【永禄十一年(1568年)四月/五月/六月】
【永禄十一年(1568年)四月】
南部領での掃討戦が続いている。領民からすれば、新田は未知の存在のようだが、孫子の一節、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」をあしらった北畠の旗印は、この地の人々には安心感をもたらすもののようだ。かつて奥州の統治者だった北畠顕家は、伝説の中の人として親しまれているらしい。
風林火山かと呟いたら怪訝な顔をされてしまった。となると、四字に略されたのは後世になってからなのか。
武田も使っているこの孫子の旗印にしても、軍神殿と同じく毘沙門天を信仰していたらしいことからも、天才少年公家武将として建武の時期を駆け抜けた北畠顕家の影響力はやはり大きそうだ。
そして、今回は新田が鎮守府将軍で、顕家の末裔が協力しているとの構図は、なにやら得心がいくものらしい。まあ、利用できるイメージは、利用しておくべきなのだろう。
実際のところ今上は、南朝の象徴的存在だった北畠顕家と俺とを意図的に重ねて、幕府の序列から離れた高位公卿として取り込もうとしているのだろう。まったく、食えないお人ではある。
南部残党の城に拠っての散発的な抵抗は、圧倒的な大軍での攻囲で開城を迫っていく。この状況で力攻めをする必要はない。
各所での戦いを終えた軍勢は、不来方へと集結していた。元時代では盛岡があった土地だが、先日まで斯波氏が領していて、お世辞にも開けた状態ではない。
この地を当面の本拠と定めて、先遣隊が花巻へと向かう。不来方と花巻は内陸の土地で、不来方の湊として宮古、花巻の湊として釜石、というような位置関係だった。ただ、この地の海沿いは、津波対応が必須となる。江戸時代の初期には、慶長三陸地震が来るはずなのだ。
高台に拠点を置いて、港湾は避難路を設定しつつ整備し、夜間の居住は禁じるとの指示は、当初は意図が理解されなかったようだが、粘り強く説明するうちに内政を担当する者達には周知することができた。粘土箱に水を入れて、地形による波の動きを再現したのも大きかったようだ。
それを徹底させた上でならば、水産物の水揚げ、加工拠点として、また、不来方、花巻の外港として、重要な役割を果たしてくれるだろう。
南部の当主、信直は戦闘での負傷がもとで命を落としたそうだ。残党は、南へと向かっている。花巻を越えれば、事実上の伊達の勢力圏となる。かくして、関東から奥州までの多くの勢力の退転した当主、一族らが米沢周辺へと結集する事態が生じたのだった。
友好勢力である戸沢氏の所領を通って湊安東の領域へと出た俺は、海路を佐渡へと向かった。佐渡の開発、軍勢の強化の方向性を調整するとともに、本庄繁長に相談すべき事項があったためだった。
それはそれとして、佐渡では既に田植えの準備も進み、竹細工や工芸品の振興の話も始まっている。また、湊の整備に、造船拠点の構築も進んでいた。
本命の鉱山開発は、秩父からの木霊屋率いる鉱夫らと、新田の鉱業系スキル持ちが連携してあたる予定となっている。
それらを統括する新田側の代官的な役割は、用土重連に任せることにした。佐渡が発展してくれると、色々と助かるのだが。
【永禄十一年(1568年)五月】
伊達にとっては、春になったら北側に新田とその連携勢力が現れていたのだから、驚いたことだろう。けれど、交渉を求めてくる動きはなかった。
……新田なんて軽く撃退できると最初にぶち上げてしまっただけに、引くに引けなくなっているのかもしれない。所帯が大きいと、方向転換が難しいのは、無理もない話となる。
この段階になって、新田側から平身低頭に和平を求めては、後々まで禍根を残すだろう。北と南に分かれて、粛々と攻撃準備が進められた。
【永禄十一年(1568年)六月上旬】
伊達の北方には、葛西、小野寺、大崎の親伊達勢力の領域がある。彼らも戦闘態勢を解いていないので、一気に攻略する流れとなりそうだ。
そのため、伊達家そのものへの攻勢の主力は南側となるわけだが、多少でも伊達から援軍を引き出せるかもとの思考から、北側から先に攻める形とした。
南の総司令官は青梅将高が、北は神後宗治が引き続き率いている。水軍は小舞木海彦、九鬼嘉隆に、月姫と虎房が率いる湊安東勢が連携し、また、砲船隊は九鬼澄隆がまとめていた。
北の忍者隊は町井貞信と小金井護信、静月、出浦盛清が手分けする形となり、南は三日月がまとめて多岐光茂、霧隠才助が補佐役となっている。加藤段蔵、猿飛佐助に愛洲宗通らは、縦横に暴れまわるつもりのようだ。
まず北の大崎、葛西と開戦し、五日後に南から攻め込んだところで、海から上陸しての侵攻も行われた。
そして、奥羽での事実上で最後の戦いとなる見込みであることから、大砲、バリスタの本格的な運用と、鉄砲集団戦が解禁された。結果は、蹂躙と呼ぶべき状態となった。
【永禄十一年(1568年)六月下旬】
抵抗を続けている拠点はあるものの、戦後処理と表現できる状況へと移行していた。
伊達と言っても一枚岩ではなく、主に抵抗したのは前当主の晴宗に近い勢力だった。当主の伊達輝宗ももちろん防戦に参加していたものの、撤退は早めのようでもあった。
国人衆の留守、亘理、黒川などには伊達の養子が入っており、単独で講和しようとの機運は見られず、制圧していく形となった。
伊達の一族と、そして米沢に滞在していた自称古河公方の足利義氏、佐竹の当主・佐竹義尚に、里見義堯、蘆名盛氏・盛興親子、南部の一門衆らは落ち延びていったようだ。
なお、宇都宮広綱は流亡生活のうちに病没してしまったらしい。一方で、足利義氏の直臣的な立場の正木時茂、梶原政景は元気でやっているという。
今回は退路を断っていないため、武将だけでなくついていく兵たちも一緒の逃避行となる。
彼らの落ち延び先は、米沢の西、長井庄から小国へと山間の道を進み、やや山に分け入って日本海側に抜けるルートとなる。行き着く先は、本庄繁長が治める本庄城域だった。
伊達の北にいた勢力のうち、小野寺氏の当主らは落ち延びた先の大宝寺氏に保護されたようだ。
大宝寺氏は、出羽三山の別当を務める家で、家中は混乱気味のようだが、本庄氏と関係が深い。その影響か、初手から新田による鎮撫を妨げない姿勢を見せていて、手出しはしない方向となる。
出羽の勢力としては、他は最上氏と由利十二頭が目立つところだろうか。最上家は当主に返り咲いた義守が実権を握った状態で伊達と連携したため、まとめて攻撃対象となった。最上義守と家臣らは去っていったが、謹慎させられていた最上義光と対面することができた。
岩松守純の連歌会の初期からの参加者で、軍神殿、関白殿、道真が発句を送った相手でもある。新田としての交流は長いのだが、俺自身は初めての対面となる。
百八十センチ級の偉丈夫だとは聞いていたが、確かにでかい。元の時代ならありふれていたが、現状ではだいぶ目を引く状態ではあった。
ただ、決して弱腰ではないにしても、物腰は柔らかで、やはり文武両道との印象が強い。
「今回の件は残念だったろうが、謹慎させられていた者を敵対者として放逐するつもりはない。よければ最上の旧領を任せたいが、いかがか」
辞儀をした最上義光は、あっさりと首を振った。
「父親が復権した状態で敗れた以上、所領を安堵される理由がございませぬ」
「まあ、それはそうなんだが……」
その上で、新田学校の和歌教室の下働きでもいいので臣従したいと求められたため、受けるしかなかった。
さすがに、学校の下働きをさせるわけにはいかない。武力と文化面を兼ね備えた人材であるので、明智光秀に預けてみるとしようか。