【永禄十一年(1568年)七月】
【永禄十一年(1568年)七月】
足利義氏ら米沢から退去した一行は、本庄繁長によって匿われていたが、晴れて新天地を目指すことになった。
彼らの向かう先は、本庄城域の岩船湊からは日本海を挟んで対岸にあたる、元時代ではロシアの沿海州と呼ばれていた地域となる。
沿海州と言っても、アムール川の河口から朝鮮半島近くまでとだいぶ広いのだが、ロシアの統治下でもっとも栄えている街はウラジオストックだった。
ロシア語で「東方を支配」との意味を持つ軍港都市は、この時代には永明城と呼ばれ、明によって女真族支配のための拠点が設置されているそうだ。明朝と交流している海西女直、建州女直と異なり、素朴な政治体制の野人女直と呼ばれる者達の勢力圏となる。清を建国するヌルハチは、朝鮮半島北西に勢力を持つ建州女直の出身だったか。
ウラジオストックに殴り込むのは現実的ではないため、その東にあるやや奥まった二つの小半島に抱かれるような土地の、元時代でいうナホトカが移住先として狙われたのだった。
……という話を俺が把握しているのは、本庄繁長が匿うのも、日本海を渡る船を用意させるのも、移住先の選定までも、鷹彦を通じて介入しているためだった。
本庄繁長がまとまった数の鉄砲を譲り渡したようだし、移住に同意した人数も結構な数となっているため、女真や明の討伐部隊に攻められても、一蹴されることはないだろう。そして、さりげなく<言語理解>や<身体言語>スキル持ちの忍者も投入している。
土地の名付けについて鷹彦から質問があったのだが、なにがいいだろう。ナホトカは、確かロシア語で発見だったか。
地域名を海奥、街、湊の名を古河の連想から新河でどうだと提案したら、メッセンジャー役の三日月には、呆れたような反応をされた。センスが無いのは認めるが。
新天地候補は事前に探索を済ませており、現状では人の姿は見られなかったそうだ。女真の支配域ではあるものの、たまにやってくるくらいなのかもしれない。
女真族の存在は伝えてあるので、自衛はしてくれるだろう。滅びるのなら、それはそれである。
実際問題としては、移住船団ごと沈めてしまえば、後腐れはないわけだ。そういや、お隣の李氏朝鮮では、退避させると騙して船に乗せた高麗の血筋を、船ごと沈めて根絶やしにしたんだったか。
そうできるくらいの冷酷さは俺にはないし、念のため鷹彦にも本庄繁長にも望まないと伝達しておこう。
奥羽各所で抵抗する豪族衆の制圧を終えた新田勢は、北を目指した。蝦夷地へ上陸し、交流するためである。
蠣崎氏が友好関係を築いてきた勢力は既に存在しているが、敵対勢力もある状態だった。軍勢を見せつけることで、友好氏族の力になり、敵対氏族への牽制を果たそうとの思惑もある。
全体としては威圧になってしまうが、無駄な争いを避けるためと考えれば意味はあるだろう。
今回は幹部が勢揃いで、友好氏族との交流が活発に行われた。これには、新田学校で養成され、北方に派遣されていた通訳陣が大活躍となった。料理や酒は基本的には新田で用意したが、アイヌ側が準備してくれた品々も供された。
青梅将高は<人たらし>スキルを存分に発揮していたし、小金井桜花が紹介する銃や、加藤段蔵、猿飛佐助らの体術系忍術も感嘆の対象となった。
氏族の長らと商いをする者達を交えて、粘土箱による蝦夷地、樺太、沿海州、千島の位置関係を示しつつ、通商拠点の構築についての相談も重ねた。
これまでの蝦夷アイヌによる北方交易では、小舟で樺太に渡った後は、徒歩や馬での道行きが基本だったそうだ。新田で築く拠点を集積地として開放する他、船も利用してくれて構わないと伝えると、彼らとしても歓迎とのことだった。
ただ、樺太アイヌはその仲介をして利益を得ている面もあるので、その整合のために樺太まで渡ってくれないかとの要望が出てきた。
乗りかかった船ではあるし、船団で樺太へと向かい、威圧含みの交流を進めてみた。樺太にも毛皮などの産品はあるが、実際にはアムール川の河口周辺に住まう部族が明との朝貢貿易で得た物品を、蝦夷地からの産品と交換している状態だったようだ。
樺太南部のアイヌ達は、いきなりの軍勢の登場に驚いたようだったが、蝦夷アイヌの者達が間を取り持ってくれ、また、通詞勢と青梅将高らの活躍でどうにか友好関係を築くことができた。
北との交易のための船を出すので、一定の料金はもらうものの、自由に使ってほしいと提案すると、ひとまずの了承は得られた。まあ、このあたりは積み重ねで信頼感を醸成していくしかないだろう。
空き地に湊、町を設置することは、彼らも立ち入り自由として、人足として現地人も雇用するとの条件で、あっさり受け容れられた。氏族同士の戦いはあっても、本格的な侵略を受けた経験は少ないのかもしれない。
新田としては、アイヌから収奪するつもりはない。一定の徴税はありうるが、共存共栄を目指したいところとなっている。
アムール川経由での明との交易は魅力的だが、どちらかと言えば、蝦夷、樺太で産業を振興して、豊かになっていってほしい。一方で、将来の北からの侵入を考えると、防備を固めておきたいのも確かなのだった。
蝦夷アイヌの代表者らとは、樺太への旅を共にしたことで、ある程度の信用は育めたようだ。ただ……、交流をひとまず締め括ろうかとのタイミングで、若者を派遣しようとの話を持ってきたのは、人質のつもりなのだろうか。
族長の身内よりも、別の世界に興味を示す少年を集めてもらって、その中から選別したいと伝えたところ、友好氏族から結構な人数がやってきた。
▽印持ちからステータス値、保有スキル的に期待が持てそうな少年少女らを選別し、また、強く希望する子らも含めて、関東に招待することになった。まずは彼らに見聞を広めてもらうのが優先だが、できればこの流れを定例化させたいところでもあった。
ただ、もちろん蝦夷アイヌは一枚岩ではなく、蝦夷地は広い。友好勢力の輪を広げていくのと同時に、新田と付き合う利益を提示していくとしよう。幸い、友好氏族には料理も菓子も茶も酒も好評だった。そのあたりが突破口になってくれればよいのだが。
軍勢は一部を蠣崎の拠点に残留させて、ほとんどは関東へと戻ることになる。ただ、万一の遭難の危険を考えて、武将も兵も、時期、経路を分けて移動するようにした。そもそも奥州を今後の任地とする者達もおり、そこはばらばらだった。
先行して香取海経由で戻る船には、四十人ほどのアイヌからの少年少女も同乗している。彼らには粘土箱を使って、蝦夷地の周辺、奥州の現状、日本の情勢、明、南蛮の進出状況等も含めたより広い世界を示してみたが、ついてこられる人数は限られた。逆に、十人ほどはもっと教えてくれと熱い視線を向けてきていた。
その他の分野も、興味を示す者、敬遠する者が出る中で、三人が全分野に強い関心を抱いているようだった。新田学校に放り込むか、いっそ道真の側近にするか。
そう宰相殿に打診してみたら、むしろ俺について動いた方がよいのでは、と返されたので、ひとまず実行してみることにした。その三人以外は、興味のありそうな分野の新田学校の研究室に送り込む。一方で、さほど知識欲がなさそうな面々は剣豪勢に託して、修業ぶりを見せつつ物見遊山への連れ回しを依頼した。
アイヌの少年少女を引き連れて訪れた開発局では、船上大砲の改良や、鉄砲時代を見越した軽量板金鎧・兜の試作が行われていた。北条幻庵が顧問となっている民生部門は、別棟を拠点としていて、そちらでも様々な計画が進行中のはずだ。
従来からの鎧兜や刀は時代から遅れつつあるが、明や東南アジア諸国からの引き合いは強い。名工レベルでなくてもよいようなので、領内では集団生産方式で作るようになっていた。
アイヌの子らを厩橋の街の料理処に連れて行ったところ、三人とも状況がつかみきれていない様子だった。まあ、無理もない。
彼らは揃って十四才で、男の子二人はアドイとマキリ、女の子はチニタという名を持っている。外見的な差異はほとんどなく、和人風の服をしていると、そうそう見分けはつかないだろう。
同化させるつもりはないが、知識を吸収するにあたっては、その姿の方が楽そうだ。既にチニタは片言で和語を話し始めているし、二人もそれに続いている。彼らがアイヌと和人の架け橋になるか、あるいは敵対する旗頭になるのかはわからないが、まずは相互理解を進めていくとしよう。
とりあえず、チニタは和菓子にはっきりと魅了され、マキリは天ぷら、アドイは焼き鳥がお気に入りのようだった。