ではなかった。イエズス会も勢力を伸ばしつつあるし、スペイン帝国は国策的な異端審問によって改宗ユダヤ人、改宗イスラム人を弾圧している。
それに加えてネーデルラント出身でもあるために、二重の疎外を受けた彼らにとって、新田との連合商会はいい隠れ蓑になったようだ。
まあ、商会としての活動はもちろん、日本でユダヤ教を実践してもらっても特に問題はない。ユダヤ教は、他民族からの入信を受け容れこそするものの、キリスト教ほどに積極的に布教することもないだろう。
商いの方は、まったく順調に進んでいるそうだ。やや心配していた大陸側の中国商人との取り引きも、こちらの船を九龍につけていいとの話で、不便なくこなせたそうだ。
マカオにおいては、ポルトガル人の暮らす地域と一般区画とは、一応は遮断された状態となっていた。香港の場合も、九龍側に行くのは荷物の積み下ろしだけだと考えれば、問題ないのか。
少し冷え込む朝が増え、からっ風も吹き始めた頃、ものすごい風雨が厩橋を襲った。
厩橋だけでなく、関東全域が嵐となったからには、台風だったものと思われる。風も強かったが雨が激しく、洪水が発生してしまった。
幸い、派手な人死には出なかったようだが、田畑や家屋の被害は生じている。ここまでの治水工事で、被害は軽減されたのだろうか。治水方面の家臣団は、もろもろの状況を分析して、進めている方向性の正しさに確信を抱いたようだ。
今回、最も激しい被害が生じたのは、利根川を香取海方面と江戸湾方面に分岐させた辺りだった。想定と違う水の動きになったようで、芦原道真、大道寺政繁、伊奈忠次、鎮龍衆の鎮龍辰巳らが額を寄せて検討した結果、分岐を上流に持ってきて対応することになった。
一方で、利根川の一部と、鬼怒川、渡良瀬川から水が流入した香取海では、水位が上がって洪水に近い状態に陥り、貝の養殖場にも被害が出てしまっていた。
再びの被害を防ぐために、香取海の増水時にのみ、高低差の関係で海へ向けて流れる放水路を幾つか設定することにした。コンクリートを使用することで、崩落しにくくする計画だそうだ。
現状では、外海とつながっているのは、南東の鹿島神宮、香取神宮のある一角だけだが、北東側も恒常的につなげてしまった方が安定するのだろうか。ただ、津波の話もあるし、悩ましいところとなる。
そうそう、鹿島神宮、香取神宮は厩橋の両神社の神主が仮に預かる形となっていたのが、ようやく公卿が送り込まれて、二人とも帰還がかなったのだった。厩橋香取神宮の、弓巫女の凛の祖父でもある老神主はもちろん、鹿島神社の方の若手神主にも野心は皆無のようで、ややこしさ満載の伏魔殿から離れられたのを心から喜んでいた。負担をかけてしまったからには、精一杯労わせてもらうとしよう。